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2012年08月19日13:53

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軍艦島レポート(後編)

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島の周囲はどこも絶壁。これは島ではなくて岩礁だな・・・が自分の第一印象でした。いよいよ上陸ですが、軍艦島が見えてきた頃から波がかなり激しくなっており、船が木の葉のように大きく揺れています。実はこの軍艦島上陸クルージングツアーは、接岸率65%だそうで、上陸できないまま引き返すことも珍しくない。本当は軍艦島の命名由来になったアングル位置まで旋回して欲しかったけどそんな余裕は無し! この島の近隣は常に荒れていて、波高0.5m以上で桟橋(といっても何もない)接岸は禁止。 参加料金のうち上陸費用分(大人300円)は返金されてツアーは中断となります。今日はその中止ぎりぎりに近い荒波とのこと。船内では既に船酔いのお客さんが続出。吐いてる人も数名・・・ご年配や小さな子供連れ家族もいたりして、200人乗りのクルーザーは結構な修羅場と化しています・・・でも中止は困る〜 時間をかけてゆっくりゆっくり接岸。帰りはもっと高波になる予報とのことで、滞在時間が短縮されることになりましたが、どうにかなんとか上陸を果たすことができましたヾ( ̄0 ̄;ノ
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軍艦島の正式名称「端島(はしま)」は、元々は島ではなく水成岩の高瀬にすぎなかったそうで、自分の第一印象は満更でもなかったようです。ここで石炭が発見されたのは文化7年(1810)。明治3年(1970)開坑。明治23年(1890)三菱財閥が買収、ここから本格的な炭鉱が始まります。その後6回の埋立て工事で島の拡大が繰り返され、今の島型に至ったのは昭和6年(1931)。
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残っている建造物は全て自然崩壊の姿で、人為的に潰したり壊したものはひとつもなし。この建物は鉱員社宅用アパートで、大正5年(1916)日本最古の鉄筋コンクリート建造物。ただでさえ土地が足りないところに人口密度が上がっていくので、高層ビル建築が必須となり、当時まだ未熟だった鉄筋コンクリート建造の技術を日本で初めて導入したそうです。部屋数は50戸程度・・・写真ではスケール感が掴みにくいですが、50戸とは思えない小型です。1戸2Kの部屋に平均4人家族が住んでいたとのこと。風呂は地下にある共同浴場。よく見ると1〜3階だけ左側面が出窓になっています。西洋出窓がモダンとされて流行した時の影響で、3階層だけ途中で改築(リフォーム)された名残だとか。見てもよくわかりませんけど…
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上陸といっても、現在立入りが許可されている区域は島全体の10%程度のみ。あとは基本的に全面立入り禁止です。確かに見ているとどこも倒壊の危険に晒されているのは間違いなくて、とても一般人が見学する安全確保ができているとは思えない状況。かといって補強工事をしたら、この産業遺産の価値が失われてしまう。ここはあくまで観光地ではないのです・・・でもやっぱりちょっと残念。そういう意味では、船で海上から島を周回した方が全体を見渡せるのかも知れません。
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この階段とか人が乗った瞬間に崩れるな・・・と思えるのは気のせいではないですよね。これは主力坑だった第二堅坑施設へ行くために設けられた桟橋への昇降階段なのですが、その先の鉱山施設は崩壊していて原型を留めてません。足元に残骸があるだけです。
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当時、島に自然植物は一切なかったそうで、草木は無人島化した後に成長したもの。そのため子供達の情操教育目的で、ビルの屋上に花壇を作ったそうです。なにしろ土地の面積が足りないので屋上しか場所がなく、当時としては苦渋のアイディア。これはつまり日本最古・・・いや世界最古のルーフガーデンがここにあったということか。主婦の方々の間では生け花が流行っていたとか、サボテンがペット代わりだったとか・・・
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写真の右上に小さく見える白い塔は灯台。これは炭鉱操業当時は無かったものです。無人島化した後に建てられました。過去に映画などで軍艦島を舞台にした作品にて、この灯台が映ってしまっているものがあり、それだと完全に間違えた時代考証になります。何故、現役時代は灯台が無かったかというと、炭鉱現場は24時間フル稼働していたので、島の灯りが消えることが365日ない不夜城だったから。なるほど確かに灯台は不要。しかし周回たった1.2Kmの狭い島で24時間炭鉱採掘と加工稼働していたら、永遠に騒音が途絶える事がない訳で、住人達は精神的におかしくならなかったのでしょうか? 煙突からは常に黒煙が吹き上がり、青空を黒く染めていたそうです。
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この左写真のビルの階段はダンスホールの入場口だそうです。その隣にはパチンコ屋。大勢の家族、世帯が生活している訳ですから娯楽施設は必要不可欠。市場もあったそうで、食べ物は豊富だった模様。切実なのは電気と水道。電気は当初自家発電だったのが、人口増加で賄えなくなったため大正7年(1918)に海底ケーブルが敷かれて本島からの送電に。このように当時のハイテク技術や先端インフラが次々と投資されていたのが軍艦島。この島の炭鉱がそれほど重要な産業施設だったということを物語っています。
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これはプール跡。晩年に近い昭和33年(1958)に完成したもので、コースラインが残っています。プールといっても海水を使っていたそうです。真水は本当に貴重で、飲料水が最優先となります。風呂の湯舟も海水だったそうで、最後の上がり湯だけ真水が使えたのだとか。
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時々不自然に壁に風穴が空いていたりして、人為的に壊したであろう痕跡があります。たぶん、島の保管管理基準ができる前に上陸した頃に色々とあったのでしょう・・・可能な限り建物に近付いて中を覗いてみますが、残念ながら生活の名残りは感じられず。閉山から約40年。残っているのは無機質な残骸だけです・・・
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この遠目に見えるのは小学校兼中学校。昭和33年(1958)築なので比較的新しく、建築技術が進んでいるから崩壊も少ないようです。島内で唯一のエレベータ設置ビルとのこと。右写真手前の連続して建つ支柱のようなものは石炭を運ぶベルトコンベアー設備の残骸。この先に貯炭場があって、そこに一旦格納した石炭を船積みして運び出す場所です。
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マニアにはたまらないこのリアリティは、廃墟の聖地と言われるだけのことはあります。この構造は6階建てから後に屋上部分を追加建造して7階建てにしています。この横に病院もあるのでが、残念ながら見学許可地からは見ることができません。
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一番高台に建っているのは三菱の幹部社員社宅。ここだけ2LDKらしい。明治23年(1890)に三菱財閥が、持ち主からこの島を買収した金額は10万円。以降、通算1570万トンの石炭がこの島から運び出されます。日本経済の根幹を長く支えました。
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鉱山の中枢だった場所に残る西洋レンガの建物。ここだけ建築物の構造が少し違います。このビルは炭鉱の総合事務所で、一番立派なビルだったらしいのですが、採掘現場に近く金属疲労が激しくて殆どが崩壊しています。軍艦島の鉱山業は海底炭鉱なので、採掘現場は海面下1000m以上の地点まで掘り起こすという大作業。基本的に人足採掘なので気温30℃、湿度95%という劣悪環境の穴の中を、ガス爆発や倒壊の危険に常に晒されながら、昼夜を問わず採掘が続けられる現場は、想像を絶する過酷さだったことでしょう。
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従業員は朝鮮人や中国人も多くいたようで、日本人も含めて給料や食事を虚偽に近い好条件で勧誘され上陸してきた労働者も多かったようです。過酷な労働で病死したり、危険な採掘現場の事故による死傷者も少なくなく、島を泳いで脱出しようとして溺死する人も・・・。あえて語り継がれない部分での黒い歴史は色々とあるようです。この観光ツアーでは一切説明はありませんでしたが。
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軍艦島が5,300人の人口ピークを迎えたのは昭和35年(1960)。この翌年頃から徐々にエネルギー革命と呼ばれた石炭→石油への需要の変動が加速し、出炭量は徐々に減少。昭和49年(1974)1月に、端島の鉱山採掘事業は閉山を迎えます。職を失った住人達は次々と島を出ていくことになり、同年4月に人口はゼロとなります。それ以降この島は無人島。一般見学が許可されたのは2009年から。沈黙を続ける軍艦島は一見の価値はかなりあります。自分の目で見られる場所は限られていますが、今後安全確保が進めば、見学範囲も広がるかも知れません。ただし逆に時間が経てば経つほど自然崩壊は進むので、当時の原型を留めている場所は減っていくことも確実。正直今回の現場を見れば見るほど、大型の台風でもきたら、どんどん崩壊が進むと思いました。
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聞くと見るとでは大違い。“近代化産業歴史遺産”という建前だけでは語りつくせない、日本経済の誇りと犠牲が凝縮された、閉ざされた小さな島が軍艦島の正体でした。機会があれば訪れて損はありません。ツアー運営会社がいくつかありますが、上陸コースで4000円〜4500円が参加料。お年寄り、小学生以下も参加はできますがお勧めはしません。船酔いが苦手の人もちょっと厳しいです。あと二日酔いの人も自粛推奨(^^; でも、恐らく世界中で二つと存在しない場所です。見られるうちに是非!
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