昔、教養ある時代のインテリの条件として、「シェイクスピアと熱力学の第二法則」という言い方があった。
文系と理系の両方にまたがる知識を持ってこそ、一人前の知識人だというような意味だったのだろう。
私は理系なので、もしかすると「熱力学の第二法則」に象徴されるような理系の学びだけに専念していてもよかったのかもしれない。
けれど、私が学生だったころには、まだ少し教養主義的な空気が残っていて、文学などもいろいろ読んだ。
今になって思えば、それはずいぶん幸運なことだった気がする。
もっとも、文系の友人たちの中で、逆に物理や数学の本に手を出している人はあまり多くなかった。
せいぜい麻雀を通して確率に親しんでいた人がいたくらいである。
最近の実学主義には、少し懸念を覚える。
かつてに比べると直ぐに役に立つ学問ではない、文学部や理学部の人気が下がってきているように見える。
役に立つこと、すぐに仕事につながること、そればかりが学問の価値として前面に出てくる。
自然科学でいえば、工学・農学・医学と、それに必要な実用数学や実用物理だけを重んじる。
人文社会系でいえば、法学・経済・経営学が中心になり、哲学や文学は後景に退く。
そんなふうに、実用的なものだけに価値を置く学問体系は、どこかいびつではないかと思う。
では、実学だけを優先する文明と、趣味的・基礎的な分野もおろそかにせず育てる文明とでは、長い目で見てどちらが強いのだろう。
短期的には、前者のほうが効率よく見えるかもしれない。
けれど、長期的・総合的に見れば、後者のほうがむしろ底力を持つのではないか。
すぐには役に立たない学びが、社会の想像力や柔軟性、価値判断の幅を支えているように思えるからである。
これは学校教育にも似た構図がある。
進学校で、受験や模試で高得点者をたくさん出す数学や社会科の教師ばかりが評価され、数学の面白さや歴史・哲学の面白さを伝える名物教師が、「受験対策としてはいまひとつ」と見なされて、しだいに前者に置き換えられていく学校。
それに対して、受験に強い教師もいれば、学問そのものの面白さを伝える教師もいて、その両方がバランスよく存在している学校。
長い目で見て、どちらが本当に豊かな教育をしていると言えるのだろうか。
そんなことを考えていると、実学優先を批判したある言葉を思い出す。
これは、AIと実学とそうでない学問の問答をしていたとき、AI(CHATGPT)に教えてもらった名言とその話者だが、出典は確認できなかった、どうやらハルシネーションらしい。
ここは訂正する2026/07/07。
フランスの詩人ルイ・アラゴン(ではない!。訂正)の、
「詩を解さない国は、戦車の作り方しか学ばないだろう」
という言葉である。
少し極端ではあるけれど、言いたいことはよく分かる。
役に立つことだけを追い求める社会は、効率はよくても、何のためにそれを使うのかという問いを失いやすい。
アラゴンには、もう一つ好きな言葉がある。
「学ぶとは心に誠実を刻むこと。教えるとはともに希望を語ること。」
学ぶことも教えることも、単なる技能の伝達ではないのだということが、短い言葉の中によく表れていると思う。
いま、文学部の中でも、社会学科や心理学科のような「役に立つ」と見なされやすい分野ばかりが元気で、○○文学科や哲学科のような、一見すると役に立たなさそうな分野は肩身が狭い。
けれど私は、そういう一見役に立たない学問こそ、長い目で見れば、実は最も大きな意味で「役に立つ」のではないかと思っている。
すぐに利益を生まなくても、人間が何を大切にするのか、何を美しいと思うのか、何を恐れ、何を望むのかを考える力は、社会の土台そのものだからである。
役に立つものだけを集めてできた社会は、たしかに便利ではあるだろう。
けれど、その便利さを何のために使うのかを考える言葉を失ったとき、その社会は案外もろいのではないか。
「無用」に見えるものの中にこそ、じつは社会を支える深い「用」があるのかもしれない。
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