ディケンズの『クリスマス・キャロル』は、言うまでもなく良い話である。
映画にもなっているし、子供のころにはジュブナイル版を読んだ。
たしか『小学館世界名作全集 イギリス編』だったと思う。
大人になってからは新潮文庫でも読んだ。
で、大人になってから気づいたのだが、この良い話、妙な言い訳にも使える。
スクルージほどの爺さんになってからでも、心を入れ替えれば救われるのである。
ということは、理屈の上では、爺さんになるまでは好き勝手に欲望のまま生きていても、最後に改心すれば帳尻は合う、ということになる。
いや、もちろん、そんなことをディケンズは一言も言っていない。
言っていないのだが、人間というものは、こういう都合のいい読み方をすぐに発明する。
考えてみれば、受験合格体験記も同じである。
「本番の半年前に受験勉強を始めましたが、私は○○大学に合格しました」
などと書いてある。
すると、こちらは素直に感心するのではなく、
「なるほど、半年前までは遊んでいても間に合うわけだな」
と読む。
いや、たぶん違う。
その人は半年前から猛烈にやったのだろうし、もともとの蓄積もあったのだろう。
だが、読む側はそこをきれいに省略して、自分に都合のいい部分だけを抜き出す。
人間とは、だいたいこんなものである。
良い話を聞いて感動する。
感動したその舌の根も乾かぬうちに、それを言い訳に使う。
教訓は胸に刻まれる前に、まず横着の材料になる。
『クリスマス・キャロル』は、やはり良い話である。
ただし、読む側が油断すると、救いの物語はたちまち怠け者の理論武装にもなる。
名作というのは深い。
いや、深いのではなく、こちらの横着が深いのかもしれない。
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