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2026年09月13日17:50

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素人の唯識説、雑談

素人による唯識説の途中雑談
(以下は読書途中の仮説です)

仏教における唯識説(ヨーガ派)
においては、
輪廻は
シナリオまたは時間的投影説明では無始無終とする
また、原因説明では、無明であると説く(つまり真如をしらないこと)
これについては、
何が無明を作ったかは述べていない
(笑)

また、唯識説にとっては
輪廻の主体を阿頼耶識というが
この主体とは
シナリオに描かれた運命存在のことにすぎない
(唯識説の話は、主体である大自我のことではないからである。客体意識上の蔵に描かれた「シナリオ」の話だからである)
唯識説は
大自我が維持している
「シナリオ」のレベルの話にすぎないのである。そのレベルを「輪廻主体」とよんでいるだけである。
部派仏教時代の、上座仏教では潜在的な「有分識」にあたる

ちなみに、阿頼耶識の阿頼耶(アラヤ)という言葉について原始仏教の時代の意味では、執着する、執着する対象という意味である

そして、阿頼耶識レベルの種子の習気のことをヴァーサナーというのである

ちなみに、シナリオ(輪廻主体)における
色界レベルの五根(浄色所造の色根つまり勝義根)は、高次元の五感のことであり一次的五根のことである(つまりスピリチュアル的にいえばライトボディ?などなど)
また、
二次的五根とよばれるいわゆる物質的肉体(四大種所造色)があり
この二つをあわせて
有根身
という

また、唯識説は
心と身は安危同一と説く
利益と損害は相関しているという

さらに
安危の安については
より深く涅槃を暗示するものとして
語る場合には

転依(質的変化)のことをいう
つまり阿頼耶識から涅槃へ癒す
という意味になる

唯識のヨーガ派における
サマタ(より微細な対象への止)瞑想というプロセスとしては
心軽安、身軽安という状態がある
これは
肉体へのフォーカスが
よりユルまった
状態にとどまる瞑想であると再解釈できるだろう

唯識説は
世俗諦の教法においてはアラヤ識を含めて8識を説く(方便)が

しかし
勝義諦では
円成実自性(真如)を説く。真の意味では
阿頼耶識もふくめて8識は幻だからである
そして
悟りによってはじめて
依他起性(空性縁起つまり、唯識説では阿頼耶識縁起の展開)という世俗諦の教法ができるようになるのである

(仮説として付記)
仏教の瞑想における、
空無辺処はシナリオを作成する場
であり
識無辺処は(大自我の枠内にある客体意識のことである)

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