『バビロン』(アメリカ)
『セッション』(2015年)のインパクトが未だに残るデイミアン・チャゼル監督の『ラ・ラ・ランド』(2017年)『ファースト・マン』(2019年)はどちらも好きではない。特に『ラ・ラ・ランド』は肌に合わず、主人公カップルどちらにも好感が持てず、演じた役者にまで後々アレルギーを引きずった。『ファースト・マン』鑑賞後に2度目の『ラ・ラ・ランド』鑑賞に挑んで気付いたのは、この監督は視覚的なテーマ構想が先にありきでドラマをそこに合わせ込むということ。その狙いを昇華させる手段において人物像側に犠牲が払われたのが『セッション』のフレッチャー(J・K・シモンズ)。その全てに拒絶反応を感じるキャラクターだが、目的のために他を犠牲にする人物像の狂気に共振する。
ところが『ラ・ラ・ランド』では、夢に向かって手段を択ばない主人公はフレッチャーと同じでも、最大の見せ場「A Lovely Night」で主役に感情移入させるがための演出が鼻につく。他者を犠牲にしてでも自分の夢を追いかける人物像なのに、無理やり善人に仕立て上げて感動を強要させられるクライマックスには阿ることができなかった。映像&音楽的には素晴らしいので、優先される視覚的要素で才能を発揮するフィルムメーカーこそがデイミアン・チャゼルだという持論に辿り着く。
その所感を踏まえての『バビロン』。マーゴット・ロビーとブラッド・ピットがそれぞれ演じる役柄も過去作同様に自分の大志を優先して生きる、一筋縄ではいかない癖のある人物像として心理介入してくる。だが本作ではそこにディエゴ・カルバ演じるメキシコ青年マニーが緩衝材を果たしており、謙虚に頑張る努力の人という彼のキャラが狂言回しの役割を担う。『ラ・ラ・ランド』との最大の違いはそこにある。最終的にこのマニーが報われる方向へ着地するところが本作の良心になっているところには好感を持った。
映像面での威力では実績お墨付きの監督なので、ストーリーはあってないようなものと言ってしまうと語弊はあるが、そのくらい視覚的パワーは計り知れない。1920年代ハリウッド映画黄金期。酒池肉林の狂乱パーティーを長回しでとてつもなく派手に繰り広げ、途中でそこに乱入してセンターを奪っていくネリー・ラロイ(マーゴット・ロビー)。煌びやかな銀幕世界で既にカリスマ的スターの座にいる俳優ジャック・コンラッド(ブラット・ピット)に気に入られたマニー・トーレス(ディエゴ・カルバ)は、無我夢中で映画業界で働こうと食らいつく。
時代はサイレントからトーキーへと移行する過度期。ネリーもジャックも時代の変化を乗り切ることに苦戦し、しだいに自分の居場所を失っていく。往年のサイレント映画で活躍してきた役者の演技は、声を出す映画に求められるスキルを掴み取ることが難しい。ネリーが自由にリアクションする立ち位置ではマイクが声を拾えないため、彼女は位置ズレがないようぎこちなく歩く。何テイクも繰り返されるこの場面は時代の象徴なのだろう。
主要登場人物には実在モデルがいて、それらはトーキー映画に追従できずに失速していった名優たち。劇中でジャックが『雨に唄えば』の撮影で「Singin’in the Rain」を唄わされる場面は、まさにジーン・ケリーそのもの。他には妖艶な容姿とパーティーでの歌声で人気を博した東洋人女優(リー・ジュン・リー)。トーキー時代到来で映画音楽が台頭し持て囃されながらも、人種差別に嫌気が差して業界を去っていくトランペット奏者(ジョヴァン・アデポ)。ジャックに最後の印籠を突き付けるゴシップジャーナリスト(ジーン・スマート)等など、それぞれの役割の変化が登場人物たちの運命を変えていく。トビー・マグワイアが裏ハリウッドの帝王的な役で登場する。旧世代ハリウッド末期の最後の大物で最大の異物というテンションがケレン味たっぷりに奇行を繰り広げるのが見どころ。
圧巻なのはマーゴット・ロビー。迫力のダンスシーケンスから始まり、ディエゴ・カルバとの甘いラブストーリーで魅せる眼差しの可愛らしさ、スターダムの頂点に君臨した爆発的オーラ、そして凋落一途へと向かう自己破滅的な言動の危うさ。栄光から挫折へとジェットコースターのように浮き沈み、マニーとの関係を介した悪意なき仕掛け人という特異性は『セッション』に近い中毒性の狂気を再現してみせる。
サイレント全盛期を華やかだが未成熟且つ無法地帯として描き、トーキー映画の到来を新たな時代の幕開けとする中、敢えて滅んでいく側を焦点にした顛末でダークピリオドを予感させるのだが、本作はその後に予想できない仕掛けが用意されている。脈絡と繋がってきたハリウッド映画創造の歴史を、マニー役のディエゴ・カルバが立会人として鑑賞側に体験させる過去から未来への走馬灯。『動く馬』『月世界旅行』『大列車強盗』『ナイチンゲールの歌声』『ジャズ・シンガー』『ハリウッド・レヴィユー』『オズの魔法使』『ベン・ハー』『サイコ』『レイダース/失われたアーク』『ターミネーター2』『ジュラシックパーク』『マトリクックス』『アバター』これでも一部の抜粋。暴走しまくりで歪曲した映画愛を語ってきたデイミアン・チャゼルが、偉大な先駆者へのリスペクトを示した締め括り方はかなり意外。胸焼けするほどにエネルギーが漲り過ぎている本作は、後々に映画史を語る時に物議を醸し続ける作品になること間違いないだろう。
『イニシェリン島の精霊』(イギリス)
『バビロン』と同じ時代。1920年代のアメリカ経済急成長の活気と狂乱を描く『バビロン』と対照的に、1923年のアイルランド村落で起きる殺伐とした内省的物語の『イニシェリン島の精霊』。だが、人間の虚栄への渇欲と孤独への恐れがいみじくも共通している。
アイルランド本土が激しい内戦(講和条約による賛否分裂)に揺れる中、イニシェリン島は遠くに砲弾の音が聞こえるだけで日々は平穏。言い換えれば退屈な毎日がひたすら続く村社会。小さなロバのジェニーを可愛がり、近所のアイリッシュパブで毎日14時から酒を飲み、顔見知りの連中と他愛のない会話をすることを楽しみに暮らすパードリック(コリン・ファレル)。愛嬌のある独身中年ではあるのだが、毎日一緒にビールを飲んでいる年上の友人コルム(ブレンダン・グリーソン)から突然、絶交宣言を告げられる。意味が解らず驚きを隠せないパードリック。しだいに判明していくその理由は「お前のつまらん話に時間をとられるのは残りの人生の無駄。」という横行闊歩なものだった。
かつてフィドル(ヴァイオリン)奏者で作曲もしていたコルムは、残された人生を有意義に生きるため、思考の浅い会話しかできないパードリックと一緒にいる時間はまったくの無駄だと考えた。少し年齢の離れた男同志で長年続いた関係は友情だったはず。突然のその崩壊はパブに集まる連中どころか島内にたちまち噂として広がった。パードリックは裏表のない気のいい男である一方で、その言動は理知に欠ける有象無象な存在だということはすぐに判ってくる。予告編でも使われる場面「おまえはこの前、2時間ずっとロバの糞の話をしていた」というコルムに対し「ロバじゃない、馬の糞だ」と反論するパードリックの浅慮な人格。対岸から聞こえてくる内戦の砲撃音に「せいぜい戦え、何の戦いか知らんが」と吐き捨てたり、妹のシボーン(ケリー・コンドン)が本土に移住すると告白した時の第一声は「俺を見捨てるのか?」という始末。パブに溜まる客仲間内で扱いが見下されている若者ドミニク(バリー・コーガン)を相手にすることで、自尊心を維持しようとする所などは侘しくて憫然だ。
つまりコルムが “無駄” だと言った気持ちは大枠で理解できてしまう。辛辣で気難しそうなコルムが、実は心の優しい人間であることも並行して語られるところが巧妙に同情心を誘発する。野蛮で暴力的な警察官ピーダー(ゲイリー・ライドン)に殴られるパードリックをコルムは助け、肩を抱いて家路を付き添うのだが絶交の撤回はしない。涙を流しながらパードリックは友情の修復を試みるも「これ以上関わろうとするなら、自分の指を切り落とす!」と宣言するほどにコルムの意志は固い。
イニシェリン島の単調で退屈な日常に反旗を呈する人物は少ない。コルムはフィドル奏者の現役時代に島外世界を知っていると思われ、同じく本土から帰郷してきたパードリックの妹シボーンにだけは本音を喋る。「やつは退屈な存在だ」と実兄を侮辱する言葉にシボーンは「そんなことは以前から判っていることで、この島の人間は全員知っている」と、今さら何を言っているの?的な意見をぶつけ返す。それは自問自答でもあり、閉塞感に耐えられなくなったシボーンは糸が切れたように兄に別れを告げ島を去る。
向上心のかけらもない繰り返しの生活に浸ることを“正しい”と思うことに一寸の迷いもないパードリックは、シボーンとは永遠に相容れない関係になっていることがはっきりと伝わる。コルムの台詞「人生は死ぬまでの暇つぶしに過ぎない」は、哲学者パスカルが発端だとよく言われるが実態はどうなのだろう。自分の名前を歴史に刻み残したいと云うコルムにとって、果たしてそれをどこまで反面教師という意味に捉えているのだろうか。
故意ではないにしろそれを妨害してくるパードリックをコルムは許すことができない。パードリックと妹シボーンの食事中に、外から家の壁に何かを投げつけられた音がする。外へ出てみると、そこにあったのは切断されたばかりのコルムの指だった。コルムを罵ったパードリックへの酬いがこうして始まり、ふたりの関係は混沌と狂気を呼び起こす奇怪な方向へと展開していく。
更なる不穏な出来事を暗示するように精霊バンシーが現れる(実際は村の住人である老婆)。原題「The Banshees of Inisherin」にもある“バンシー”は、アイルランドに伝わる死を告げる不吉な精霊。些細な争いによって誰かが命を落とすことになるか否かを見届けるクライマックス。パードリックの報復行動は、八方塞がりになるまで追い詰めれたことによる哀れみが拭いきれない。
よくもこんな鬱で奇怪な物語をマーティン・マクドナー監督は考えたものだ。『スリー・ビルボード』(2017年)が記憶に深く刻まれる同監督は、今回もシニカルでアナーキーな笑いを演出しながら、ある瞬間に背筋がぞっと戦慄する物語を綴る。昨日までの友人が今日からの敵(かたき)となるのは、対岸から聞こえてくる砲弾音のアイルランド内戦とシンクロする。バンシーによる死の宣告が直接的ではない者を傷付けるのも戦争への比喩に繋がるのだろう。
コルムが端を発していながらパードリックが招いた諍いごとに思えるのは、コルムの頑なな絶縁宣言に説得力があるから。喜劇のはずが悲劇となって人間の善悪の業の難しさを突き付けられる不条理。心を打たれるというより殴りつけられた感覚と後味が残る。
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