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2026年07月12日07:12

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業とは何か

昨日に続いて、小路幸也『小説家の姉と』を読んでいる。
ただし今日は自宅なので、読書はすっかり平行読書モードに戻った。
本を読みながら、別の本に手を出し、オンライン小説をのぞき、楽譜を見て、ついでにWEBも眺める。
あまり褒められた読み方ではないが、昔からこういう読み方をしてしまう。

その中で気になったのが、「業を炙り出す小説」と「物語を紡ぐ(だけの)小説」という言い方である。
ここでいう「業」とは何だろう、と少し考え込んだ。

この小説自体は宗教と直接つながっているわけではないから、ここでの「業」をそのままカルマとして受け取るのは少し重すぎる気がする。
もっと軽やかに使われている言葉なのだろう。
では何か。
執着か、個人的バイアスか、それとも実存そのものか。
いろいろ考えた末に、いちばんしっくりきたのは、実存を駆動する個人に張り付いた偏り、という理解である。
人をその人たらしめ、しかも少し厄介でもあるもの。
そういう意味での「業」なのかもしれない。

そこから連想は、創作者の「業」に飛んだ。
たとえば、手塚治虫が大友克洋の漫画を見て、「僕だって負けない」とむきになったという話。
あれは、手塚治虫の創作者としての業が、むき出しになった場面のように思える。
また、丹羽文雄が認知症の進行の中で、原稿用紙に自分の名前をひたすら書き続けたという話も思い出す。
あれは鬼気迫る話だが、同時に、作家としての業とは何かを、妙に剥き出しにしている気がする。

創作者にも、そうでない人間にも、それぞれ固有の『業』があるように思える。
では、その「業」から解き放たれた人物として、ディケンズ『クリスマス・キャロル』のスクルージを置いてみるとどうだろう。
あの三人の亡霊の夢によって、彼は何から解放されたのか。
単に守銭奴であることをやめた、というだけでは済まない気がする。
もっと深く見れば、彼を縛っていた偏り、執着、自己の固着のようなものがほどけた、とも読める。

さらに深読みすれば、ブッダの「解脱したい」という願いそのものも、ある意味ではひとつの「業」ではないか、とまで思えてくる。
解き放たれたいと願うこと自体が、すでに何かに強く引かれている状態でもあるからだ。

まあ、前にも書いたように、私は「問い」に執着している。
だから、川底で真理のドブさらいをしているような、中島敦『悟浄出世』の沙悟浄くらいでちょうどよい。
悟りきるでもなく、きれいに解脱するでもなく、ただ問いの泥をさらっている。
考えてみれば、これもまた、私の背負っている「業」なのかもしれない。


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