真実のふつう
平安 いしき 存在
それが真のふつうです
私は苦しみであり どこかへは苦しみであり
信じるも苦しみです
それらは実在しないのです
聖なる瞬間(真の現在 今この瞬間)とは
概念がおきるまえであり
純粋いしきがただあることです
一瞥経験した
という概念はマインドが作った概念であり
実際は
誰かが何かを経験しました
ということではないのです
時間も場所も状態も実在しないため
瞬間も過去も現在も未来も実在しておらず
状態もありません
臨在とは
ただ在ること
であり
啓示も同じことです
神も神の子も
創造も実在しません
純粋いしき(分割されないいしき)はただ在るのです
赦しも幻です
何もする必要はありません
坐禅も必要ありません
(誰かが座っても、何も変わりません)
瞑想も必要ありません
(瞑想は、誰かが何かをしている迷走状態であり実在しません)
祈りも必要ありません
(幻の二元状態は実在しません)
愛も必要ありません
(誰かが何かにたいして活動していることは幻だからです)
神の愛も必要ありません
愛(活動)は幻だからです
救済も幻です
誰かが(何かによって)何かを救うのは
幻だからです
純粋いしきはただ在るのです
それが真の常識(真のふつう)
ナチュラルです
みずからまでの距離はありません
私(は在る)という概念さえ必要ありません
私という概念は
純粋いしきから空想で作っている概念だからです
ふつうのいしきまでの距離はありません
ふつうのいしきまでの時間はありません
ふつうのいしきをもつ者もいません
ふつうのいしきのために努力はいりません
方法もありません
探求者も、探求も、探求方法も、選択、決断も
探求される何かも
実在しないのです
神からの分離(距離)はおきている
は
妄想です
私も神も距離も距離の穴埋め(聖霊)
も妄想です
何かを分けている線も
同じ純粋いしきであり
内側も外側も分けている線も
同じ純粋いしきです
溝も溝の穴埋めも同じ純粋いしきです
それらの本質はふつうのいしきであり 同じであり
何もわかれていません
私は一歩下がって聖霊にまかせる
は
概念です
私は背後にあるものにまだ帰れていない は概念です
私はまだたどり着いていない
は
概念です
みずからに距離はありません
距離がないので
時間もありません
誰かがどこかへ行くことも実在しません
誰かがいつかたどり着くこともありません
誰かがいつかそこにいたこともありません
ふつうのいしきは分割されていません
行くことも帰ることも幻です
私は内側にいきたい
という二つのいしきは実在していません
ふつうのいしきはひとつだからです
私も内側もありません
私といういしきと、内側といういしきは
同じいしきであり
私や内側は概念であり実在しないのです
私や私よりも内側や、私より外側もありません
私はどこにもいけないのです
そもそも
私という 内側が実在してないのですから
ふつうのいしきは
内側 外側 というふうに二つあるわけではありません
いしきはひとつです
わかれていません
内側がないので
そもそも私はないです
私がないから
私より内側も 私より外側もなく
すべては概念です
ふつうのいしきはひとつとしてただ在るのです
内側、外側がないため
自意識も客体意識もなく
シナリオもなく
魂もなく 次元もなく
身体もありません
魂という内側 私
身体という内側 私
も実在しません
外界も実在しません
ふつうのいしきは分かれていません
分かれていないので統合も幻です
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