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象眼ファイナルコミュの073ー5#本能寺の変5/9

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ー 目次 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798029
 光秀はいつ決断したか
 ・光秀の謀反決行判断は直前だった
 ・秀吉関与の説は否定される。只、知っていた可能性はある
 単独犯行説
 ・明智単独犯/黒幕共犯はない
2 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798031
 朝廷守護説
3 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798032
 光秀家臣団のこと
 正妻、煕子のこと
4 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798033
 秀吉考察1
 あり得ない速さで移動した2人
 中国大返しの怪しさ1/兵糧の謎
 証拠の薄い完全な妄想/先行組が先に戻った
5 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798034
 秀吉考察2
 中国大返しの怪しさ2/援軍要請が意味すること
          3/京からの通知が秀吉軍だけに届いた偶然
            ・伝令=使者は、ただの郵便屋さんではない
             ラッパ=間者(かんじゃ)=忍び、である
          4/最短で和睦できた偶然
 偶然と因果律/偶然が重なるほど、そうなる因果律がある
6 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798035
 家康考察1
 家康のパーソナリティ
 神君伊賀越えの怪しさ1/時系列
7 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798036
 家康考察2
 神君伊賀越えの怪しさ2/遊行が長過ぎる
           3/京へ帰るルートが違う
 実はよくわからない/堺から生駒山中まで
8 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798037
 家康考察3
 謎だらけの家康一行1/時間を追え
          2/動画のルートの根拠
          3/飯盛山のふもとで合流した、この話し自体、
            すべて捏造?竹内峠ルート
          4/神君伊賀越え本当のルート
          5/家康一行はいつ、事変を知ったのか
          6/本能寺の変が起こる前から知っていた
9 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798039
 家康考察4
 家康は事前に知らされていた
 妄想)光秀と家康の密談
 互いに認め合った武将
 家康は必ず確認しただろう
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<秀吉考察2>

=============
秀吉/中国大返しの怪しさ
2、援軍要請が意味すること
=============
続けて考察する。

まず、明智軍が謀反を成功させる諸条件を考えてみよう。
明智軍は1万5千とされる大軍団を編成して本能寺に攻め込んでいる。
まずは坂本城で軍団を整え、丹波亀山城に入った。亀山城から本能寺は徒歩
21キロ、当時の感覚なら目と鼻の先である。
仮に、京の情勢がイクサもない平時で、明智軍1万5千軍隊を亀山城に集結
させたらどうなるか?亀山城に入るまでもなく、坂本城で軍隊を集めている
時点で「明智軍隊が集結!不穏な動き!」と信長の耳に届いている。
  (1万5千という大規模召集は騎馬も含め相当で、周囲の農民/町人など
   ひと目で解る。当時の庶民も情報など無いが、なにやら続々と武装が
   始まっているのを見て「イクサか?」と逃げたりしていた)

つまり、実際に謀反を起こす以前、軍隊編成の時点で明智軍の挙動はバレバレ、
信長は驚き、逃げる、或いは同行していた長男の軍隊に臨戦態勢を命じるなど
回避行動をとるのは当然である。

 ★★★ 明智の策謀は軍隊召集時点で露呈、必ず失敗していた ★★★

しかし、成功してしまった。何故か?
明智軍が軍隊編成して京に向かうことは信長以下、皆が事前に知っていたから
である。どういうことか?

  ★★★ 信長が明智に軍隊準備しろ!と命じた ★★★

のである。
信長は中国攻め最中の秀吉援軍として明智に軍隊を整えて出陣準備しろ!と
命じ、更には、しっかり準備できているか確かめるので京まで来い!と命じて
いた(古文書に記載あり)。
つまり、1万5千の明智軍に本能寺まで来い!と言ったのは信長である。
だから、明智は大軍勢で優々と亀山城から本能寺に来た。信長の命令どおりに。
そして、誰も疑いなど持たなかった。それが信長に向けられた軍勢であること
など、誰も思いもしなかった。

実際の謀反の際も、明智軍の先兵が本能寺の門に近づくと、門は閉じておらず、
門番は明智軍をなんら警戒せず、すんなり通している。そしてイッキに豹変、
攻めかけた(先陣で突入した明智軍先兵が当時の様子を書き残している)。

つまり!(ココが非常にオモシロイところだが)陰謀論は一旦、脇に置いて、
因果律も無視して、単に事実だけで言えば、

  ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
  秀吉の応援要請があったから、明智軍は誰に怪しまれることなく
  1万5千の大軍団を準備して京に入れたことになる
  ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

陰謀など無いとすれば偶然、只、明智にすれば、これ以上ない偶然と言える。
事実、こういう経緯があって、怪しまれずに大軍を揃え移動できたのだから。

・織田軍団の家臣たちは、当時、京から離れた場所で、それぞれ任務しており
 京には明智軍しかいなかった。
 時系列で言うと
  ・秀吉軍は中国征伐で出兵中(その他家臣たちも地方に張りついていた)
  ・甲州征伐で武田滅亡(明智軍は戦闘には参加せず京周辺で待機)
  ・家康を招いて安土城で祝宴(光秀は宴会係り=明智軍は休養充分)
  ・秀吉から援軍要請(信長の命で明智軍が出陣準備)
  ・本能寺の変
 となるが、
・秀吉が信長に援軍要請の書状を出したとき、明智が京にいることを知って
 いたか?更に、明智軍が特段の任務もないなど、京の状況を知っていたか?
 これが重要なポイントになる。秀吉が、
  ・明智の動向=京の様子を知らずに援軍要請したなら、明智以外の武将が
   来る可能性もあった。
    →このとき、明智は怪しまれずに軍勢を整えることはできない。
  ・明智の動向=京の様子を知って援軍要請したなら、必ず明智が援軍を
   命じられるだろうと秀吉は想定できていた。
    →このとき、明智は怪しまれずに軍勢を整えることができた。

 コジツケではあるが、そういう整理はできる。古文書の記載などは無いが、
 秀吉が中国征伐に出兵した時点で、将来的に明智軍がそれに続き、将来的に
 山陰と山陽のそれぞれを秀吉/光秀に統治させる構想が信長にはあって、
 両者を競わせる意味でも秀吉/光秀らにビジョンを伝えていた説もある。
   (安土城で家康接待中の光秀に対し、信長は秀吉援軍で出陣することに
    加え、将来的に現在の領地から中国地方へ領地換えすることを伝えて
    いる。これをもって領地を召し上げられた!という怨恨説になるが、
    信長は「毛利とのイクサに勝てば切り取り次第、いくらでも領地が
    広がる」そして、領地換えの候補地には石見銀山も含まれており、
    銀山を領土にすることは破格の厚遇、当時としても栄転なので、
    領地換えを恨むということが、そもそもあり得ない)

・秀吉は信長に援軍要請すれば明智軍が来ると想定できていた可能性が高い
 という結論になる。

ココが陰謀論の分かれ目だwww。

・秀吉関与の筋
 秀吉は明智が怪しまれずに挙兵するアシストとして援軍要請を出すことで
 明智軍は堂々と集結、謀反する体制を整えた。
或いは、
・秀吉無関係の筋
 秀吉は陰謀に一切関係なく、援軍要請すれば明智が来るだろうとは思ったが
 それだけ。結果論として秀吉の援軍要請によって、怪しまれずに大軍を準備
 でき、そのまま京に突っ込めば手薄な信長を討てる!と絶好チャンスとして
 イッキに動いた。秀吉の援軍要請という偶然が光秀謀反の実行を決定づけた。

両筋、あり得る。可能性としては後者だろう。しかし、前者も無理筋であるが
陰謀論としてはオモシロイ。

============
秀吉/中国大返しの怪しさ
3、京からの通知が秀吉軍
  だけに届いた偶然
============
とにかく、この事変には「好都合な偶然」が多過ぎる。本能寺の変が秀吉に
最初に伝わったことも、そのひとつだ。

秀吉が信長謀反を知ったのは、毛利に対して京の事変を知らせ協力を要請した
明智の出した密書を持つ使者が、毛利軍と間違えて秀吉軍に近寄って拿捕され、
それで持っていた密書を見て事変を知ったとされている。
更に、
重要なことは、信長の死が毛利方には一切伝わらず、そのことが後述の早急な
和睦実現と秀吉軍が速く戦地を離れることができた要因になっている。
もし、
毛利軍にも情報が届いていれば和睦など絶対にない。敵の親方が消えた軍隊を
襲うのは戦国の世の鉄則、必ず毛利は秀吉軍を攻め続け、秀吉の大返しは実現
できなかった(ヘタをすれば秀吉軍が岡山の地で滅亡した可能性もあった)。

「明智の使者が秀吉につかまり、情報が秀吉だけに伝わったこと」

は非常に重要で、中国大返しの実現には必須条件である。これらは普通に考え
ても「秀吉には好都合の偶然」であり、まあ、可能性で言えばあり得るが、
当時の使者の実態を思うと疑問符がつく。

===================
伝令=使者は、ただの郵便屋さんではない
ラッパ=間者(かんじゃ)=忍び、である
===================
・京から戦闘中の秀吉軍団を抜け出て、毛利領まで走る、この超リスクは
 間者が京を出発する時点で必ず理解している。拿捕された場合も想定し
 複数間者が複数ルートで伝える対策くらいは「忍び」なら当然である。
 1人が秀吉軍に拿捕されても別の間者が毛利へ走る、それくらいは小生
 でも考える。
・間者=忍びは、拿捕された最悪を想定し、それでも情報が漏れない対策
 をしている。「押収されて証拠となる文章は残さない、口伝(くでん)で
 伝える」のである。漏れたらマズい超トップシークレットほど文章には
 しない。命を受けた間者が言葉で情報を伝える。だから拿捕された間者は
 自害することで情報秘匿した。
・本件では光秀が毛利協力を求めて書状を出した、とされているが、賢い
 光秀を思うに、これは相当にあり得ない。光秀なら、これらの極秘情報の
 取り扱いは解っていたハズだ。シロウトの小生も貴殿も極秘情報を手紙で
 出すなど、つかまったらバレてヤバいと思うだろう。それは正しいのだ。
・また、京での大事件を伝えたのは光秀だけではない。地方に散っている
 織田家臣団に向けても北陸/信濃/甲斐など複数ルートで各織田家家臣に
 伝聞が走っている。だとすれば、西方=毛利方にも明智とは別ルートで
 情報が走っていたと考えるのが妥当だ。
   (毛利は秀吉と前線で戦争中である。京から織田軍勢の本体が応援に
    くれば毛利壊滅は必須、毛利軍の武将たちは、それくらい解らぬ
    アホではない。だから、京の動向は常に注視していた、というか、
    必ず、そうしなければならなかった。そして、織田本体が挙兵準備
    をした段階で「秀吉の応援が出発する、急ぎ、退却せよ」という
    知らせが走ったハズである)

 古文書では明智の伝令が拿捕され、とあり、ひとつの伝令が捕まっただけ
 しか記録されていない。
 只、毛利方には、秀吉より少し遅れて情報が届いた記録はある。そして、
 事実を知って不利な秀吉軍を猛追して討とうとした武将もいたが毛利本家が
 止めている。
  (毛利家は、ここ1番の大決断のとき、安パイを選んで好機を逃している。
   このときも、秀吉軍を猛追すれば、信長/信忠揃って消えた京から
   織田軍応援など来ないのは明白、逃げる秀吉軍に集中できる。秀吉軍を
   壊滅しておけば、信長信忠が消えた織田家の威力は激減、己が天下人に
   なる絶好のチャンスだった。
   また、関ケ原のときも、数では圧倒する西軍大将にありながら、影で
   家康と密約「戦闘に関わらないので領地安堵」を願っており、既に家康に
   屈しているが、約束は反故になり112万石から30万石に激減された)

勿論、可能性で言えば、秀吉軍だけが情報を察知して急撤退した可能性は
あり得るが、その可能性は「偶然」の上にある可能性だということ。
また、前述どおり、秀吉軍を抜けて毛利へ届ける、という超リスキーな伝令
にも関わらず、光秀が証拠となる書状で伝えた愚行は、彼の武将の優秀さと
どうにも整合しない。彼なら必ず口伝で伝えたハズ、この疑念が払拭できない。
(光秀が毛利へ協力要請の書面を出したこと自体が捏造の可能性もある)

只、光秀は近畿内では、朝廷に信長討伐を伝えて「お墨付き」を求めたり、
細川家に応援を要請したり、いずれも書状を出している。これは明智軍以外に
軍勢の無い京周辺という事情から妥当だが、それと毛利への伝令は、バレた
ときのリスクがまったく異なる。秀吉軍につかまるか、毛利軍が先に知るか、
コレは明智軍にとっても生命線だ。それを思えば書状など・・・何度考えても
解せない。

以上、様々な推論から、間違えて秀吉軍に近寄って手紙を取られた、という
話し自体、すべて虚構のような気がする。ココで陰謀論を絡めれば、
・秀吉、光秀は事前に通じており、
・光秀は秀吉に対して「我、信長打倒に成功!」と事前の打ち合わせどおり、
 「直ちに応援求む!」という書状を受けた秀吉が(最初から計画した通り)
 光秀を裏切って謀反人とした
という想像も(飛躍が過ぎるが)可能になってくる。

============
秀吉/中国大返しの怪しさ
4、最短で和睦できた偶然
============
これも前述と密接に関連する。端的に言えば、秀吉が事前に京の大事を知って
いたと仮定しても、毛利方と和睦できなければ大返しはできない。和睦しても
毛利がアレコレと難くせ/注文/条件闘争で引き延ばせば、やはり大返しは
できない。
戦国の世、和睦で己に最大限有利となる条件闘争をするのは常識である。
古文書によれば秀吉が事変を知ってから和睦成立〜大返しまでの経緯は以下。
 6/ 2 早朝、本能寺の変
 6/ 3 夜〜早朝、秀吉は光秀の密使を拿捕して情報を得る
 6/ 3 夜〜早朝、同時に、毛利方と和睦交渉を開始(6/6説もあり)
 6/ 4 AM10時、和睦条件である毛利方城主切腹を確認して大返し。
 6/ 5 毛利が遅れて情報を得る、追撃もあきらめる。
 6/ 8 姫路着、1日休息
 6/ 9 朝、出発
 6/10 夜、兵庫着、半日の休息
 6/12 大阪着、軍議と合戦布陣を敷く(一部、明智軍と衝突始まる)
 6/13 山崎の戦い始まる

情報を知り、和睦交渉を始め、和睦条件の切腹を確認して、大返しへ、
6/3深夜〜早朝、で6/4午前に大返し、この間、わずか1日である。
これは、当時の常識から、いくらなんでも早過ぎである。諸兄が毛利方の
交渉担当ならどうする?
・毛利方として「ソチラの条件は解った」そして「持ち帰って熟議する」
 このくらいのことはするだろう?
・そして、1つ2つ条件を出して己の有利な方へと引き上げる。
・で、落としどころで手打ち=和睦成立。

それくらい、するのではないだろうか?和睦と言われ1日でOKするか?
1日でOKということは、事実上、条件闘争しなかった=秀吉の出した条件
すべて丸のみしたのと同義だ。しかも、秀吉提示の必須条件には己の仲間の
城主の切腹がある。1日であっさり飲めば、軽々に城主の命を見捨てた!と
同胞から批判されるかも知れない。2〜3日くらい、アレコレ条件を思案した
体(てい)をしてもオカシくない。解せない。

只、妥当だったという論もある。実は毛利方もイクサをやめたかった論である。
毛利も戦闘意欲がなく、早々に和睦して収拾したかった。もたもたしていれば
(まだ信長親子が死んだことを知らないので)織田軍勢本体がやってきて更に
大きくなった織田軍勢から総攻撃されるかも知れない。そういう被害拡大を
防ぐためにも手打ちしたかった。「渡りに船」というヤツ。あり得る話しだ。

いずれにせよ、1日で和睦したこと、これも中国大返しの超高速と同じ、
超高速和睦と言ってもよい速さだ。勿論、偶然だ。秀吉がどんなに頑張っても
敵の和睦決断を高速で実現することまでコントロールできない。

コレも偶然なのである・・・。

===================
偶然と因果律
偶然が重なるほど、そうなる因果律がある
===================
世の中、「偶然」というヤツはある。諸兄にも経験はあるだろう。なので、
本能寺の変における偶然だってあってよいし、事実あった。

しかし、あまりに多過ぎるのだ。しかも、関係者ほぼ皆に起こっている。
本稿でザックリ列挙しただけでも4〜5つ以上、大きな偶然がアチコチで
連続して起こっている。

  ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
  本能寺の変は、普通ではあり得ない偶然が
  いくつも重なった結果、実現した
  ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

後述する「家康の超高速の伊賀越え」まで含めれば、尋常ではない偶然の数だ。
答えは常に簡単だ。深読みする必要はない。

ココまで偶然が重なるなら、それは偶然として整理するより、そうなる因果律
があって、偶然が重なっているように見えている、これが答えた。
だから、多くの偶然は、ひとつひとつ、そうなった理由が必ずある。

「本能寺の変が起こることを知っていたのは光秀だけではない」
或いは光秀/明智軍以外に、
「詳細は解らずとも京でなにやら大ごとが起こると予感していた者がいた」

と仮定すると、すべての偶然は消える。

もし、そうでないなら=すべて偶然なら、これまた答えは簡単で、

「本能寺の変は見えざる手が起こした」

ドチラであっても偶然の積み重ねの説明はつく。
ドチラにせよ、非常に興味深く、すべを明らかにする物証がない以上、
どこまで行っても真実は解明できない、だから!オモシロイのである。

さて、秀吉同様に怪しい嫌疑者が家康である。家康の挙動は本能寺の変や
「伊賀越え」の前から相当に怪しい。

続く
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6384861&id=102798035

コメント(1)

<書状の確認をしていない>

もうひとつ。非常に重要な疑惑がある。
本稿のとおり、秀吉は「事変を知り、1日で和睦して大返しで戻る」という
離れワザをやったことになるが、当時の武士の常識から考えて、コレは非常に怪しい。
・仮に、(どんな内容でもよいが)書状を見たとき、
・当時の武将は必ず、書状の真偽を確認する。
 例えば、
  書状は毛利が秀吉をダマす為に出したニセモノ、秀吉軍の撤退を誘う意図
  という場合、
  急ぎ戻った秀吉は京でピンピン生きている信長に会って「毛利にダマされた!」
  となり、「毛利にダマされ、あと一歩で勝利したイクサをやめたのか!」と
  信長から厳しく叱責されるだろう。そんなことが解らぬ秀吉ではない。
  当時、秀吉には有能軍事・黒田官兵衛も秀吉と共に前線にいた。
・書状がホンモノ=光秀のモノと確認できたとしても!
 書いてある内容が事実か?までは解らない。光秀が毛利と手を組んで裏切り、
 秀吉をハメる為だったかも知れない。
・更に、コレは小さな出来事ではない。織田家トップ親子が揃って討たれる
 という超一大事だ。であれば、他のどんなことより、事実確認は重要になる。
・また、2〜4万の軍勢本体をイッキに撤退させることは軍事戦略的にも重大決断だ。
 ヘタをすれば追撃され、撤退する最後尾から切り崩されて大損害もあり得る。

なので、
事変の一報を知る→京へ早馬を出して事実確認→それが戻り、ホントに謀反が
起こったことを確認→中国大返しをする。

これが当時の武将判断/イクサ戦術などを想定した最速の行動である。
書状で京の事変を知り、翌日和睦=大返し、これは事実確認しなかったことを
意味している。早馬の往復で事実確認をすれば、どんなに最短でも2日はかかる。
翌日和睦は不可能だ。しかし、当時の古文書で秀吉が京に早馬を出して確認した
記述はない。翌日=1日で和睦〜大返し撤退、と記述してあるだけだ。
「超高速で移動したこと」
より
「書状の確認をせず、大軍団を撤退させたこと」
の方が怪しい。


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