『みんな、おしゃべり!』(日本)
市長と戦犯遺族の対立が町を巻き込む騒動へと発展する
『なんのちゃんの第二次世界大戦』(2022年)で強烈な個性を示した河合健監督の新作。前作は登場人物が多く、やや焦点が散漫に感じられる部分もあったが、他に類を見ないオリジナリティと、良い意味での“毒”を孕んだ演出が際立つ快作だった。その尖った作家性は本作でも健在だが、今回は枝葉を削ぎ落としてテーマを明確にしたことで、より「観やすく」同時に切れ味の鋭い作品へと進化している。
舞台は郊外の商店街。個人電器店を営む古賀和彦(毛塚和義)は3年前に妻を亡くし、二人の子どもと暮らすろう者。古賀は「光が宇宙まで届く」と豪語する自作の発明品〈ハイパーライト〉を販売しているがまったく売れない。かつては聴者である妻の助けを借りて商売を成り立たせていたが、現在は客の来店があっても言葉の壁に阻まれ商談が成立しない。娘の夏海(長澤樹)は聴者で通訳も可能だが、浪人生という立場もありどこか能動性を欠き、鬱屈した日々を送っている。息子の駿(福田凰希)はろう者で、同級生との交流もうまくいかず、授業中は絵や文字を書くばかり。担任の山際(小野花梨)には「扱いづらい生徒」として半ば見放されている。
町おこし協力団体に所属する沖田(板橋駿谷)は「多様性の尊重」を掲げたイメージ戦略で地域活性化を図ろうとする。外国人や障がい者を「マイノリティの方々」と称して商店街に呼び込もうとするが、地元ケーブルTV用のPR動画では、ろう者を無造作に「聴覚障害者」と呼び、クルド人移民を「トルコ人」と一括りにする無神経さを露呈する。第三者として見れば滑稽にも映るが、当事者にとっては決して笑い事ではない。
本作はマイノリティに向けられるマイクロアグレッションをコメディタッチで描き笑いを誘う。しかし重要なのは「笑った後」であり、観客が感じるはずの微かな罪悪感に対し、作品は容赦なく問いを突きつけてくる「今、あなたが笑ったそれは大丈夫なのでしたっけ?」と。共通言語を持たないコミュニティ同士では、何が起き、何が問題で、どう解決すべきなのか。物語の随所にその困難さが刻み込まれている。パンフレットによれば、河合監督自身はろう者の家庭で育ったCODA(コーダ)だという。夏海というキャラクターの立ち位置は、その個人的体験と強く結びついているのだろう。冒頭では小学校での場面が描かれ、手話を使う子どもと人工内耳を装用する子どもたちの間に、障害の程度差によるディスコミュニケーションが生じる。これによってろう者を一括りにできないこと、表現方法や立場が個々に異なることが早い段階で示される。
もう一方のマイノリティとして登場するクルド人。
『マイスモールランド』(2022年)で学んだ彼らのコミュニティは、本作では商店街のろう者たちとの対立関係に置かれる。「自国を持たない国境なき民族」である彼らは、同族間ですら育った地域によって言語が異なる。作品前半では、クルド語やトルコ語、アラブ語に日本語字幕が付かない。同様に、手話にも字幕が付かない場面がある。
一方で日本語には字幕が付くものの、耳で聞く台詞に比べて情報量は制限されている。さらに言えば、ろう者の観客には劇中音楽すら届かない。聴者、日本人、ろう者、クルド人――それぞれが「限定された情報」しか与えられていないこと自体が、この映画最大の特徴であり、監督の明確な意思表示でもある。聴者や日本人だけに配慮するつもりがないというスタンスは異例と言わざるを得ない。日本語、手話、クルド語、さらには子どもたちが生み出す新言語までが錯綜し、商店街という小さな地域社会に起きる騒動は、実は近年の日本では決して珍しいものではないと気づかされる。
騒動の発端はクルド人男性ルファト(ムラート・チチェック)が電器店に来店し、陳列された電球を割ったと古賀が誤解したところから始まる。手話とクルド語では噛み合うはずもなく、夏海が仲裁に入るもののクルド語は理解できない。そこへ日本語を話せるルファトの息子ヒワ(ユードゥルム・フラット)が駆けつけ、ようやく意思疎通が成立する。しかし感情的になった古賀とルファトは罵声を浴びせ合い、夏海は事態を収めるため、意訳や省略を交えた「都合の良い通訳(トランスクリエーション)」を行う。一方、ヒワは父の言葉を逐語訳するため「まずは謝れ。話はそれからだ。ぶっとばすぞ」という売り言葉に買い言葉の応酬が事態をさらに悪化させていく。やがてこの衝突は、ろう者とクルド人というコミュニティ単位の対立へと拡大してしまう。
同時にろう学校では子どもたちが謎の文字で遊び始め、担任の山際がその首謀者として駿を非難する騒動も勃発。通訳役として右往左往する夏海とヒワは疲れと嫌気で町を抜け出し、都会の繁華街でそれぞれの過去、現在、そして将来についてを語り合う。その頃、電器店に現れたルファトの仲間たちは、古賀を開店したばかりのルファトのケバブレストランへ連れて行く。真っ暗で電気の通っていない店内を見て状況を理解した古賀は、通訳不在のまま修理に取りかかる――。
11月29日(土)のユーロスペースは舞台挨拶付き上映で大混雑だった。古賀役の毛塚和義、駿役の福田凰希が登壇したこともあり、多くのろう者方々が来場していた。ロビーや客席で、勢いよく手話で会話を交わす光景に圧倒され、本作のタイトル『みんな、おしゃべり!』の意味を実感する。手話とクルド語の共通点は「世界のどこにも第一言語として支配的な地域を持たない」こと。理解の範囲が制限されてきた歴史を持つマイノリティ同士を物語の軸に据えた本作には終始ブレがない。往々にして多様性や共生をテーマにすると行儀のよい啓発映画になりがちだが、本作は逆行してコメディと混乱の連鎖によって描き切る挑発的なスタンスが貫かれる。
観客によっては、台詞のすべてを理解できないことに苛立ちを覚えるかもしれない。言葉が通じず、意志も感情も伝わらないというストレス――本作はそれ自体を、鑑賞体験として引き受けさせる構造になっている。言葉が通じない苛立ち、相手が何を考えているかわからない恐怖、理解してもらえない鬱屈、それらが通訳というフィルターを通すことで先鋭化する現象。夏海のトランスクリエーション(意訳/省略)は場を収めるための「優しさ」でありながら、同時に発言当事者の言葉を奪う行為でもある。一方、ヒワの逐語訳はある意味で誠実だが、それゆえに感情の刃をそのまま相手に突き立ててしまう。言葉を橋渡しする者の権力と責任の重圧によって夏海とヒワは町からの逃亡を選ぶ。一見ロマンチックな展開を想像しがちだが、若い二人が一時的に責任を放棄する姿は非常にリアル。
興味深いのは、言葉の障壁を持たない夏海とヒワが、感情を吐露し合った果てに、デタラメな新言語で遊び始める場面。多言語コミュニケーションという難題を描いてきた物語が、理解し合えた瞬間に「言葉そのものを不要にしてしまう」。終盤、物語はその方向へと収束し、ろう者とクルド人の対立も、子どもたちの新言語も「通じなくとも通じ合える」という結論に集約されていく。この展開は意表を突くと同時に、思考が解放されるような感覚をもたらす。滑舌が悪く何を言っているかわからない老人、電球を割って逃げてしまった少女等々、それぞれの方法で「通じ合い」への道を見つけていく。子どもたちが生み出した新言語もその象徴で、意味も文法も曖昧なデタラメ言語は、正確さを欠いても理解よりも共有、正しさよりも遊びが支配的で、わかり合えないままでも共存できる象徴になっている。
言葉は数ある手段のひとつに過ぎない。そう示したうえで、物語はさらに未知との遭遇として“ラスボス”を商店街に登場させる。かなりのトンデモ展開で賛否は分かれるだろうが、本作の結論を力強く肯定する一撃として、これ以上にない最高のクライマックスだ。何故なら対立していた者達が初めて同じ地平に立たされるのだから。言葉はアイデンティティのすべてではない。公開が都内のみで上映館が少ないのが惜しまれるが、1月〜2月にかけて全国単館で順次上映が予定されている模様。
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