ナチュラルではない
空想(好奇、不自然)
を
現実化することは
空想された個を
行為者という催眠として
自我と成ることである
その行為者(形而上の大自我)
自体が
カルマ主であり
好奇であり苦しみの幻想の存在である
彼は
催眠(独房)のなかにおいて
さらに
妄想(投影)せざるをえない
なぜなら
活動(幻想)が
彼の性質だからである
彼が演じることになるであろう
よいカルマ(活動幻想)
わるいカルマ(活動幻想)
などというものは
自我そのものの好奇であり苦しみ
という一つの性質を
2つの幻想にわけたものとして
演じているかのようになる
投影世界では
自我の性質である
好奇であり苦しみは
ひとつの性質
ではなく
べつべつにみえるが
それは無明を隠すための
煙幕となってしまう
のである
ナチュラルスピリット(ただ在る、非活動)
が
無明(神の試み 好奇空想)
を
やめるとき
それらは癒される
これを
自然のなかのオートマチックの終焉という
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