ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

象眼ファイナルコミュの073ー9#本能寺の変9/9

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
前
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798037

ー 目次 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798029
 光秀はいつ決断したか
 ・光秀の謀反決行判断は直前だった
 ・秀吉関与の説は否定される。只、知っていた可能性はある
 単独犯行説
 ・明智単独犯/黒幕共犯はない
2 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798031
 朝廷守護説
3 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798032
 光秀家臣団のこと
 正妻、煕子のこと
4 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798033
 秀吉考察1
 あり得ない速さで移動した2人
 中国大返しの怪しさ1/兵糧の謎
 証拠の薄い完全な妄想/先行組が先に戻った
5 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798034
 秀吉考察2
 中国大返しの怪しさ2/援軍要請が意味すること
          3/京からの通知が秀吉軍だけに届いた偶然
            ・伝令=使者は、ただの郵便屋さんではない
             ラッパ=間者(かんじゃ)=忍び、である
          4/最短で和睦できた偶然
 偶然と因果律/偶然が重なるほど、そうなる因果律がある
6 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798035
 家康考察1
 家康のパーソナリティ
 神君伊賀越えの怪しさ1/時系列
7 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798036
 家康考察2
 神君伊賀越えの怪しさ2/遊行が長過ぎる
           3/京へ帰るルートが違う
 実はよくわからない/堺から生駒山中まで
8 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798037
 家康考察3
 謎だらけの家康一行1/時間を追え
          2/動画のルートの根拠
          3/飯盛山のふもとで合流した、この話し自体、
            すべて捏造?竹内峠ルート
          4/神君伊賀越え本当のルート
          5/家康一行はいつ、事変を知ったのか
          6/本能寺の変が起こる前から知っていた
9 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798039
 家康考察4
 家康は事前に知らされていた
 妄想)光秀と家康の密談
 互いに認め合った武将
 家康は必ず確認しただろう
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<家康考察4>

=============
家康は事前に知らされていた
=============
家康の疑惑について、いよいよクライマックスである。ココから先は
完全な小生個人の想像になる。古文書などの傍証は無い。
「その証拠は?」など尋ねないでいただきたい。以後すべて小生の想像だ。

小生は、家康が事前に事変を知って堺に向かったと考えている。
そうして、神君伊賀越えで脱出した。

勿論、家康は本能寺の変の黒幕ではないし、光秀と共犯したのでもない。
事変は光秀と明智軍の単独行動である。
なので、家康は事変を事前に知らされた、という立場になる。

では、いつ、誰から、家康は事変を知ったのか?

  ★★★★★★★★★★★★★
  家康は
  ・安土城で祝宴の接待を受け
  ・京見物をして
  ・京を出発して堺に向かう
  このどこかで本能寺で事変が
  起こることを知らされた
  ★★★★★★★★★★★★★

のである。

一体、誰から?光秀本人から!である。

  ★★★★★★★★★★★★★★★
  家康は本能寺の変が起こることを
  光秀本人から知ったのである
  ★★★★★★★★★★★★★★★

ココで当時の時系列を思い出そう。
前稿6「神君伊賀越えの怪しさ1、時系列」で書いているが、おそらく、
忘れているだろうからw、同じ部分を再度コピペする。

ー ー ー ー ー
事変の前年10月
 秀吉軍、中国征伐で岡山方面に出兵開始
事変の年
3/11
 甲州征伐(織田/徳川連合軍が甲斐山梨に出陣)
 武田氏滅亡(掃討作戦で武田勝頼自害)
3/15
 秀吉軍、姫路城から備中(岡山)へ進軍
4/10
 甲州征伐を終えた織田/徳川軍、山梨をあとに凱旋帰国路へ

〜この間、家康は徳川領を通過のとき、織田軍勢をもてなす=「富士遊覧」
〜信長はこれに感激、返礼として、今度は信長の誘いで徳川を安土城での
〜祝宴を申し出、家康も応じる。
〜一旦、家康は自城に戻り、織田軍勢と別れる。

4/21
 織田軍、安土城に到着
5/01
 秀吉軍、高松城で水攻めを開始
5/15
 徳川、接待に応じる為、安土城に着(明智が接待係り)
5/17
 秀吉から信長へ援軍要請の書状が届く
  (定説では、これは秀吉軍が劣勢なのではなく、概ね戦闘で勝利の目途が
   つき、そのまま終わらせることができたが、あえて最後の総仕上げとして
   信長に華をもたせる意味での援軍要請=信長に対する秀吉の「よいしょ」
   だとされている)
 信長は光秀に援軍を命令、明智軍は坂本城にて出陣準備
 (家康接待は続くが、接待係りの光秀は途中で交代を命じられる)
5/21
 家康一行、安土城を出る。信長の勧めで京見物の為、しばし京に滞在。
5/29早朝
 家康一行、堺(大阪)に出発。安全で早い川下りの船で移動。
 信長が本日午後に京に入る事を知った上で、信長の到着より先=早朝に
 京を出ている。
 このタイミングについて、よく言われるのが「信長に挨拶して出るのが
 礼儀では?オカシイ」という論もあるが、長居しているのが逆に無礼と
 いう筋もあり、当時の慣習に照らしても直ちに怪しいとは言えない。
5/29午後
 信長が本能寺に入る(信忠とわずかの軍勢も少し離れた京内に入る)
 同日、家康一行、堺に到着
6/1(旧歴で5月は29日までなので6/1は5/29の翌日)
 翌日、家康一行は堺の著名人らと茶会をする。
 堺着翌日の茶会という過密スケジュールから、茶会予定は少なくとも、
 家康一行が京を出る以前に決定=堺にも伝わり準備されていただろう。
6/2事変の当日
 家康一行、早朝に堺を出る。船は使わず徒歩で移動。
 事変も明け方に起こっているので、ほぼ同じタイミングになる。
ー ー ー ー ー

コピペ終了。

まず、光秀だが、
前稿1「光秀はいつ決断したか」の考察で、光秀が謀反を決めたのは、
「信長/信忠親子が手薄で揃うことを知ったとき」
そうして、
「光秀が以前から秘めていた謀反を決断したのは、安土城で家康接待のとき
 から京入りするまでのどこかに限られる
(信長と信忠が手薄な軍勢で揃って京入りする日程が決まり、光秀がそれを
 知ったとき)」

とした。さすがに光秀がこれら情報をいつ知ったか?は想像するしかないが

或いは、
4/21織田軍、安土城到着時点で、本能寺入りが伝えられたかもしれないし、
或いは、
5/17秀吉の援軍要請で信長が明智軍の準備を命じたとき、条件が揃った!
かも知れない。

次に家康だが、
5/15接待に応じる為、安土城に着、で接待となる。
5/21家康一行、安土城を出る。信長の勧めで京見物、しばし京に滞在。
5/29早朝、家康一行、堺(大阪)に出発。
で
5/29午後、信長が本能寺に入る

となるが、家康はいつ、光秀から事変を知らされたのか?
5/15〜5/29早朝、堺(大阪)に出発、までのどこか、だ。
可能性としては明智軍が援軍を命令された5/17以降だろう。

5/17明智軍の要請で、光秀は「謀反条件が揃った!」と決断。
  ケース1〜安土城内で、光秀から謀反を知らされた〜
5/21家康安土城を出る。
  ケース2〜京滞在中に、光秀から謀反を知らされた〜
5/29早朝、家康一行、堺(大阪)に出発(既に謀反を知っていた)

安土城内での密談は両者にとって危険なので、京に滞在中かも知れない。
そのとき、光秀は軍勢を整えるため、5/17には安土城を出ている。
この京滞在中=5/21〜5/28(堺出発の前日)のどこかで家康は
光秀から謀反を知らされた。時間はたっぷりある。

ドラマチック?に両者の密談を妄想しようw。

===========
妄想)光秀と家康の密談
===========

光秀「実は、貴殿だけ内密で重要な話しがある」
家康「内密で重要な話しと?・・・うかがう」
光秀「5/29に信長さまが本能寺入りするが、そのとき、京で大きな
   紛争が起こる」
家康「なんと!それはイクサか?」
光秀「確実に言えるのは京で大きな紛争が起こる、これは間違いない」
家康「それは信長さまを討つという謀略か?」
光秀「詳細は言わない。只、貴殿も承知のとおり、現在、近畿内にある
   軍勢はいない」
家康「明智軍以外は、であろう?(光秀謀反の意を察する)」
光秀「おしてはかるべし、それ以上、申さずとも貴殿ならお解りだろう」
家康「(謀反を)決めたのか?」
光秀「これは、動かしようもない天命である」
家康「そんな重要なこと、なぜ、拙に話した?拙が織田家に通報すれば
   計画は水の泡になり、貴殿も斬首刑になる」
光秀「それなら、それも天命である。只、貴殿なら、それが天下にとって
   必要なことくらい解っているだろう。誰がやるか?は問題ではない。
   ソレが実現することが重要なのだ。貴殿はそれを解っている。織田家
   に通報して天命を邪魔することはないだろう」
光秀「コレは天命、天誅である。なので、貴殿には一切、関係ないことだ。
   ことが起これば京は大騒乱、アチコチで検問/封鎖が起こるは必須。
   京周辺におれば貴殿一行も拿捕される。京からなるべく遠く離れられよ。
   京から去れば貴殿一行を追い討ちすることはない、それは約束する」
家康「委細、承知した。すべて己の胸のうちにしまい、誰にも口外しない。
   そして、京から離れる」
光秀「それで結構。残された織田軍勢をおもえば、貴殿とは、これが最期に
   なるかも知れない」
家康「おそらく、そうなるだろう。しかし、貴殿の想いは同意、武運祈る。
   貴殿のような真の武士に出会えて光栄であった」
光秀「それはコチラも同じ。日本秩序のため、徳川家は尽力されたい」

あまり、ドラマチックでもないなwww。

==========
互いに認め合った武将
==========
光秀と家康は古くは「金ヶ崎の戦い」から互いの武功を認め合っている。
(と思われる=個人推論)

・朝倉征伐の織田/徳川連合軍は、義弟・浅井の裏切りで前後をはさまれ
 絶体絶命になった
・織田軍は全軍退却!となったが、朝倉攻めの最前線で戦っていた徳川軍
 には退却命令が届かず、取り残された。
・明智軍と秀吉軍は殿(しんがり)を命じられ、織田軍退却を援護する。
 結果的に徳川軍も殿と連携して撤退することになる。

  殿は、追い討ちする敵と闘って時間稼ぎする間に自軍を逃がす盾と
  なるが、全滅必須の命がけである。

・秀吉、光秀、家康は殿として、互いが窮地に陥る重要局面で協力しながら
 なんとか帰還できた。
・当時、光秀43歳(信長より年上)、秀吉34歳、家康は弱冠28歳!
 家康にとって光秀はひと回り超の年上。光秀にとって家康は血気盛んな
 若武者ではあるが一国一城の主である。そうして絶体絶命の修羅場を
 戦い、生き延びた戦友となる。
・本能寺の変のとき、光秀54歳、秀吉48歳、家康39歳。
 当時の平均寿命は37〜42歳(推定)。
 武将が家督を譲り隠居する年齢が40歳後半から(推定)。
 光秀の54歳は当時の武将としては隠居でもおかしくない初老である。
 しかし、天下統一のため、織田家臣団の先頭で現役として戦い続けていた。

小生が家康なら、間違いなく織田軍団で光秀をトップ視していただろう。
・イクサの強さ(鉄砲使いの技/戦略立案の賢さ/私情を排した冷酷さ)は
 織田軍団でもズバ抜けている。
・教養の高さ(和歌/茶の湯/京雅に精通)は、コレも他の織田家臣には無い
 光秀の特質である。
・事実、仕事もできる。多くのイクサで連勝。負け戦も多少あるが、確実性に
 おいて織田軍団で常にトップレベル。

そういう光秀が、傲慢で粗野な信長を人間的に認めているハズがない。
家康なら、事変が起こる前からずっと、そう感じていただろう。
そもそも、足利将軍家の再興を願って織田家に属した経緯を思えば、同じ武将
として「信長と光秀が見ている未来」が違うことなど、容易に察しただろう。

「信長と光秀、この二人は、いつか別な道を行くのだろう・・・」

だから、光秀から謀反決行を知らされたときも、驚きはあったと同時に
「ああ、やはり、この日が来たか・・・」という感慨だったのではないか。

光秀が家康にゲロったという超危険ができたのも「家康も同じ想いだろう」
というシンパシーがあったからだと思う。
一応、家康も織田軍団の配下ということで言えば、光秀の想いは、
・織田家臣はみな、恐怖政治の信長に徹底服従しかできない、
・しかし、家康は違う。彼は冷徹に信長の邪悪さ、危険性を理解している
・己の想いが通じるとすれば家康しかいない。

絶対服従の織田家臣団の中で、光秀と家康だけが他の家臣たちとは別な想いで
信長に仕えていただろう。それ故、謀反の重大事を家康に伝えた・・・。
「あとの世を頼む」と・・・。

============
家康は必ず確認しただろう
============
さて、これら個人妄想について、自分で自分の推論を評価すると、
・そういうロマンチックだったらイイな、との願望もありつつ、
・現実的にチョッとなあ、という疑問もある

・京で光秀から謀反を知らされ、同じ武将として熱い想いがあった・・・
としても!
・ホントに光秀は謀反を実行するだろうか?光秀のヤル気は確かでも、
  例えば明智軍家臣たちから猛反対されて断念などもあり得る
  話しが漏れて計画がパーになるかも知れない
  謀反は実行したが、信長親子が脱走、生き残り、織田体制に変化なし
  もあり得る
・ホントに謀反決行されたか、信長/信忠が揃って殺害されたか、
 これを確認するまで三河に帰還できない
  →三河に帰還、しかし、信長/信忠が存命だった、或いは明智軍団が
   弔い合戦で滅亡すれば、残った織田家臣から「家康は何故、三河に
   向かったのだ!」と謀反加担の疑惑を受け自分が絶体絶命になる。

用心深く、疑り深い家康パーソナルを思えば、謀反実行と信長親子の死を
確認しないと軽々に動けない、と必ず考えるハズだ。そうすると、
・堺に出発する前、京で秘密を守れる者に、
・京で騒動が起こるという噂がある
・京の動向に注意し、なにか起こったら至急、堺まで知らせろ。
・最悪、三河まで脱出する必要もある。遅れてはならない。

くらいの用心はあって当然だろう。そうすると、前稿で否定したが、
「豪商Aが早馬で堺に知らせた・説」が現実味をもってくる。
・家康一行も豪商Aも京でイクサが起こる想定をしていた。
  (豪商Aには詳細を言わず「騒動の噂を耳にした」程度で話す)
・只、起こらない可能性もあるので、確認する手順を打ち合わせた上で
 堺に向かった。
・やはり謀反は起こり、豪商Aが堺に急報してきた。
・そうして、想定した脱出作戦を実行した。

この方が家康パーソナルを考えると現実的な気もする。
なので「豪商Aが堺に謀反を知らせた・説」は一応、留保、あり得る筋として
残しておく。只、「事前に謀反を知っていた・論」は変えないが。

貴殿は、どう考えるか?答えは無い。自由に推論/妄想していただきたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<まとめ>

================
偶然は、そうそう続くモノではない
================
以上、織田家臣(配下)の秀吉と家康が揃って「ありえない速さで大移動した」
そこには、
・秀吉にも、数々の偶然があり、
・家康にも、数々の偶然があり、

それら偶然の総数を合わせれば、ココまで偶然が重なることは確率論からも
論理的思考からも道理からも常識からも、そして直感からも、あり得ない、と
する方が、逆に合理的かつ論理的である。

勿論、小生は冒頭のとおり光秀=明智軍の単独犯説であって、秀吉や家康が、
首謀/協力/そそのかしなど、どんなカタチであれ謀反に加わった可能性は
無いと思っているが、しかし、
・警備の手薄な信長/信忠が揃って京に在ったこと
・軍勢として唯一、明智軍がいたこと

このドチラかの偶然が起こらなければ、おそらく光秀は決断しなかっただろう。
そして「煕子の死」の偶然・・・。

要は、秀吉も家康も謀反に加担はしていないが、事前に京で大きな騒動が起こる
ことは知っていた、とすれば、すべての偶然は消え、謎も消え、知った上で予定
していた行動を粛々と実行した、だけの話しになる。

=============
家康討伐の裏をついた光秀?
=============
最後に陰謀論「家康暗殺計画が崩れた結果・論」について。

・織田は家康暗殺計画を画策していた
・信長が家康を接待/京で見物させて油断させる、
・信長の命で明智軍が家康を討ち取る計画のところ
・これを逆手に取った光秀が裏をかいて信長親子を討った

という陰謀論も魅力的ではある。背景としても、
・名古屋の織田にとって、東の最大脅威だった武田家滅亡が実現、
・今までずっと東の脅威への盾として機能してきた徳川家、
・これを滅ぼせば、東の脅威は完全に消え、徳川領地も手に入って万々歳
・残る西方面は、秀吉を先陣に毛利領を攻め取ってコチラも憂いなし

信長が徳川を狙ったという推論は信長のパーソナリティを思えば大いに
あり得る筋だ。
・連合軍として頼りになる徳川軍勢
・であるだけに、これが寝返ったら織田家に大きな脅威になる

信長なら必ず、その想いはあっただろう。また、明智が徳川を討つモノと
スッカリ信じ込んでいたからこそ、無防備で京入りしたことも整合する。

あの夜、本能寺で就寝した信長は、徳川滅亡の夢を観ていた・・・

同時に、この陰謀への反論として、
・そもそも、家康は京を出ていて、同日、信長が京入りしている。勿論、
 明智軍も京に集結している。この時点で京で家康が討たれなかった、
 では明智軍は堺まで家康を追いかけていくつもりだったのか?そんな
 面倒はせず、京に滞在中にサッサと殺ってしまえばイイだけである。
 家康一行が京を無事に出て堺で1日過ごしている事実が、家康暗殺論を
 簡単に否定している。
・武田が消えたとしても、東には(やや遠いが)関東の北条、中部には真田、
 上越には上杉、など、まだまだ強豪な仮想敵国が控えており、
・徳川を消せば織田領地がこれらと直接対峙することになる
・それよりも同盟を続け、徳川をこれら東の盾とした方が、万が一の際でも
 徳川が攻められる=織田家のリスク低減できる
・そのメリットの方が大きい、まだまだ織田徳川の同盟体制がベスト
・毛利攻めも落着、九州を残して西がほぼ織田勢力下に平定した、そのあと!
・最後の仕上げとして徳川を滅ぼして万々歳!

これが信長の野望だと推論する。信長は、いずれ徳川を攻めた可能性はあるが、
当時はまだ協力を続ける時期だったとするのが妥当だろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<PS>

================
AI君はシレっとウソをつくwww
================
証拠となる資料の少ない歴史考察ではAI君のチカラは絶大だ。
小生も本稿に際し、多くAI君を使った。只、質問のやりかたは要注意だ。

AI君は、シレっとウソをつくwww。

例えば、
Q、〇〇が起こった日時は?
A、〇月〇日です

しかし、
Q、その傍証となる古文書の記述を提示せよ
A、〇月〇日は歴史学者の推論で、それを記した古文書はありません

というパターンが非常に多い、というか、ほぼすべてソレといってもよい。
だから、必ず「〇〇について傍証となる古文書はあるか?」という聞き方を
セットでしないとウソ話しを信じることになる。

また、質問の際「〇〇という説明は合理的/論理的にはあり得ないが・・・」
という聞き方、この「合理的/合理性」というワードにAI君は敏感だ。
同じ質問でも、
・Q、〇〇という説はホントか?
と、
・Q、〇〇という説は合理性の点でホントか?
ではAI君の回答が違ってくる。

例えば、AI君に
「今の回答は〇〇の前提の上に成立するが、そもそも〇〇の前提があった
 という事実がないのでは?」
「ご指摘のとおりです。今の回答は〇〇の前提事実がなく、よって正しい
 回答ではありませんでした。お詫びします」

とAI君が謝罪してしまったwww。

つまり、AI君が悪いのではなく、質問の仕方が悪いということ。
基本「根ほり葉ほり、しくこく尋ねる」をしないと求めるモノに到達しない。
  ーー2026/1/19追記ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   更に厄介なのが、質問者の心理を読んで、それにあわせた回答を
   してくる点だ。質疑応答を繰り返すことで、小生が光秀に対して
   シンパシーを持っていることを察し、光秀のネガにつながる推論を
   しなくなり、そういう傍証を出さなくなる。だから、己の意図とは
   逆な質問を、はさみ込んでいくような質疑応答をして、AI君を
   軌道修正させることが大切
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

傍証となる古文書がある場合、瞬時にそれを出してくれるので、いちいち
ワード検索でググっていた昔より、はるかに効率的に結果を手にできる。

しかし、日本全国にあるネット情報で引ける古文書は星の数ほどあり、
それらすべて引用/列挙して回答することは、何千何万行にも及ぶ量になり、
物理的にできない。だから、コチラの質問主旨から、上位いくつかの傍証を
回答するが、質問の言葉を変えると、他の傍証を出してくる、それを何度か
繰り返して、おおよそ、ネタ切れ=繰り返しても同じ傍証を出し続ける、
というくらいまで確認しないとならない、そういう意味では時間もかかる。

只、「歴史探求」に限定した上で!だが、AI君はコチラの聞き方を変える
ことで回答も変わり、知らなかった関連事実を色々知ることができる、
ソレはそれで小生のようなヒマな人には楽しいことだ。

以上、終わり。ご苦労さん。

コメント(2)

<これも有りか>

小生想像「光秀が家康に謀反を知らせた」と「家康討伐・説」を
混ぜてもオモシロイ。

光秀「実は、信長さまから貴殿を討て!と命じられておる」
家康「なんと!」
光秀「安土城での接待も京見物も貴殿を油断させる為だ。
   毛利攻めで出陣する前に、無防備な貴殿一行を軽く討ち取って
   中国に向かえ!との命である」
家康「何故、それを拙に話しだのだ?裏切りではないか!」
光秀「明智軍は討伐をする!」
家康「!!!!」
光秀「しかし、それは貴殿一行ではない」
家康「????」
光秀「討たれるのは信長さまと信忠さまである」
家康「なんと!」
光秀「信長親子は、我が軍勢が貴殿を討つのを確信して京入りする。
   護衛の軍勢も手薄、赤子の手をひねるに等しいモノだ。
   信長親子が京入り後、我が軍勢は中国後詰の織田軍勢が揃う
   前に動く、決行日は状況次第で決まっていないが、本能寺に
   入ってすぐになろう」
光秀「貴殿一行を巻き込みたくない。よって、信長さまが本能寺入り
   するまでに京を出られよ。なるべく京から遠く離れられよ。
   信長さまが本能寺入りした後、京に留まっている貴殿一行の
   安全は保証できない。只、京から出た貴殿一行は追撃はしない。
   それは約束する」
家康「委細承知。只、堺での茶会は(ドタキャンは怪しまれるので)
   動かせず、我らが京を出るのは予定通り信長さまが本能寺入りの
   当日、早朝になる」
光秀「それなら安全だ。貴殿一行は京での騒動を堺で知ることになるだろう」

家康一行は信長が本能寺入りする数日前、京で接待を受けつつ、夜な夜な
重臣で作戦会議を繰り返した。

・安全の為、一刻も早く京を出たいが、
 京でも、引き続き織田信忠や、朝廷公家衆らとの祝宴など、既に
 スケジュールが組まれている。堺での茶会も決まっている。
 これらドタキャンして三河に逃げれば、己も事前に謀反を知って
 いたことがバレるのは必定。マズい。
・堺での茶会は信長本能寺入りの翌日にセットしてある。
 (おそらく、まず堺での茶会を決め、ソレに合わせ前日に京を出た、
  たまたま、それが信長本能寺入りの日だったという因果律だろう。
  早朝に出たのも信長を避ける意ではなく、本稿での「時間の考察」
  のとおり、早朝に出なければ堺は夜になってしまうからだろう)
・光秀は信長本能寺入りするまでは動かない、と約束している。
 なので、ギリギリだが、とりあえず京での日程を終え、堺に行って
 茶会を済ませ、そこで様子見する。
・なにかあれば豪商Aに早馬で知らせるように命じておく。

光秀軍の判断によっては本能寺の変が数日ズレて起こったかも知れない。
結果として、あの日=堺茶会の翌日早朝になったが。その場合、堺での滞在が
延びた・・・。只、光秀が最短で実行したので茶会の翌日に脱出することに
なったが・・・。
「君臣伊賀越えの奇蹟のルート」も京で数日、堺からの脱出ルートを練った。
念の為、信用できる伊賀者に使者を出し、脱出の際の手助けを手配する。
とにかく、無事、三河に戻ることが必須、細かいことは、あとからどうにでも
偽装すればよい。穴山一行は・・・消してしまえ!
(当時、家康一行と穴山信君一行は安土城での歓待から堺〜神君伊賀越えまで
 共に行動しており、伊賀山中で家康一行と別行動を取って落ち武者狩りで掃討
 された定説があるが、小生は家康一行が口封じで殺ったと推論している。
 ・家康一行の行動すべてを知っていた=脱出ルートの真実を知っていた
 ・穴山信君は武田滅亡した甲州征伐で武田氏を裏切って徳川家に転んだ者で
  信用できない。
 ・穴山信君は裏切っ際に、信長から旧武田氏領地などを約束されている。
  穴山を葬れば、これら領地が徳川のモノになる。事実、本能寺の変のあと、
  穴山領地は徳川領になっている)

裏切りの裏切り、それが「本能寺の変」だったのかも知れない

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

象眼ファイナル 更新情報

象眼ファイナルのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング