ラディカルノンデュアリティ説
(最近流行の、過激なノンデュアリティ説)
の崩壊について
ラディカルノンデュアリティの説明においては次のように説明されます。
私なしに、何かが起きています。
ひとつの実在から、何かが湧いて起きているのです
湧いている何かのほうは実在ではありませんので、
主客という関係には成りません
そして
そこに、私はいませんので
その意味においても主客ではありません
ひとつの実在からのみ
すべての現象が湧いております
以上がラディカルノンデュアリティ(最近流行の過激なノンデュアリティ)の説明です
この間違ったスピリチュアル説を
崩壊させましょう
ラディカルノンデュアリティ説では
ひとつの実在から殺人、戦争が起こされている
ことになります
その実在とは狂った実在であるにちがいありません
しかしそうではなく
ひとつの実在が、試みにより
無知な私を設定し、
その架空の私(主体)が世界を想像していったとすれば
ひとつの実在が、狂った世界を作ったとはいえません。
これはインドの伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタやACIM(イエスによる奇跡講座)の説明に近いといえます。
ラディカルノンデュアリティの「戦争も殺人も、ただ起きている実在の現れだ」という冷徹な説明は、実在を「狂った全能者」のように感じます。
しかし、そうではなく
試みもしくはバグという設定モデルならば、
それらが実在の本質ではなく、無邪気なワクワクにより設定された個から、
『私』という催眠的無知により
バグのように映し出している空想世界であるといえるのです。
そして、
催眠を解除できるのも、正気である実在です。
ラディカルノンデュアリティ説では「なぜ私という錯覚が生まれたのか」を説明できません(「ただそうなっている」と逃げます)。
しかし、
ナチュラルノンデュアリティの説明では「私=個の主体化現実催眠という設定を置いてみて世界を空想させる実験・ゲームである」という明確な目的(あるいは仕組み)として動機の説明ができます。
「実在そのものが愚かで狂っている」という結論をもたらす説よりも、実在が置いてみた『個の私』というプログラムが、勝手に悪夢を空想したとする方が、
説明としてわかりやすく、さらに空想されたボディの経験である五感や思考は現象にすぎないという気づきとも矛盾しません。
ラディカル(過激な)ノンデュアリティ説明による混乱は以上のように修復されるのです。
正気であるナチュラルノンデュアリティにより混乱は終焉します。
ナチュラルノンデュアリティの説明においては
実在(ただ在る)におけるサブ性質
(無邪気なワクワクつまり活動性の能力)による試み
↓
空想された個
↓
主体化解離催眠=「私」という無知
(好奇心と苦しみの空想存在)
↓
私による空想客体、シナリオ
それらを経験する魂たちを設定する
↓
各次元のボディ、環境がシナリオから投影された
五感、思考
特別の愛、憎しみ、和解、戦争など
の演劇が現れる
(試みの反省)
そして
空想により実在の量は増えず
空想は実在よりも希薄であり、より幸せにもなれず
空想努力は疲れるだけであり
実験は終焉する
(私という催眠の解除)がおき
同じ誤りはもう二度とおきない
これがナチュラルノンデュアリティという永遠平和です
「ただ生が起きている」というラディカルノンデュアリテ説は、一見すると「私」が消えたように思えますが、
実はまだ「私」を
「生(ライフ)」や「全体」という別の言葉にすり替えただけにすぎません。
ラディカル(過激な)ノンデュアリティの説明は、いまだに「私という信念」つまり催眠を微かに残した不徹底な描写です。
それは「私」が完全に消えているのではなく、
「私」という信念(催眠)を残したまま、私のみを否認している説明になっているのです。
この偽のピュアノンデュアリティの教えによる混乱を終焉させるのが
完全な不生(何も起きていないようにみえる)の視座である
ナチュラルノンデュアリティによる癒しであります。
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