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2026年04月19日06:51

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読書感想文は、読書好きを増やすか? そうは思えない。では、読書好きとは何か。

『本を読めなくなった人たち』(稲田豊史、中公新書)を読んでいて、なるほどと思った箇所があった。
「読書感想文の書き方」みたいなハウツウ本を読んで、宿題の読書感想文を書く者がいるだろうか、という話である。

たしかに、これはなかなか痛いところを突いている。
読書嫌いの子が、嫌々本を読まされ、さらに感想文まで書かされる。そんな状況で、そのうえ「感想文の書き方」まで読めと言われて、素直に読むだろうか。私なら逃げる。
逆に、本好きの子なら、そんな本に指図されなくても勝手に書き出すだろう。つまりこの種の本は、いちばん必要そうな人には届かず、届く人にはあまり必要ない。なかなか見事な構図である。

夏休みの宿題の定番、「一冊本を読んで感想文を書いて提出せよ」。
学校側としては、これをきっかけに本好きに、文章表現好きに、という善意に満ちた期待があるのだろう。
だが現実には、その逆に「本嫌い」「作文嫌い」を量産していたのではないか、と私は疑っている。

もちろん、読書感想文コンクールに出せるような名文を書く子もいる。
だが大部分は、指定された枚数のかなりの部分をあらすじで埋め、最後に「面白かったです」「感動しました」と二、三行つけて終わる。
そして宿題としては、それでだいたい通る。
これで読書の喜びが育つかというと、どうも怪しい。
むしろ「本とは、あらすじを抜き出して最後に感想を添えるものだ」という、妙な作文技法だけが身につく気もする。

そもそも、自分に合う本を選ぶこと自体が、慣れていないと難しい。
『本を読めなくなった人たち』には、ファッションに無関心な人が自分に合う服を選ぶ難しさを想像してみてほしい、という趣旨の話が出てくる。
これはよくわかる。
本好きにとっては「本屋で適当に見てピンと来たものを選ぶ」など朝飯前でも、そうでない人には、あれはほとんど特殊技能である。

とくに、文部省推薦図書だの課題図書だのの、あの「君たち、こういうのが好きなんでしょう?」感のあるラインナップ。
少なくとも当時の私は、かなり白けていた。
いったい誰が推薦したのだ、と中学生ながら思っていたものである。
たぶん推薦した人は、推薦される側の中学生と、あまり仲がよくなかったのではないか。

私が中学生のとき、読書感想文の宿題に選んだのは、小松左京の『復活の日』だった。
まだ角川が映画化するだいぶ前である。
今にして思えば、推薦図書でもない大人向けSFを持ち出すあたり、国語教師を少し困らせてやろうという、ささやかな悪意、もとい悪戯心があったのかもしれない。

さらに無責任な仮定法過去完了で遊ぶなら、宇能鴻一郎や団鬼六の官能小説、あるいは平井和正『少年ウルフガイ』の「博徳学園」編あたりを提出していたら、どうなっていただろう。
平井の作品は教師とPTA役員の不倫、体育教師の暴力的締め付けなど、なかなか教育的配慮に富まない内容である。
提出された国語教師の顔を想像すると、少し楽しい。
もっとも、呼び出されるのはたぶん私のほうだが。

そのころ、もう一冊読んでいた本がある。
湯川秀樹ほか『素粒子』(岩波新書)である。
これも立派に読書なのだが、国語の先生に出しても、たぶん先生のほうが困る。
そう思って、これはやめておいた記憶がある。

けれど今にして思えば、これもちゃんとした読書だったはずだ。
小説でなければ読書ではない、感情移入できる物語でなければ感想文にならない、という前提そのものが、ずいぶん狭い。
読書の入口を広げるつもりが、かえって「正しい読み方」「正しい感想」の型にはめていたのではないか。

本を読むのが好きになることにも、人それぞれの差がある。
努力すれば好きになれるかと言えば、そこは少し怪しい。
それは、努力すれば100メートルを10秒そこそこで走れるようになる、と言うのに少し似ている。
できる人はできる。だが、誰にでも可能とは限らない。
読書好きも、案外そういうものではないか。
少なくとも、「夏休みの宿題で感想文を書かせれば本好きが育つ」という発想は、ずいぶん牧歌的にすぎるように思う。
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