『ANORA アノーラ』(アメリカ)
カンヌ国際映画祭パルムドール受賞はハマっていると思うが、アカデミー賞でこの作品が5部門タイトル獲得というのは意外。既成概念にとらわれない奇を衒った仕掛けを特筆して、鑑賞側に深く考えさせる芸術的余韻を好むパルムドールに対し、描く時代の社会情勢と大衆性を踏まえた理知的エンタメが好まれ、商業面での成功とロビー活動前哨戦に軸足があるアカデミー賞の視点からすると、この作品はアンダーグラウンドの香りが前面に出過ぎている。サブカルチャーを敬遠しがちなオスカーが、ショーン・ベイカー監督をここまで賞賛するのは、もしかしたらトランプ政権による税制改革や福祉政策、移民者蔑視、人種差別などの数々の富裕層優遇と周縁者軽視に対するアンチテーゼなのではないかと揶揄する。長編ドキュメンタリー賞を『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』が獲得したこともその裏付けに思えてならない。
ショーン・ベイカー監督作品は『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2017年)『レッドロケット』(2021年)しか鑑賞していないが、どちらも社会的周縁者の生き様を赤裸々に描くことで一石を投じる結びをする。その決定版とも言うべきが今作『ANORA アノーラ』なのだが、まさかハリウッドの賞取りを席巻するとは思わなかった。前半と後半でテイストがここまで変わる作品も珍しく、勢いで偽りの盛り上がりを展開するパリピ族的な狂乱、やがて真っ逆さまに落ちていく過程のドタバタ劇、強烈な余韻を残すビターな終焉。主人公が掴み取りたかった幸せがどんな着地だったのかをしばらく考えさせられる。
海外版のポスターでは、劇中で象徴的に使われる赤いスカーフと黒いブーツだけを身に纏って瞼を閉じたアノーラの姿がある。これこそ彼女の人生観を象徴している最高のビジュアルなのだが日本では使われていない(コンプライアンス的に無理と推察)。自らを“アニー”と名乗るアノーラ(マイキー・マディソン)。作品タイトルが人物名の例は数多あるが、劇中では殆ど「アニー」と呼ばれているのにタイトルが「アノーラ」なのには重要な意味がある。
ブルックリンの裏社会でストリップダンサーを本業とするセックスワーカーは、エキゾチックな容姿と奔放不羅な振る舞いを武器とする。職業的に異性に媚びる意識は微塵もなく、寧ろ富裕者からの大金を搾取して生きることに悪びれない誇りを持っている。前半の映像は落ち着きのない手持ちカメラにハレーションが被り、これから始まる波乱を予感させる。ロシアの富豪御曹司イヴァン(マーク・エイデルシュタイン)に見初められても、適時具体的な金額交渉を伴うパートナー関係構築に徹するアノーラ。後半の大騒動になってもそのビジネスライクなスタンスを貫こうとするのだが、ラストだけはその信念が崩れ素顔を見せる作劇が余韻を残す。
作品内では語られない彼女の生い立ちには移民問題、母子家庭貧困、虐待などの重い過去が想像できる。ロシア系の「アノーラ」という名前を使いたがらないのも過去を払拭するための手段。稼いで裕福になれば暗黒の生い立ちを生きた自分に言い訳ができる。だからこそイヴァンとの7日間契約もお金が目的であったはず。パーティー、ドラッグ、セックス三昧の日々を過ごし、快楽の絶頂に思い付きで挙げる結婚式。24時間予約なしで即婚姻が認めらることで有名なラスベガスの教会“A Little White Wedding Chapel”でロシア御曹司にプロポーズされるアノーラ。強靭なセックスワーカーにも花嫁気分に浸る幸福図を描く感情が沸いていく心理の変化は察して知るべし。
息子が娼婦と結婚したという報告を受けたイヴァンの両親は、結婚を解消すべく屈強な部下達を息子の邸宅に送り込む。筆頭刺客はイヴァンのお目付け役としてニューヨーク帯同していたアルメニア人のトロス(カレン・カラグリアン)その弟のガルニク(ヴァチェ・トヴマシアン)と、雇われ用心棒のロシア人イゴール(ユーリー・ボリソフ)。ところがイヴァンはトロスが家に到着する前に単独逃走。取り残されたアノーラはイゴールによって拘束される。ここのドタバタ劇はコミカル且つ痛々しい活劇的な見せ場で、後半のキーマンであるイゴールがアノーラと非常識な出会い(いきなり羽交い絞め)をする場面。
アノーラを見捨てて一目散に逃走するイヴァンは、あれだけぞっこんだった態度を軽々しく放棄するところに想定を上回る醜悪さを感じる。そもそも出会ってから今までアノーラと真摯な会話をする気がないという軽薄素行。だが彼自身も親にレールを敷かれた金縛り人生から生涯逃れることができない十字架を背負った存在という視点もある。もしかしたらアノーラと駆け落ちする運命を選ぶ気概もあるのではないか?という淡い期待…だが逃げた瞬間にそれらは木端微塵に打ち砕かれ、婚姻届けをガルニクにスマホで撮られ母親に送信されるや否やの豹変ぶりは呆れる最低野郎。
イヴァンの両親がロシアから到着するが、婚姻を取り消すには再びラスベガスの教会に出向いて再手続きをしなければならない。往年のハリウッド映画セオリーにあったシンデレラストーリーの光明は完全に消えて一刀両断される。イヴァンを愛していた訳ではないアノーラが「このバカ男でもいつかは本気で愛せるかも」という気概と覚悟の表情をするカットが1度だけある。そんな自分に苛立つ彼女自身の後悔は、感情を剥き出しにして足掻く姿として描かれるので痛々しい。
そこに寄り添ってくるのが婚約指輪を取り戻してアノーラに渡すイゴール。最初から彼女を人として扱った視線を向ける男は、自分を「アニー」と呼んでと嘯くことに対し、真顔で「アノーラ」の方が素敵な名前だと言ってきた唯一の存在。出会った時のレイピスト呼ばわりから、その裏含みのない言葉に傷心のアノーラにとって苦しくも愛おしい存在になっていく。イヴァンと入れ替わるように登場してくるイゴールの対照的な違いによって感情移入が観客に促される。
葛藤するのはアノーラの方で、ロシア語を拒み、本名も拒み、自らの過去をも消し込もうとしてニューヨークで闘う彼女にとって、ロシア語で戦士という意味の名前に誇りを持つイゴールは鬱陶しい存在から始まっている。そんな男に気遣われ、しかもそれが身体が目当てではないなんて、アノーラの脳内ロジックには参照過去が見つからない。アノーラがイゴールの気持ちに応える手段はセックスワーカーしかないのだが、「レイプするつもりはない」と断言していたイゴールに跨るのはある意味で彼を試す行為でもあった。一方のイゴールは、これしか他人とのコミュニケーション手段がない彼女を、哀れんだり同情したりすれば逆に彼女を傷付けることになることに葛藤している。純粋な相手への想いを伝える手段としてキスをしようとしたイゴールに、慌てて拒絶し泣き崩れるアノーラ。彼女の答えはそこにはない。何故なら人に心を預けたことが1度もない生き方を貫いてきたのだから。セックスでしか関係性を測ることができない自身に気付き打ちのめされるアノーラ。立ち直る手段は本人にしか判らない。
イゴールは“愛”を求めてきたが、それを受け入れる手段を持たないことを自覚しているアノーラには、この男がセックス以外を求めていることを確信したところで居場所がそこにないことを自覚する。支配されないことが自分を守ることだと、イヴァンによって改めて認識したアノーラだが、結局自分は偽りに依存して生きることしかできないと悟り、イゴールを受け入れる方法が見つからない。ブルックリンの線路高架近くにある質素な自宅前車中のエンドロールは、ワイパーの音だけが流れ続ける。無音の終焉は『アメリカン・スナイパー』(2014年)が強烈過ぎて他作品で遭遇してもあまり好きにはなれない。特に今作の終わらせ方は残酷過ぎて、ワイパー音を残すなら、アノーラがドアを開けて出ていく音とか、イゴールがエンジンをかける音とかの、オープンエンディングに対する補填が欲しい。
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