素人による仏教雑談
仏教では
五蘊(ごうん 色受想行識)に執着して取ること(五取蘊)
が
我、我所
つまり
私、私のもの、という自我、私有物
という勘違いがおきる(ゆえに五蘊は無我である)と説明する
(そして、我自体が有るか無いかについてはブッダは議論しなかったとされる)
さて
?
ではそもそも「五蘊に執着する存在」とは何なのか?
である
五蘊が五蘊に執着するのだろうか?
あるいは
五蘊とはべつの存在が執着するということであろうか?
いずれにせよ
そもそも五蘊を作りだしたのは何なのであろうか?
なのである
それは
五蘊以外の存在
つまり
涅槃と五蘊のあいだにいる存在ということになる
仮にそれを大自我としよう
あるいは後の時代の唯識派ではさらに末那識(スピリチュアルでは魂のような中間的力動)というものを想定したのである
しかし
では、
大自我(すべての五蘊を作り出す力動)を作りだしたのは誰なのか?
ということにもなる
のこるは実在(涅槃)しかない
しかし、涅槃は寂静である
ということは
実在には
涅槃(ただ在る)だけでなく、無邪気なワクワクというサブ性質もなくてはならない
これが
仏教についての形而上学的な疑問の帰結になるかもしれない(仮説である)
仏教では
五蘊はそもそもなぜ生ずるか説明がない
誰が執着するのかも説明がない
無明が原因であると説くが
そこで語られる無明とは、現象(五蘊とか縁起)という性質をしらないことや
解脱の方法をしらないと説くが
これは話のすりかえをしているにすぎない
質問は
なぜそもそも幻のような五蘊がそもそも現れたのかと聞いているのだ
その解答について
一応上記の仮説を試みた
仏教はある意味では中途半端な教えであり、
12縁起は、3世的因果応報の流れの説明でしかなく、形而上学ではない。
無明は前世の貪瞋痴という説明にすぎず、
行は前世の業という説明だけである
未来世においての、
有(転生)
生
老死
もたいした説明になっていない。
のこりの中間の現世についての説明は
諸々の識
名色
からの説明がはじまる
だが、諸々の識別作用、名、色はこれらの3つは互いに依存していると原始仏教パーリ聖典に説明されている
そして原始仏教のパーリ聖典ではそれ以上の原因(縁起)はかかれていない
識によって名色が
名色によって識が
生じる
と原始仏教パーリ聖典による縁起説明は終了している
(それより前の
無明、行は、過去世の同義であるから、なんの説明にもならない。)
今世の縁起の話にもどろう、
今世については
識、名(精神)色
のあとは
六処(五感と意)
接触
受
そして、
渇愛
取著
が現世である
さいごの2つこそが仏教では、原因、といわれ、輪廻か解脱を決定する段階なのだと説く
(縁起の途中からそれをなくせといわれて
も、はたしてできるのだろうか?はなはだこの説に疑問を感じざるをえないが、この疑問については、以下のように仏教は回答しているのかもしれない)
前世の無明、行
の状態について
より細く説法された今世の縁起説明(現世7段階)が
明智からの説明なのであり
そして
行にあたる
渇愛、取
を今世でやめることを推奨しているのだと仏教は説明しているのではないだろうか。
さらにそのやめる方法を詳しく説明したのが
8正道なのである
四聖諦は、
12縁起、8正道をあわせたものだと要約できるであろう。
つまり仏教というのは形而上学ではなくて、
矢(無明、五蘊)がなぜおきたのか?を問うたり議論せず、煩悩(貪瞋痴)をなくす努力をせよ
ということからはじめるのではなかろうか。
ゆえに解脱は出家以外の場合でも可能なのかは疑問がのこるが、
ヴィパッサナー瞑想関係の説明では阿羅漢より1段階手前までは可能であると、ウジョーティカ氏は説いているそうである。
以上、素人による仏教談義でございました。
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