このところ、ゼノンのパラドックスのことをきっかけにして、「わかる」とは何か、「わからない」とは何かをあれこれ考えていた。だが考えているうちに、ゼノンそのものはむしろ後景に退いて、もっと一般的なことの方が気になってきた。
ゼノンのパラドックスは、俊足のアキレスが先に出発した亀に追いつけない、という逆説である。これは、無限分割したモノが有限値に収束する事が「わからない」人もいるが、その人も日常的判断でアキレスが亀に追いつくことは「わかる」。
人はよく「わかった」「わからない」と言う。けれど実際には、その二つはそんなに単純な二択ではないのだろうと思う。
たとえば、現実の場面では十分に「わかっている」のに、それを高い解像度で説明しようとすると急に怪しくなる、ということがある。
野球で飛んできたフライを自分が捕れるかどうか、野手はかなり一瞬で判断する。捕れると思えば全力で走るし、無理だと思えばクッションボールの処理に切り替えて失点を最小にしようとする。この判断は、放物線の式や自分の走力や到達時間をいちいち計算しているわけではないのに、かなり正確に働く。あとからその判断をグラフや数式で説明することはできるが、その「わかる」は最初の「わかる」と同じではない。
食事も似ている。普通に「これだけ食べれば今日は十分動ける」とわかることと、食べたものを成分に分けて、消化吸収や代謝や ATP の循環に分解して「十分」とわかることは、やはり別の層の理解だろう。前者でも人はちゃんと生きていけるし、行動できる。後者はそれをより細かい言葉と理論で記述したものにすぎない。
こう考えると、「わかる」には少なくとも深さや解像度の違いがあるのだと思う。
行為するのに十分な仕方でわかること。
あとから理論的に説明できる仕方でわかること。
さらに、他人がどこでつまずくかまで見抜いた上で、その人に合わせて説明の仕方を変えられる仕方でわかること。
これらは全部「わかる」だが、同じ一語で済ませるにはずいぶん中身が違う。
すると、「わからない」の方もまた一種類ではない。
単に知識が足りないというだけではなく、何がわからないのか自分でも特定できない、という状態がある。これは厄介だが、まだ開かれているとも言える。自分の中に空白があることは分かっているからだ。
もっと厄介なのは、本人は「わかっている」と確信しているのに、実はまだよくわかっていない場合かもしれない。これは知識不足というより、「わかったつもり」の問題である。定義を覚えたり、例題をなぞれたりしても、少し条件が変わると途端に使えなくなることがある。こういうとき、本人の中では理解は完成しているつもりなのに、実際にはまだ浅い。こちらの方が、場合によっては「わからない」より深刻である。
教育の場では、このことがいっそうはっきり見える。
たとえば私の退職前の教科の物理で、運動量保存の法則を使って二球の衝突問題がきちんと解ける生徒がいる。テストでも満点を取る。これはもちろん、一つの「わかった」である。だが教える側から見ると、その理解はまだ入口でもある。作用反作用とのつながり、さらには保存則が空間の並進対称性と結びついていることまで見えて初めて、もっと深い理解が開ける。しかし授業時間にも受験にも制約があるから、ネーターの定理まで踏み込んでいると間に合わない。すると教師は、もっと先があると知りながら、どこかで「この段階ではここまででよし」と線を引かざるをえない。そこには教える側の限界も、教わる側の限界もある。
作品の読解でも同じことがある。若い頃に読んで「わかった」と思っていたものを、年を取ってから読み返してみると、当時の理解はかなり浅かったのではないかと思うことがある。けれど今の理解が十分かといえば、それもまた怪しい。つまり理解とは、一度獲得して終わるものではなく、読み手や考え手の変化に応じて深さが変わっていくものなのだろう。
こうしてみると、「わかる」「わからない」は、単なる正誤判定ではない。
「わかる」には深さがあり、
「わからない」には種類があり、
しかもそのあいだには「わかったつもり」や「何がわからないのかわからない」といった、中間的で厄介な状態がいくつもある。
もしかすると哲学の面白さは、対象そのものについて考えるだけではなく、自分がどういう仕方で「わかっている」のか、あるいはどういう仕方で「わからない」のか、その構造まで問いにできるところにあるのかもしれない。
問いそのものを問えるところに、哲学の自由度の大きさがある。
最近はそんなことを考えている。
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