先日、「台風を遊び倒す」ような物語について、ちょっと、おそるおそる日記に書いた。
不謹慎だと咎められないように、わざわざ前置きまでつけて。
そのあとで、あらためて考えたことがある。
今の社会、というより受け手としての一般人の空気は、ずいぶん不寛容になっているのではないか。
もちろん実際にはいろいろな人がいるのだろうが、SNSの時代になると、その平均的な姿よりも、いちばん極端な反応のほうが目立ってしまう。
その結果、社会全体が実際以上に息苦しく見えることがある。
思い出すのは、『ちび黒サンボ』をめぐる騒ぎである。
あれは、最後にトラがぐるぐる回ってバターになるという、実に奇想天外でファンタジックな物語だ。
題名の響きに引っかかる人がいるのは分かる。
けれど、少なくとも物語そのものを読めば、そこに露骨な差別の意図があるわけではないことは、普通に読み取れるはずだと思う。
それを題名だけで断罪してしまうのは、やはり少し窮屈ではないか、という気がする。
また、昔のドラマ『細うで繁盛記』で冨士眞奈美が演じていた、名古屋弁で小姑根性を全開にしたような人物も思い出す。
あれは明らかにカリカチュアで、笑いを生むために誇張された演技だった。
ところが今の社会を見ていると、むしろ受け手の側があの人物像に近づいてきているようにも見える。
そう考えると、これは二重のカリカチュアのようで、少しおかしい。
結局のところ、漱石の『草枕』の「とかく人の世は住みにくい」という言葉に戻ってしまう。
ここでいう「人の世」を「世間」と置き換えてみると、橋田壽賀子の『渡る世間は鬼ばかり』にもどこか通じる気がする。
人が集まるところには、どうしても窮屈さや面倒くささが生まれるのだろう。
ただ、だからといって、何でもすぐに断罪し、少しでも気に入らない表現を許さない方向へ進むのは、やはり違う気がする。
不寛容に対してさらに不寛容で返していけば、ますます息苦しい空気が強まるだけだろう。
むしろ必要なのは、少し受け流すこと、少し余白を持つこと、そしてすぐに裁かないことではないか。
今日のところの結論としては、やはり寛容な気持ちこそ大事なのだと思う。
とくにSNSの時代には、目立つ不寛容な声に引きずられず、まずは一呼吸おいて受け止めるくらいの余裕を持ちたい。
そんな寛容さが、ますます大切(肝要)になっている気がする。
ログインしてコメントを確認・投稿する