「私は在る」
が癒されるためには
私は、在る、からきた
という癒しである
それが
直観(ただ在る)の真意である
それ以外は
直観ではない
それ以外は
ただ在るのなかの空想にすぎない
在るの
中に(内側)に個を想定(もしくは、在るの外側が仮にあると想定してそこに個があると空想)
しても空想でしかない
「私が自由にしたらどうなるのかしら?」
は
実在によって個がまず空想され
空想されているまだたんなる個に、さらに主体化催眠を想像する
まさにここまでが
実在によるものである(正確には、ただ在るのサブ性質である無邪気なワクワクによるものだが)
主体化催眠は
空想されたものということを忘れているため
この意味ですでに解離している
したがって正確にのべるなら、
奇跡講座で、
キリストによる、主体化催眠(私 の想作)
と
そのあとの
解離催眠(エゴ)
と
二つにわけていることは誤りであるといえる
直観(在る)の無邪気なワクワク
により
空想、
催眠(主体化 つまり活動現実化)
された
そして
主体化催眠(すでにエゴ)は
好奇心と苦しみという(ただ在るを忘れた特別性だけの)ニセの存在であり
主体はニセの神を想定し(そして、ニセのスピリチュアルメソッドも想定するだろう)
特別の愛の天界と
特別の苦しみの地獄界までを投影妄想する
主体化催眠、主体化催眠の解除
は
実在によりなされることなのであり
すべてはオートマチックである
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