mixiユーザー(id:68785028)

2026年04月16日07:40

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語り得ぬもの

MIXIでよく閲覧させて貰っている二人の方、昨日は一人は日記、一人はつぶやきで、ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬもの」について独立に書いておられた。前者は"禅と通底するもの"、後者は"SF映画に求めるもの"としての言及であったが、これを奇貨として私も考えてみた。AIとの問答も含めて私なりの考えを記す。

○まず「語り得ぬもの」をカテゴライズするヴィトゲンシュタインの言説は、それ自体が比喩的にカントール的自己言及パラドックスではないか?(あるいはラッセル型パラドックス?)と

これについてAIの示唆
カントールのパラドックスは論理体系の内部で厳密な定義に従うと矛盾が爆発するというもの。
一方、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン の場合は違う、そもそも「語りえぬもの」は言語の外にあると定義している。つまりそれを記述しているのではなく、
境界を指し示しているだけ。

○ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」とは、倫理、美、神、死、人生の意味、そして論理そのもの。だが私のアプリオリな考えでは、それらは象を盲人が撫でるような理解でも漸近的に語り得るものになっていく。

これについてAIの指摘
あなたの考えは、言語は不完全でも拡張可能・完全に語れなくても「近づく」ことはできる
これは後期ウィトゲンシュタイン・分析哲学の発展・科学哲学(ポパー、クワインなど)立場にかなり近い。
ヴィトゲンシュタイン後期の転換(重要)
後期の彼は考えを変え、言語は写像ではない・意味は「使用」にある(言語ゲーム)すると、「語れない」のではなく、「特定の言語ゲームでは語れない」だけ

○次に連想がソシュールの言語学に行った。ヴィトゲンシュタインの"言語ゲーム"とソシュール、互いの学問的関係あるのか? 平行進化的に独立に発展した考えか?

これについてAIの見解
直接の影響関係はほぼ無く、系譜も別。しかし結果として、「意味は関係や使用の中で決まる」という点で収束した“独立収斂”と見るのが一般的です。

○私の"象を盲人が撫でるような理解でも漸近的に語り得るものになっていく"というのは、私の期待を含んだ理解であって、ヴィトゲンシュタインの後期の立場とも微妙に違うし、最初の二人のMIXIでの論者の立場とも違う。
しかし、これらの多様な考えの基になった「語り得ぬもの」という言葉は非常に奥深いとつくづく感じさせられた。

○あとAI(ここでは、四者CHATGPT・COPILOT・GEMINI・楽天AI)の示唆と学問的整理がない時代では、これだけの「問い」を抱えて、偶然の文献との出会いの後、ようやく自分なりの結論の位置づけが出来るのが、ここまで半日を要しただけという、圧倒的な時間の短縮に驚かされる。
これほど思考の時間は短縮されても、「語り得ぬもの」そのものが消えるわけではない。そのこと自体が、逆に興味深い。

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