ちきりんさんのX(Twitter)を見ていると「登戸研究所」の話が書かれていた。
https://twitter.com/InsideCHIKIRIN/status/1755958215668564288
川崎市生田にある、明治大学生田キャンパス内に戦争関連の資料館がある事を初めて知った。
今まで聞いた事すらなかったので、調べてみると「風船爆弾」「弾薬庫」といった遺跡が残っているらしい。
開館日が水曜日から土曜日という変則的な日程らしいのだが、今週末は運良く開いているらしい。
…という事で、ふらっと行ってみる事にした。
初めて降りる小田急線の生田駅。
午前中は見学、午後はよみうりランドのスーパー銭湯「丘の湯」へ行こうと思っていたのだが、先月頭で閉店したらしい。
また来月からリニューアル(&値上げ)で「絶景露天風呂 花景の湯」に代わるらしい。
まずは高台の上にある明治大学のキャンパスへ移動した。
生田駅から行くと、広大なキャンパスの外れに「明治大学平和教育登戸研究所資料館」が立地している。
最近まで「登戸研究所」時代の建物は何棟か残っていたらしいのだが、老朽化により取り壊されており、今は資料館となったこのコンクリート製の建物だけらしい。
館内に入ると、こぢんまりとした受付があり、パンフレットをもらって閲覧を開始した。
館内は5つの展示室と、カメラの現像用に使われていたと思われる暗室の計6室で構成されていた。
単なる展示だけだと思っていたのだが、一つ一つが濃厚すぎる「日本の負の歴史」であり「暗部の歴史」だった。
・第一展示室「登戸研究所の概要」
この資料館で唯一といってよい平和な展示だけがある。
登戸研究所が出来る前の「日本高等拓植学校」(ブラジル・アマゾン開拓の移民養成学校)の歴史から終戦までの歴史を振り返る。
航空写真もあり、変遷が分かるようになっていた。
この研究所は「日中戦争」の早期解決のための非合法活動の技術研究の拡大の歴史でもあった。
「太平洋戦争」がメインでなかったというのが意外だった。
・第二展示室「風船爆弾と第一科」
このエリアはアメリカ向けに飛ばした「風船爆弾」に関する模型と技術が紹介されている。
「風船爆弾」の目的はアメリカに「牛痘ウィルス」をばら撒く目的だったと聞いて、ある意味納得した。
しかし、実際には日本が劣勢のタイミングであったため仕返しを恐れて、中止したとの事。
(当時の戦時国際法により、日本が先制攻撃をした場合には、報復しても罪にならない。日本の食料状況がさらに悪化する事から中止したとの事)
他には、電波兵器「く号兵器」「ち号兵器」も開発していたが、当時の技術力・電気発電量により失敗したらしい。
これらは、今盛んに開発されている兵器群であり、余りにも早すぎた。
また日本はレーダーに力を入れていなかったことが致命的な敗戦原因になったとの事。
・第三展示室「秘密戦兵器と第二科」
秘密戦の兵器・資材の研究紹介である。
昔のドラマでよく見かけたスパイ絡みのようなものが多く紹介される。
この中には毒物開発もあり、南京で捕虜に対して人体実験を行った歴史もあるとの事。(その代わりに、毒ガス開発はしていなかったと強調している)
また風船爆弾に積もうとしていた、細菌兵器の開発もこの科である。
興味深い展示は、日本語タイピストの方が終戦後に持ち帰った練習用資料(タイプミスをしたので使われなかったものらしい)が800ページ分あり、個人的に「雑書綴」として保管していたとの事。
登戸研究所は終戦日に資料を全て焼却または破壊処理してしまったため、文書として存在しているのが貴重であり、何をしていたか唯一残る一級資料である。
・第四展示室「偽札偽造と第三科」
この部屋が一番の日本の暗部の歴史である。
中国(中華民国)に対してインフレ戦略による国家転覆を狙い、偽札工作を行った。
この事自体は日本国内でも秘密にされていたこともあり、偽札流通の際に「阪田機関」を使ってばら撒く。
阪田機関は巨万の富を得る事になり、戦後の裏社会への影響力を持つことになる。
偽札製造も登戸研究所内で行っている。極秘事項であったため塀の中で実施していたとの事。
高台の上にあるため、わざわざ多摩川からの取水設備と浄水場も作ったとの事。
またインドルビー、アメリカドル、ソ連のハスポート偽造も行ったとの事。
ソ連のハスポート偽造技術は、戦後の東西冷戦時にも活用したらしい。(技術はGHQからアメリカに渡る)
・暗室
写真現像室である。外光が入らないようにクランクの入口が特徴。
・第五展示室「敗戦とその後の登戸研究所」
敗戦濃厚となり、登戸研究所が長野県に分散疎開した歴史がある。
研究員のその後の歴史がつづられているのだが、誰一人戦争犯罪者として裁かれることはなかったとの事。
当然技術供与との取引ではあるのだが。
中には、アメリカ(または日本国内の米軍基地)に渡って活動をしていた人もいるとの事。
https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00003cim4j-att/6t5h7p00003cimev.pdf
敗戦になり、登戸研究所の話は封印されることになる。(戦犯扱いになるのを避ける理由もある)
この封印を解いたのが、80年代後半の高校生による「平和ゼミナール」の活動であった。
戦後40年以上経ち、歴史を伝えていくために重要な人から証言を得たのち、近隣で働いていた人から徐々に証言が集まって来たとの事。
技術職だけではなく、生田に住んでいる住民の職場でもあったためである。
見終えた段階で、既に12時半になっていた。
13時からは、ガイドツアーがあるらしい。
このまま帰るのは勿体ないので、どうせならば参加する事にした。
ここまででも十分濃密な時間だったのだが、さらに想像を超えた上乗せな話が続くことになった。
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写真: 登戸研究所, 風船爆弾(レプリカ), 雑書綴
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