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象眼ファイナルコミュの073ー6#本能寺の変6/9

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ー 目次 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798029
 光秀はいつ決断したか
 ・光秀の謀反決行判断は直前だった
 ・秀吉関与の説は否定される。只、知っていた可能性はある
 単独犯行説
 ・明智単独犯/黒幕共犯はない
2 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798031
 朝廷守護説
3 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798032
 光秀家臣団のこと
 正妻、煕子のこと
4 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798033
 秀吉考察1
 あり得ない速さで移動した2人
 中国大返しの怪しさ1/兵糧の謎
 証拠の薄い完全な妄想/先行組が先に戻った
5 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798034
 秀吉考察2
 中国大返しの怪しさ2/援軍要請が意味すること
          3/京からの通知が秀吉軍だけに届いた偶然
            ・伝令=使者は、ただの郵便屋さんではない
             ラッパ=間者(かんじゃ)=忍び、である
          4/最短で和睦できた偶然
 偶然と因果律/偶然が重なるほど、そうなる因果律がある
6 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798035
 家康考察1
 家康のパーソナリティ
 神君伊賀越えの怪しさ1/時系列
7 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798036
 家康考察2
 神君伊賀越えの怪しさ2/遊行が長過ぎる
           3/京へ帰るルートが違う
 実はよくわからない/堺から生駒山中まで
8 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798037
 家康考察3
 謎だらけの家康一行1/時間を追え
          2/動画のルートの根拠
          3/飯盛山のふもとで合流した、この話し自体、
            すべて捏造?竹内峠ルート
          4/神君伊賀越え本当のルート
          5/家康一行はいつ、事変を知ったのか
          6/本能寺の変が起こる前から知っていた
9 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798039
 家康考察4
 家康は事前に知らされていた
 妄想)光秀と家康の密談
 互いに認め合った武将
 家康は必ず確認しただろう
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<家康考察1>

家康の怪しさは
・事変が起こる直前からの行動
・神君・伊賀超え
・これらから、家康一行は事変が起こる前に、知っていたのではないか

というモノである。尚、疑念は「事前に知っていたか否か」であって、
「光秀と通じて事変を画策した」的な黒幕/共犯説は考慮していない。
・家康が黒幕/光秀は実行犯
・家康と光秀が共謀/家康は共犯
・光秀が画策&実行=単独犯/家康は事前にこれを知っていた

小生が考察しているのは3つめである。それ以外は、推論する為の傍証が
まったくない。

その前に、家康と家臣団のパーソナリティについて
確認しておきたい。家康はどんな性格だったのか?コレが謎を推論する際の
重要な手がかりになるからだ。

===========
家康のパーソナリティ
せっかちで神経質/短気
人質時代/裏切りの日々
===========

鳴かぬなら、鳴くまでまとうホトトギス

勿論、後世の創作だろうが信長/秀吉/家康の各武将のパーソナリティを
端的に表した句として有名だ。他の2人にくらべ、家康は忍耐強い、と。
只、これは家康の実像とはまるで違う。

・忍耐強・・・くない
 まず、性格的にいうと家康は忍耐強くは無いwww。それは古文書でも
 多く記されており事実認定できる。

以下、AI君に家康の人間像を分析してもらった。内容については、おおよそ
小生の知識/理解と合致しており、疑問はない。

 重臣中の重臣である本多正純の書
  些細なことで激怒、周囲を震え上がらせる様子が度々記されています。
  ・家康が鷹狩りの際、獲物がいなかったことに腹を立て、担当役人を
   叱り飛ばした
  ・気に入らないことがあるとすぐに機嫌を損ねる

 徳川幕府編纂史料集
  今川人質時代の逸話
  駿府の今川邸での新年行事の場面、今川家臣らに田舎者扱いされ、
  侮辱された際、怒りを抑えきれず、激しく言い返したり、悔しさに
  涙を流した

 徳川実紀(江戸幕府公式史書)
  家康が自らの短気を自覚していたと思わせる記載があります。
  「怒りは敵と思え」という有名な教訓。解釈として家康自身が怒りっぽい
  性格(短気)で制御に苦労した経験から生まれた「自己への戒め」と解釈
  されることが多い

 三河物語
  家臣が制止するのも聞かず、怒りに任せて無謀な出撃を強行しようとする
  場面が描かれています。
  ・三方ヶ原の戦い
   武田信玄の軍勢に挑発され、周囲の反対を押し切って出陣した判断は、
   戦略的な合理性より「武士としてのプライドを傷つけられたことへの怒り」
   が勝った結果であるという見方が有力です。
   (最初から勝ち目なし=結果、大敗、どうにか逃げ帰っている)

AI君の総括。少々長いが重要な分析なので丸ごと書き残す。
(小生が激しく同意したところに★印)

 これまでの古文書記述や具体的エピソードを統合、家康のパーソナリティを
 推論すると、従来の「温厚で忍耐強い長者」との偶像とは異なる
 「極度の緊張感と激しい気性を、強靭な理性でねじ伏せ続けたリアリスト」
 という人物像が浮かび上がります。古文書傍証に基づき、以下3側面から
 彼の人間性を分析します。

 1「激越な感情」を内包する神経質さ
   「駿府記」、「徳川実紀」に見られる「指(爪)を噛む癖」や「些細な
   ことでの激昂」は、彼が本質的には非常に神経質、感情の起伏が激しい
   人物であったことを示しています。
   推論)★常に最悪事態を想定★、指を噛まずにいられないストレスに
      晒されながら生きていた人物です。彼にとっての「忍耐」とは、
      仏のような平穏さでなく、沸き立つ怒りや不安を必死に抑え込む
      「自己制御」の同義語であったと言えます。
 2「家臣への根源的な不信と孤独」
   「三河物語」等より、祖父(清康)と父(広忠)が共に家臣に裏切られ
   謀殺された凄惨な家系は、対人関係に決定的な影響を与えたハズです。
   推論)関ヶ原で島津の突進を受け自害を覚悟したとされるほどの窮地に
      おいても、彼が最終的に信じられたのは自分自身のみ!の可能性
      があります。彼が「組織や法」による統治に心血を注いだのは、
      人間の不確かな存在(裏切る家臣)を心底では信じていなかった
      裏返し、という★極めて冷徹なリアリズム★を感じさせます。
 3★「生存本能」に根ざした学習能力★
   三方ヶ原の戦いでの敗北(怒りにまかせての出陣)や、関ヶ原の切迫した
   状況など、彼は人生の要所で「短気」や「油断」による失敗を経験して
   います。
   推論)彼は自分の弱点(短気、神経質)を客観的に把握、それを「怒りは
      敵と思え」との言葉でシステム化して封じ込める驚異的な学習能力
      の持ち主でした。古文書に残る彼の短気なエピソードの数々は、
      彼がもともと聖人君子ではなく、失敗から学んで「天下人」という
      仮面を完成させていった努力の人であることを物語っています。

 結論)家康とはどういう人間だったか
 古文書記述を総合すると、家康は
  ・内面に燃え盛るような激情と、冷え切った不信感を抱えながら、
  ・「泰平の世を作る」という目的のために「理性の鎖」で繋ぎ止めていた、
   凄まじい意志の力を持つ人間
  であったと推論されます。彼が死後「東照大権現(神)」として祀られた
  ことは、生前の彼が人間として抱えていた「短気」「不安」「不信」という
  生々しい苦悩からの、究極の解放であったのかもしれません。

特に★印の

・常に最悪事態を想定
・極めて冷徹なリアリズム者
・生存本能に根ざした学習能力

このまとめは激しく同意。後述で「神君伊賀越え」を考察するとき、よーく
覚えていておいてほしい。
・常に最悪事態を想定・・・する家康であれば
・極めて冷徹なリアリズム者・・・の家康であれば
・生存本能、そして学習能力・・・の強い家康であれば
・突然の事変で、どのように行動するのが家康の行動パターンか。

古文書記録が無い部分を推論していくには、家康のパーソナリティを
ふまえないと進むことができない。

更に「実長男/実正室の死」を加えたい。以前も投稿中で述べた記憶があるが、
家康は家督を継ぐことが確実だった実長男に切腹を命じ、同時に、実正妻を
移動途中で家臣に命じて謀殺している。

当時の武家の実態/常識として、家督を継ぐ長男、しかも、側室の子ではなく、
正室が生んだ長男であれば、正室の子/男子/長男=長子の3点セットが揃った
完璧で文句のない家督相続者、お家安泰としては、これ以上ない人物である。
それを、お家のために殺害しなければならなかった事情は事情で理解するが、
例えば、正室はさておき、長男については、
・いっとき、蟄居(ちっきょ)幽閉=閉じ込め、本人の反省をうながし、
・改心させ、家康の命に従うように変化したことを確認した時点で戻す
  (用心の為、当面は信頼できる重臣を監視役としてつける)

情状酌量をしてもよかった。しかし、結論として「これ以上ない後継ぎ」を
殺した判断は、相当に重く苦しい判断だったことは間違いない。
  (後年、イクサの場で「長男が生きていれば・・・」と家臣に漏らした
   記録がある)

AI君も
 >(この長男/正室の謀殺は)「私情を捨てても組織安定を優先、極めて
 >合理的かつ冷徹なリアリスト」であったことを示す最大の傍証と言えます。

と、総括している。

以上、長くなったが、この家康パーソナリティを念頭に本能寺の変で家康一行が
どんな判断/決断で動いたか?を見ていくと謎は深まるばかりである。そして
・事変が起こることを事前に知っていたのか否か?
の推論をする際も、これら家康パーソナリティを思いながら進んでほしい。

==========
神君伊賀越えの怪しさ
1、時系列
==========

まずは、事変の前後、織田軍と家康の動静を時系列で列挙する。カンの鋭い
諸兄なら、コレだけで「んっ?」と引っかかる部分があるだろう。小生も
そうだった。

事変の前年10月
 秀吉軍、中国征伐で岡山方面に出兵開始
事変の年
3/11
 甲州征伐(織田/徳川連合軍が甲斐山梨に出陣)
 武田氏滅亡(掃討作戦で武田勝頼自害)
3/15
 秀吉軍、姫路城から備中(岡山)へ進軍
4/10
 甲州征伐を終えた織田/徳川軍、山梨をあとに凱旋帰国路へ

〜この間、家康は徳川領を通過のとき、織田軍勢をもてなす=「富士遊覧」
〜信長はこれに感激、返礼として、今度は信長の誘いで徳川を安土城での
〜祝宴を申し出、家康も応じる。
〜一旦、家康は自城に戻り、織田軍勢と別れる。

4/21
 織田軍、安土城に到着
5/01
 秀吉軍、高松城で水攻めを開始
5/15
 徳川、接待に応じる為、安土城に着(明智が接待係り)
5/17
 秀吉から信長へ援軍要請の書状が届く
  (定説では、これは秀吉軍が劣勢なのではなく、概ね戦闘で勝利の目途が
   つき、そのまま終わらせることができたが、あえて最後の総仕上げとして
   信長に華をもたせる意味での援軍要請=信長に対する秀吉の「よいしょ」
   だとされている)
 信長は光秀に援軍を命令、明智軍は坂本城にて出陣準備
 (家康接待は続くが、接待係りの光秀は途中で交代を命じられる)
5/21
 家康一行、安土城を出る。信長の勧めで京見物の為、しばし京に滞在。
5/29早朝
 家康一行、堺(大阪)に出発。安全で早い川下りの船で移動。
 信長が本日午後に京に入る事を知った上で、信長の到着より先=早朝に
 京を出ている。
 このタイミングについて、よく言われるのが「信長に挨拶して出るのが
 礼儀では?オカシイ」という論もあるが、長居しているのが逆に無礼と
 いう筋もあり、当時の慣習に照らしても直ちに怪しいとは言えない。
5/29午後
 信長が本能寺に入る(信忠とわずかの軍勢も少し離れた京内に入る)
 同日、家康一行、堺に到着
6/1(旧歴で5月は29日までなので6/1は5/29の翌日)
 翌日、家康一行は堺の著名人らと茶会をする。
 堺着翌日の茶会という過密スケジュールから、茶会予定は少なくとも、
 家康一行が京を出る以前に決定=堺にも伝わり準備されていただろう。
6/2事変の当日
 家康一行、早朝に堺を出る。船は使わず徒歩で移動。
 事変も明け方に起こっているので、ほぼ同じタイミングになる。
 ー ー ー ー ー
 (以下は後述のように異なる古文書があって非常に重要な点)
 記録では信長に謁見(挨拶)してから三河に帰る為、京都に向かった
 とされる。ということは、この時点で家康一行は事変を知らなかった
 ことになる。
 古文書によれば、家康一行が事変を知ったのは京に向かう途中で、
 ・ずっと京にいて事変を知った徳川家子飼いの豪商A(茶屋四郎次郎)が
  急ぎ、家康一行に一大事を知らせるべく、早馬で堺へ向かった。
 ・これとは別に、謁見するため家康一行が京にむかっていることを事前に
  信長に伝える使者として、家康家臣B(本多忠勝)が単独で先に京へ
  向かった。
 ・このA/B両者が街道で出会い、家康一行に合流して事変が伝わる
  とされる(ココにもA/B両者が道で出会うという偶然がある)
 ー ー ー ー ー
 明智軍が京を包囲していることは確実、家康一行は
  ・事変に乗じて徳川拿捕の指令が出ている可能性
  ・事変に乗じて各地で落ち武者狩りが発生するのは必須
 これら危険性から、急ぎ京行きを断念、三河逃亡に変更した、
 (これらの経緯も古文書にあるが後述のように別の筋もあり得る)
 そうして有名な「神君・伊賀越え」となる。

では、疑念の考察を始めよう。

続く
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798036

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