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2021年05月19日23:05

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無声映画の音楽に携わった二人のクラシックの音楽家

 今日は、1951年に北海道厚岸郡浜中村(現在の浜中町)の大原劇場という映画館で上映中のフィルムが発火して映画館が全焼し、学童を含む42人が死亡(救出後に死亡した者を含む)したという痛ましい事件があった日です。
 フィルムの自然発火は、映画『ニューシネマパラダイス』でも描かれていますが、昔の映画フィルムは大変引火しやすいものでした。
https://www.youtube.com/watch?v=E0Ta-TFKuko

 1984年9月3日にも、旧東京国立近代美術館フィルムセンターで、残暑による高温のためにフィルムが自然発火して火災となり、数多くの貴重な作品が失われてしまいました。
 今の新館が建つ同じ場所にあったこの旧館へは、私も上京以来しばしば通っていたので、ここが火災に遭ったことは本当にショックで、今でも昨日のことのように覚えています(とにかく1本当たり¥200〜300という安いお値段で優れた作品をスクリーンで数多く観られたのが貧乏な学生にはありがたかったです)。
 日本映画のフィルムに被害はなかったようですが、外国映画のフィルムは同センターが保存していたフィルムの4分の3強が焼失してしまいました。それらの多くは、各国のフィルムアーカイブの協力を得て、かなり修復されたようですが、それでも修復に必要なネガフィルムがもはや製作した国にも残っていない作品もあり、それらは永久に失われてしまったということです(今では保存しているほぼすべての作品が難燃性フィルムに転換され、厳しい温度・湿度の管理の下にあります)。
 失われてしまった作品の多くは大昔の無声映画ですが、幸いにして今日でも見ることができる作品の中には、世界初の映画音楽が付いたものもあります。『ギーズ公の暗殺』(1908)というフランス映画です。なんと作曲したのはサンサーンスです。
https://www.youtube.com/watch?v=bh0tonXPEKQ

 でも、無声映画ですから、今日の映画のように映像と音楽が一緒にフィルムに焼き付けられていたわけではなく、サンサーンスがその映画のために作曲した曲が、映像と同時に映画館(劇場)専属のオーケストラによって演奏されたのです。
 実は、映画は、1895年にフランスのリュミエール兄弟が歴史上初の上映会を開いたとき、すでに音楽を伴っていました。というのは、彼らが発明したシネマトグラフは、上映時の機械音がうるさく、観客の耳をごまかすために、どうしてもピアノの伴奏を必要としたからです。
 当初は、作品も短く、映画館も小規模だったので、伴奏はピアノが担当すれば十分でしたが、そのうち作品がストーリーを持ち、会場も大きくなってきたので、オーケストラの伴奏が付くことも珍しくなくなってきました。
 当時、フランス映画は世界をリードしていたものの、アメリカ映画の娯楽路線の台頭を目の当たりにして、芸術性の高い映画を創る必要性が強く意識されるようになりました。そうした流れが、1907年のフィルム・ダール協会(芸術映画を製作するための組織)の設立につながり、同協会がその総力を結集して製作した映画が『ギーズ公の暗殺』だったのです。
 なので、この作品は文化国家フランスの威信、協会の権威を守るためにも絶対に失敗するわけにはゆかなかったので、登場する俳優は全てコメディー・フランセーズの一流の俳優で固められ、音楽についても、その映画のために超一流の起用が必要となり、サンサーンスが担ぎ出されてきたわけです。サンサーンスは当初、映画というわけのわからないものに自分の作品が使われることに難色を示していたそうですが、協会からの必死の説得に折れ、作曲の運びになったということです。
 『ギーズ公の暗殺』はヒットしましたが、その後フィルム・ダール協会の活動は早々に挫折しました。同協会の作品は、結局、素晴らしい舞台劇をそのままカメラで撮って記録した舞台中継のようなものでしかないと見破られてしまったからです。
 そのため、映画のためにオリジナルな曲を作曲するということも一般化せず、しばらくは従来どおり、楽譜ライブラリーを基にした興行が続きました。例えば、スリル満点の追跡シーンのバックならこの曲とか、愛する二人がキスをするシーンだったらこの曲とか、それぞれのシーンに合うような音楽の楽譜があらかじめ用意されていたわけです。
 ただ、サンサーンスが旅立った1921年に渡米したユージン・オーマンディにとっては、このように映画館(劇場)専属のオーケストラが元気に活動していた時代であったということはラッキーなことでした。
 実は、オーマンディはバイオリニストとしてアメリカで一旗揚げようと思って、ハンガリーから渡米したのですが、プロモーターを名乗っていた男が雲隠れしてしまい、事実上、無一文で異国の地に放り出されてしまっていたのです。そのオーマンディが、やっと探し当てた仕事が、ニューヨーク・キャピトル劇場のバイオリン奏者だったというわけです。
 しかも、当初は新入りということで、オーマンディは最後尾で演奏していたのですが、抜群の耳の良さが評価されて入団5日目にしてコンサート・マスターになってしまいました。そして、1924年9月には、急病で来られなくなった指揮者の代役として初めて指揮台に立ったのです。この時、劇場の取締役から指揮者になることを薦められ、オーマンディは断ったのですが、給料を25ドルも上げてもらえるということで指揮者へと転向しました。ただ、当時は指揮に全く興味がなかったそうです。※
 これが、20世紀のアメリカのトップオーケストラであるフィラデルフィア管弦楽団を半世紀近くも指揮することとなったオーマンディの指揮者としてのスタートでした。私の知る限り、映画館専属のオーケストラの指揮者から後年名を成したクラシックの指揮者はオーマンディくらいなものです。

 オーマンディはサンサーンスの作品も幾つか録音していますが、とくに交響曲第3番“オルガン付き”はいい演奏を遺しているように思います。
https://www.youtube.com/watch?v=T4U0y8zZm28

 今日は、この曲が1886年にロンドンで初演された日でもあります。


※ この点について、竹内貴久雄さんは、大変興味深いことを書いておられます➝https://blog.goo.ne.jp/kikuo-takeuchi/e/95049236c09dcf1f1a3f69258e3994ee
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