ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

象眼ファイナルコミュの073ー1#本能寺の変1/9

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
前
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798028

超長文で途中で迷子になるだろうから、各稿に同じ目次を貼っておく。
(自分でも「アレって、どこで書いたっけ?」と忘れるのでwww)

ー 目次 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798029
 光秀はいつ決断したか
 ・光秀の謀反決行判断は直前だった
 ・秀吉関与の説は否定される。只、知っていた可能性はある
 単独犯行説
 ・明智単独犯/黒幕共犯はない
2 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798031
 朝廷守護説
3 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798032
 光秀家臣団のこと
 正妻、煕子のこと
4 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798033
 秀吉考察1
 あり得ない速さで移動した2人
 中国大返しの怪しさ1/兵糧の謎
 証拠の薄い完全な妄想/先行組が先に戻った
5 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798034
 秀吉考察2
 中国大返しの怪しさ2/援軍要請が意味すること
          3/京からの通知が秀吉軍だけに届いた偶然
            ・伝令=使者は、ただの郵便屋さんではない
             ラッパ=間者(かんじゃ)=忍び、である
          4/最短で和睦できた偶然
 偶然と因果律/偶然が重なるほど、そうなる因果律がある
6 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798035
 家康考察1
 家康のパーソナリティ
 神君伊賀越えの怪しさ1/時系列
7 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798036
 家康考察2
 神君伊賀越えの怪しさ2/遊行が長過ぎる
           3/京へ帰るルートが違う
 実はよくわからない/堺から生駒山中まで
8 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798037
 家康考察3
 謎だらけの家康一行1/時間を追え
          2/動画のルートの根拠
          3/飯盛山のふもとで合流した、この話し自体、
            すべて捏造?竹内峠ルート
          4/神君伊賀越え本当のルート
          5/家康一行はいつ、事変を知ったのか
          6/本能寺の変が起こる前から知っていた
9 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798039
 家康考察4
 家康は事前に知らされていた
 妄想)光秀と家康の密談
 互いに認め合った武将
 家康は必ず確認しただろう
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<光秀はいつ決断したか>

まず、アレコレ推論する前に、非常に重要なこと。

「光秀はいつ、謀反を決断したのか」

これは、本件の謎を解く上でキモといってよい。これが決まると、変の前後
での経緯が決まり、おのずと謎が絞られる。怪しいと思われる人物たちにも
関与不可能なアリバイが存在するケースもある。

この点を記した古文書としては「本城惣右衛門覚書」が定説になっている。
  (本城惣右衛門は当時、光秀家臣で本事変でも先鋒として闘っている)
只、末端雑兵の立場として「当日、京に入る手前で知らされた」であるとか、
別書「乙夜之書物」でも「前日6/1昼、光秀が亀山城で重臣らを集めて、
信長謀反の決断を伝えた」など、光秀の周囲に最初に伝わった日付であって
小生が問うているのは「光秀自身が決断したとき」である。勿論、光秀の
「ココロの中のこと」なので、それが推定されるような古文書は無い。
しかし、常識を使って事変の背景を考察すれば、推論は容易だ。

・当時、信長は隠居済みで、織田の家督は長男信忠に移っていた。
  名古屋の織田家拠点(岐阜城)は信忠に譲り、信長は琵琶湖(滋賀県)に
  新築した安土城に移り、親子は80キロ(徒歩18時間)離れた岐阜城と
  安土城におさまっていた。
    (安土城は事変のとき明智秀満の軍勢で陥落している。実際は城主が
     逃げて空城になって易々と占拠した。つまり、まともなイクサが
     できるような城では無かった、そこに信長が隠居して住んでいた。
     このことも織田家本体が信忠に移っていたことを示している)
・隠居した信長個人を抹殺しても長男信忠以下、織田家支配は温存される。

以上は考察や推論ではなく単に事実だ。日本を武力統治する織田武家体制は、
既に信長個人にない。勿論、隠居後も信長の権威は続いていたが、織田軍勢の
実働部隊は新親方の信忠配下にあり、実際に組織編成してガチのイクサをする
ときは信忠が主たる家臣に命じて実働部隊を編成/動かすようになっていた。
勿論、後述するように信長が秀吉に命じたり、光秀に命じたり、など、相応に
指導力は残っていて二重権力っぽい面はあったが、二重権力というほど信長の
チカラが強かったワケでもない。

  ★信長個人を抹殺しても、織田家による武力支配は維持される★

これが光秀が謀反する直前、日本統治体制の現実である。この背景を受けて
光秀が挙兵するとなれば、

・仮に光秀が信長個人に私怨があり、信長だけ消しさえすれば良かった場合、
 残された長男信忠が総大将となり、織田家総力戦の仇討ちによって明智軍が
 必ず滅ぼされるのは自明、そんなことは光秀も当然、理解していた。
・仮に「信長に象徴される織田家治世そのもの」を崩壊させるのが目的の場合、
 信長だけ消しても、残った長男信忠によって「信長的なる支配体制」は継続、
 目的達成にならない。
・そもそも論として、当時の武士の鉄則は「敵の親方、そして、嫡男=家督を
 継ぐ男系血縁者すべてを殺してお家断絶させる」のが普通=常識である。

つまり、ターゲットが信長個人でも織田家体制でも、長男の信忠が生き残れば、
ドチラであっても明智軍にとって致命傷/目的失敗だ。なので、信長謀反は
★信長/信忠揃って抹殺、が極めて重要★というか、大前提と断言してイイ。
(結果だけでみても、事変で信忠は討ち取られている)

また、この推論を裏付ける傍証として、
・光秀が謀反後、懇意の武将たちに協力/応援を求めて送った書状の文言には
 「信長父子の悪逆は天下の妨げ」と親子揃って天誅したとの文章がある。
・謀反の際、京内に少し離れて滞在していた信長、信忠、それぞれ2カ所を
 同時包囲し、せん滅している。

など、光秀軍は信長&長男信忠を同時に討ち取る計画だったのは間違いない。
さて、そうであれば大問題が出てくる。前述のとおり、

 ★岐阜城と安土城に離れている親子を、同時に討ち取る作戦計画★

が必須になってくるのだが、これは相当に難しい。
・明智家軍勢の規模
  明智の軍勢規模は常設の直属軍で1万強、大規模イクサが起これば、
  これに周辺の与力(配下の武将たち)を招集して最大3万規模と言われ、
  この規模を岐阜城と安土城に分散して同時に戦かうのは、いくら織田家
  最強軍団と言われた明智軍でも無謀、というか無理筋。
・織田家軍勢の規模
  隠居して直属の常設軍団を持たなくなった信長の軍団は2千〜最高でも
  5千と伝えられている。他方、家督を譲られた信忠軍勢は推論になるが
  領地が100万石だったことから、少なく見積もっても2〜3万は最低
  ラインらしい(実際はそれ以上を素早く動かせた)。事変前の甲州征伐
  では、大将として5万の兵を率いてイクサをしている。

手薄な安土城の信長はさておき、信忠だけを集中で攻めても軍勢の規模から
明智軍の勝算は五分五分か、やや劣勢というのが現実的な分析だ。
  (五分五分の勝算で自分からイクサを仕掛けるアホ武将はいない)
更に、80キロも離れた岐阜城と安土城に明智軍3万フル動員を分散させて、
同時に攻めて親子を討ち取るなど、ほぼ不可能と言ってよい。
  (明智軍の直属1万5千、これに1万5千の与力でフル3万といっても、
   与力には織田家配下の武士も多くおり、つまり織田家の兵を借りての
   3万なので、それらが織田家謀反に参加するハズもなく、集めても2万
   くらいが限界だろう)

仮に光秀が本能寺の変の以前から、たとえば数年前から信長抹殺を秘かに思い、
親子揃って、かつ、手薄な軍勢の好機を狙っていたが、都合よい状況が訪れず、
悶々と過ごしただろう。

そこに、信じられない偶然として信長親子が手薄な警備で揃った、それが
本能寺の変のときなのである。前後を時系列で追えば、

・武田信玄亡きあと、残った武田勝頼を討って武田氏が滅亡した甲州征伐で
 織田と徳川の連合軍が甲州に出兵して勝利。
・戻る途中、家康領地内で信長は接待されたりしながら安土城に戻る。
・このとき、徳川の武功をねぎらう為、今度は信長が家康を安土城に招待して
 接待することが決まった(信長が決めたこと)。
・家康接待が決まった時、信長は光秀を接待係に命じている。
 家康は家臣団30〜40名(諸説あり。MAXで100名)で安土城入城、
 という、ほぼ丸裸状態。
・そうして信長/信忠親子が安土に揃っての家康接待となる。
・このとき、毛利攻めの総仕上げとして織田軍本体が後詰(ごづめ)になって
 中国遠征が予定されており、予定どおり、信長と信忠は準備と謁見馬揃え
 の為、京に入った。
   (当時の慣習としてイクサの前、着飾った軍隊を朝廷/公家/町人らに
    パレードして見せて、己の軍勢の優美を誇示した)
・この安土城〜京入りのときこそ!信長信忠親子が揃ったタイミングで、かつ、
 護衛兵力も信忠軍勢わずか500〜1千(資料あり)という超・手薄の条件、
 明智軍勢はフルスペックも無用、直属軍1万5千だけで赤子の手をひねる楽勝、
 謀反成功は確実である。
   (前述通り、信忠は甲州征伐出兵時5万の兵を率いていおり、イクサが
    終わったあと、ほとんどの軍勢を尾張/美濃に戻し、護衛のわずかな
    兵を伴って安土城〜京に入ったことになる。
    京入りの目的は毛利攻めの仕上げのための後詰(ごづめ)とされて
    おり、信忠が京入りで実働部隊を率いていなかった疑問については、
    ・京入りで信長/信忠の織田家本体は待機、諸国の配下の武将らが
     まずは毛利攻めの先陣として出発。
    ・その間に織田家本体の軍勢を京周辺に揃える。
      (数万を超える軍隊は狭い京に入れないので、本体出発に備えて
       京の外周辺に待機させる段取り)
    ・そうして最後に織田家大軍勢が固まって中国に向かう
    というモノで、信忠が少ない軍勢で京入りした点については一応、
    合理的説明はある。

===============
光秀の謀反決行判断は直前だった
===============
前振りが長くなったが、要は、信長/信忠親子が揃った、このときこそ、織田家
を滅ぼす絶好のチャンス。光秀は、このタイミングで謀反実行を決めたのだ。
 (勿論、数少ないチャンスをとらえて挙兵したということは、それ以前から
  ずっと信長信忠抹殺=織田家断絶を秘かに狙い続けていたことを示している。
  信長と良好な関係で、なんら不満なく仕えていた光秀であれば、信長信忠が
  揃ったとき「謀反だ!」などあり得ない。必ず、それ以前から討ち取ることを
  考えてチャンスを狙っていたが、好都合なチャンスが訪れず実行できなかった、
  そういう歳月が続いていたが、本能寺で遂に実現した)

  ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
  光秀が以前から秘めていた謀反を決断したのは
  安土城で家康接待のときから京入りするまでの
  どこかに限られる
  (信長と信忠が手薄な軍勢で揃って京入りする
   日程が決まり、光秀がそれを知ったとき)
  ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

そうすると、様々な謎/陰謀論が解明できる。

=============
秀吉関与の説は否定される
只、知っていた可能性はある
=============
家康接待は信長が決めたモノだ。そして、秀吉の動向としては、
・このときよりはるか前=甲州征伐の前に、信長の命で中国攻めのため、
 秀吉は岡山に出兵している。なので(推論だが)光秀が謀反を決めたとき、
 秀吉は京には居なかったことになる。
・つまり、謀反に秀吉がなんらかの関与をしていた可能性は、ほぼ否定される。

例えば、仮定の話しとして、以前から秀吉と光秀が信長=織田家を打倒して
天下を取ると密約、チャンスを狙っていたとしても、本能寺でヤル!ということ
について、はるか遠くの岡山で戦争中の秀吉は一切介入できない。なので、
秀吉の黒幕/そそのかし/共謀などの陰謀説は否定される。
そもそも、オツムのイイ、百戦錬磨、イクサ上手の光秀が、秀吉ごときの策謀や
そそのかしなどに乗って利用されるなど考えにくい。
  (ルイスフロイス著書にも、光秀は有能武将で策謀や裏切りに長けており
   油断ならない者、という表現で記している。相当の知略家ということ)

明智軍は甲州征伐には出兵しておらず、織田徳川連合軍が遠くの甲州で戦って
いるときは自領地の坂本城や亀山城で待機=休養状態。織田家臣の中で近畿内
にいたのは明智軍だけだった。などから、
・秀吉は信長/信忠/家康、そして明智が近畿内にいたことくらいは、知って
 いた可能性はある。
・傍証はないが、家康が接待されること、接待係が光秀だったこと、くらいは
 織田家の内部情報として伝わっていた可能性もある。

以上、遠く離れた戦地で秀吉は、これら一連の経緯を知っていた可能性はある。

仮に、ずっと前から信長に対する光秀の秘めたる策謀を秀吉が知っていた、
それとなく気付いていたと仮定すれば、
・京は、手薄な信長信忠と家康、そして潤沢な軍隊を持つ光秀が揃っている
・光秀は信長によからぬ思いを持っている。
 「光秀がなにかヤバいことをするのでは?」

という予感くらいは持っていたかも知れない(それくらいの感度が無ければ
戦国の世を生きて出世することはできない)。

なので、秀吉は、
・光秀の謀反などまったく知らなかった=想像もしなかった=寝耳に水
或いは、
・事前に光秀が信長に秘めた想いを持っていたことを、それとなく感じて
 いたので、前述のような「謀反の好条件」が揃ったことを知って「光秀が
 よからぬことをしなければよいが・・・」くらいの予感があった

など、いずれかの想いで出兵先の岡山にいたかも知れないが、秀吉が謀反に
関与したという憶測は、前述「光秀がいつ謀反を決断したか?」の考察から
ほぼ不可能としてよい。只、それでも、後述のとおり「中国大返し」などで
大きな疑念があり、スッキリ腑に落ちない。

小生は以下のとおり、光秀単独犯行説である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<単独犯行説>

=============
明智単独犯/黒幕共犯はない
=============

この論は既に言われている説のひとつ。これを推す根拠は以下のとおり。

・光秀出自の謎
  光秀の出自については信頼できる古文書がなく「よく解らない」が事実。
  只、少ない古文書で解っている事実の点と点を結ぶと、どう考えても
  単なる無名の浪人とは思えず、それなりに格式ある血筋の可能性が高い。

  まず、通説とされる「土岐氏の血脈」は事実と思ってイイだろう。
  土岐氏は信長=織田氏より、はるかに家格が高い。光秀が足利将軍の近くで
  仕えていたことは、信長家臣以前の経緯として複数の古文書に記されており、
  まず間違いない。また、将軍の近くに仕えるには個人の能力以前、相当な
  家格がないと無理、という点からも名門・土岐氏の血脈説は整合する。
  只、
  一部資料から土岐氏であったとしても本家本流ではない、というのが通説。
  家格の高い家柄の本家本流なら、幼少期の逸話の数々が土岐氏や土岐氏と
  交流のあった他家の古文書に残されているハズだが、見つかっていない。
  土岐氏の分家/土岐氏の遠縁にあたる別氏などもあり得る。
  或いは、謀反人ゆえ、連座での仕置きを恐れた土岐氏周辺縁者が光秀関係の
  古文書を破棄/改ざんした可能性もある。ゆえ、足利将軍/朝倉氏に仕えて
  戦国史の表舞台に登場するまで、光秀の出生〜幼少期について記録が少なく
  謎である。
    (本家本流の男子なら、生年月日や元服を記した古文書がひとつも
     ないことはあり得ない)

  また、そういう家格の血脈が推定されるのに、一定期間、著名な親方に
  仕官せず、浪人状態で放浪しており(これは資料でほぼ確定)背景が謎だ。
  家柄の高い武士なら家名のコネで著名親方に仕官できたハズ。何か失敗、
  やらかし、をして、一族から破門でもされたのか。色々な憶測が生じる。

  更に最大の謎として、放浪暮らしが続いていたと推定されるにも関わらず、
  京の情勢/習俗(俳句/連歌/茶の湯)/朝廷儀礼に詳しく、一体、いつ
  どこで、それら作法や知識を身に着けたのか、が解らない。これら作法や
  知識は、いずれも今で言う政財界重鎮とのパイプが無ければ、場末の浪人
  ごときが会得することはできない。信長ですら尾張地方の田舎サムライ、
  都に出てくるまで(上洛まで)、茶の湯など無知、というか、接したこと
  すら無かった。まとめると、
   ・家格の高い土岐氏の血脈だとしても、長い間、仕官せず(できず)?
    貧乏な浪人暮らしだったこと
   ・にも関わらず、朝廷儀礼や京の習俗に詳しいエリート性をいつ、どう
    やって会得したのか
  など整合した人物像が見えてこない。

    (当初、光秀は足利将軍とのパイプ役として朝倉、次いで信長、両方
     に仕えるカタチから、信長が光秀の才を認め、朝倉に「光秀をもらい
     たい」とヘッドハンティングされ信長に仕えた、という経緯である。

     足利将軍家は部下の謀反によって兄が討たれ、弟が都落ちする状態で、
     何としても京に戻って将軍家再興を欲しており、その為、強力な武力
     を持つ新興勢力の信長に目をつけて上洛を求めた。朝倉氏にも上洛を
     求めたが、没落した=オワコンの将軍家にお供して、己がイクサに
     巻き込まれることを忌避、応じなかった。信長は無名の新興勢力ゆえ、
     足利将軍上洛のお供で全国に名を売ることで、織田家の家格をイッキに
     上げる絶好のチャンスと引き受け、そのとおりになった。

     光秀は将軍家にお供して上洛するのが本意だったので朝倉氏を見限り、
     上洛に名乗りを上げた信長に従い、その流れで信長家臣になった。
     つまり、
     信長に仕えた動機も、信長が強い武将ということはあったが、将軍家
     =武家秩序の再興という想いが強かっただろうと推論でき、であれば、
     必ず、武家秩序、その先にある「朝廷秩序の守護」すなわち、光秀が
     理想としたであろう「日本秩序のカタチ」があったのは間違いない。
     そして、これが信長謀反の動機につながっていくと思うのである)

  この★著名武将たちに仕官する以前の空白期間★に、本能寺の変の動機を
  ひも解く手がかりがあると想像するが、資料は少ない。

・明智氏滅亡のリスクを賭けるだけの大義
  例えば、上杉/毛利など巨大軍事力を持つ大名と連携して信長を討つなら
  まだしも、基本、明智軍だけで親方殺しの謀反をすれば、信長の他の家臣
  たちから弔い合戦をされるのは必定だ。屈強な明智軍でも、他の家臣から
  総がかりで責められれば軍事力では絶対に勝てない。

  しかし、明智軍は明智軍だけ単独で謀反している。事前に懇意な武将らへ
  謀反への協力要請をした傍証もない。仮に、あったとしても明智軍敗北、
  お家断絶した以上、生前、己が謀反を知らされていた、などがバレれば、
  己が危なくなる、と闇に葬ったのかも知れない。

  様々な陰謀/黒幕説はあるが、本能寺の変を実行したのは明智軍だけ、
  他の軍団は関係ない。

  弔い合戦で敗北する可能性が高い=明智家滅亡を覚悟して実行している。
  ココに動機を読み解く大きなカギがある。

     (これについて明智軍は弔い合戦でも勝算があり、その後の天下は
      取れると読んでいた、しかし、秀吉の大返しで予定が崩れて、
      不利な弔い合戦になり、予想外で滅亡した、とする説がある。
      事実として秀吉以外の織田家臣たちは事変の一報を知っても、
      それぞれの持ち場で敵と対峙して動けず、弔い合戦できなかった。
      秀吉も中国大返しという神ワザの帰還が無ければ、他の家臣らと
      同じく岡山に釘付けだったし、光秀もそう考えていただろう。

      それでも、小生はこれら論には否定的である。
      光秀に入念な計算など無かった。とりあえず、やるだけやる。
      後のことは考えなかった、という方が事実にちかいと思っている。
      例えば、
      前述のとおり事変後、懇意の細川家に協力を求めて書状を出して
      いるが、その内容は、あの冷徹で賢い、計算高いイクサ上手の
      光秀の影もない。書状には「協力したあかつきには、〇〇領地を
      与える」など恩賞提示しているが、天下の信長の主君殺しという
      ★武家世界の大罪★をした者に協力を求める内容として、細川家は
      恩賞で動くような低い家格ではない。それ相応の=主君殺しをも
      超える大義で同意しない限り、或いは、信長によって細川家が断絶
      するなどの切迫した理由でもない限り、恩賞で協力しよう、など
      あり得ないし、細川家と懇意だった光秀が、そんな条件闘争程度で
      細川家が転ぶなど、そもそも光秀自身が思わなかったハズだ。
      「細川は聡明な武将だ。領地の恩賞くらで主君殺しに寝返るような
       そんな易い武将ではない」光秀もそう思っていただろう。

      このように、謀反後の光秀は各方面に同様な書状を出して協力を
      求めているが、そういう根回しはイクサの前にやっておくのが筋、
      それも光秀自身が誰よりも解っていたハズだ。
      「イクサの後で領地の恩賞で仲間を集って成功するハズがない」と。

      これら謀反後の光秀の「慌てぶり、混乱ぶり」は、事前に入念な
      計画など無かったことを示している)

  光秀としては、己の家系が滅亡するとか、家臣たちの家族/親族まで皆殺し
  されるとか、そういうことになってでもやる!理由があった。そして家系滅亡
  してでもやる!という動機は、戦国時代の武将の常識ではあり得ないことだ。
 ↓↓↓

コメント(1)

 ↓↓↓
  戦国武将の基本は、とにもかくにも、お家を守ること=続けることが第一、
  周囲の敵を消すために生涯、闘っているようなモノである。
  つまり、同じ戦国武将の光秀だが、彼の理念=ポリシーが元々、他の普通の
  武将とは異なっていた、その理念=ポリシーが戦国武将としては非常識な
  「家系滅亡してでもやる!」になった。
  さて、
  「家系滅亡してでもやる!」その大義とは何だろう?コレが解らないと、
  本能寺の変の謎はとけない。でも、そんなに難しいことではない。
  「家系滅亡してでもやる!」つまり、己個人のことを超えていくなにか、
  ソレは「天下国家の為」しか残っていない。
  ★天下国家の大義の為、光秀は明智家滅亡を覚悟して変を起こした★
  つまり、光秀は信長(と長男)が存命して織田家統治が続くと、天下国家が
  危なくなる!と思ったのだ。

続く
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798031

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

象眼ファイナル 更新情報

象眼ファイナルのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング