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2026年07月07日06:07

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セクハラとパワハラの重なり

とあるドラマの主演二人のトラブルを見ていて、セクハラとパワハラのことを考えた。

報じられている内容を前提に考えてみる。さらに深い何かがある可能性はあるけれど。

そのドラマに出演する以前から、女性俳優にはセクハラのトラウマがあったという。
もしそうであるなら、問題は単に一度の加害行為だけでは済まない。
被害を受けた側がそれを公にしにくく、声を上げにくくさせるような力関係が、すでにそこにあったということでもある。
つまり、セクハラの背後には、それを封じ込めるパワハラ的な構造が重なっているのではないかと思う。

ここで思い出すのは、大阪地検の女性検事が、セクハラやパワハラに耐えかねて職を辞したという件である。
本来なら法と正義を担うはずの検察という組織でさえ、こうした見えにくい力の構造を十分に断ち切れなかった。
そのことに、私はかなり深い闇を感じる。

さらに連想したのは、ドラマ『不適切にも程がある』で示されていた、時代ごとのコンプライアンス感覚の違いである。
今の基準から見れば到底許されない言動でも、時代が違えば「よくあること」として流されていた場面は少なくなかったのだろう。
そう考えると、もし昭和どころか江戸時代の現実をそのまま切り取ったなら、現代ではとてもそのまま映像化できないような、セクハラ、パワハラ、身分による強い抑圧がいくらでも含まれていたはずである。

もちろん、昔はそうだったから仕方がない、と言いたいのではない。
むしろ、時代によって「見過ごされていたもの」があり、しかもそれが長く当然のこととして扱われてきたからこそ、問題は根深いのだと思う。

セクハラは、単独の逸脱行為としてだけ語られるべきではないのだろう。
それを訴えにくくし、沈黙を強い、被害を受けた側に耐えることを求める空気や力関係まで含めて見なければ、本当の問題は見えてこない。
そして厄介なのは、そうした構造が、華やかな芸能界だけでなく、正義を掲げる組織の内部にも、また時代の常識の中にも潜んでいることだ。

だからこそ、個々の出来事を単なるスキャンダルとして消費するのではなく、
なぜ言えなかったのか。
なぜ周囲は止められなかったのか。
なぜ組織は被害を受けた側を守れなかったのか。
そこまで考える必要があるのだと思う。
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