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俳諧師:近江不忍コミュの八、文學表現と日記表現の違ひ 『季語の象徴性による普遍論』

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 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の

 『Motion1(Mirror) &(Substance) 曲 高秋 美樹彦』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。

 映像は伊丹にある、

 『柿衞文庫』

 へ出かけた時のものです。

 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。






     八、文學表現と日記表現の違ひ 『季語の象徴性による普遍論』

 
 人類は文字によつてこんにちの繁榮を築いたのだが、文章を讀み手に理解させようとするには、まづ讀者と作者の間に共通項を設ける必要があり、その第一に同じ言語で書かなければならない、といふ決定的な前提を必要とするのはいふまでもない事だらう。
 さうして繪(ゑ)や彫刻などの美術や音樂は、それ自體(じたい)が目や耳に直接的な表現として鑑賞者の前に提示出來るのに對(たい)して、文學は目や耳に訴へはするが、發せられた音や目で見た文字を、一旦頭の中で意味あるものとして變換(へんくわん)しなければならない、といふ手續きを必要とする。
勿論、藝術そのものが意味論的なものとして解釋(かいしやく)されるといふ事では、結局は同じものであると言へるのだが、具體的に訴へるといふ比較からすれば文章の方がより形而上的であるといふ意味である事は諒解せられるであらう。


 文章を書いて表現するといふ行爲(かうゐ)には、發句に限らず樣々なものがある。
 例へば、文學作品における、

 「小説・詩・短歌・發句・随筆・評論・研究論文」

 とかがすぐに浮ぶ。
 また日常に使ふものでも、

 「手紙・日記・公用文書・覺え書(メモ)」

 などがある。


 このやうに公私に渡つて文字が活用されてゐるが、文章の上手い下手はあるものの、これらは大きく分けて二つに分類出來るものと筆者は考へてゐる。

 「一つは自分以外の人には見せない日記や、或いはごく少數の人だけに廻し讀みする文章や手紙または暗號(あんがう)」

 「もう一つは不特定多數の人に見られるのを前提とした文學作品」

 これらはどちらも同じ文字を使用して表現されてゐるが、決定的な違ひが一つだけあると筆者は考へてゐる。


 それがどういふものかといふと、「話し言葉」に於いて人と話す場合と、「獨り言」とが同列に論じられない事と似てゐるものと考へられ、そこには共通認識を缺(か)いたものとさうでないものとの差があるやうに思はれる。
 具體的に言へば、それらは日記と文學作品とを比較すれば諒解出來るもので、ある文章を人に讀んでもらひたいと思ふ以上、そこには、

 「自分さへ解れば良い」

 といふ日記とは異なつた表現方法がある事はいふまでもないだらう。


 それは例へば、

 「誰かに本を貰(もら)つた」

 といふ事を書く時に、その誰かを明かさずに書けば日記となり、その主を明らかにすれば日記的なものではないと言へ、またその明らかにする手段としては名前などの固有名詞だけではなく、性別の男女や年齡に關する少女や青年などの普通名詞でもその基準は滿たされる事になる。


 日記の場合の誰かを明かさずに書くといふ理由は、當然(たうぜん)の如く誰かを隱しておきたいからといふのが基本で、さうでなくても自分には解つてゐるので敢て書く必要がないからだといふ場合もある事が諒解出來る筈であり、それゆゑに、時間の經過と共に忘れ去られる事があつて、何年か經(た)つて日記を讀み直した時に本人でさへ誰の事だつたのかとか、どんな用件だつたのかとかが解らなくなつてしまふといふ滑稽な事も生じたりする。
 勿論、名前を明かさなかつたからといつて必ずしも日記であるとばかりはいへない場合もある。
 それは探偵小説だと、その人物を謎にしておかなければその性質上、こと壊(こは)しになつて醍醐味を失つてしまふといふ場合もあつたりする。
 けれどもこの場合だと、この謎は解明されるのが目的であるからいづれはその主が語られて大團圓(だいだんゑん)となるのはいふまでもない。


 もつと言へば、日記は、

 「嬉しい」

 とか、

 「やつた」

 と書いてもかまはず、かういふ表現は「mixi」上でも隨分見られて、類推するのに骨が折れるが、

 「???」

 といふコメントで應(こた)へるしかなかつたりする時が間々ある。


 所が、文學作品はさういふ譯には行かず、

 「誰それに貰つたもので、その誰それとの關係や經緯(いきさつ)」

 などが詳(つまび)らかにされてゐなければ、讀者には諒解(りやうかい)出來ないといふ事でも、この二つの違ひが判然(はつきり)とするものと思はれる。
 當然(たうぜん)日記にも優れたものがあつたりするが、それは全ての日記が優れてゐるのではなく、ある特定の條件においてそれらが滿たされた爲に優れた文學作品となつた場合であつて、舊(ふる)くは、

 『土佐日記(紀貫之)・蜻蛉日記(右大将道綱母)・更級日記(菅原孝標女)』

 などや、また近年にも、

 『猟人日記(ツルゲエネフ)・アンネの日記(アンネ・フランク)・地下室の手記(ドストエフスキイ)・癲癇日記(谷崎潤一郎)』

 等があつたりするが、それをもつて總ての日記は讀者を想定して書かれた文學作品であるといふ譯には行かないと言へるだらう。


 さうして、人に讀んでもらふ爲の本質を述べれば、目的とする具體的内容を傳へるかどうかに要約されるもので、文章を書く基本として『五W一H』といふのがあるが、これは新聞記者や作家などが心得ておかなければならないものと言はれてゐ、それは、

 「何時(When)・何處で(Where)・誰が(Who)・何を(What)・何故(Why)・どのやうに(Hou)」

 行つたかといふ有名なもので、これさへ押さへておけば正確に讀み手に情報を傳へる事が出來るといふものである。


 話を最初から繙(ひもと)けば、これは書き手である表現者と讀み手である讀者側との間に、共通項とも言へる普遍的なものがなければ諒解し合へないもので、その第一が言語の遣取りが互ひに出來る事であり、日常的な文章でなければ、專門分野の知識が同等である事が望ましいのはいふまでもないだらう。
 その上で、發句といふ世界最小ともいはれる文字數の表現行爲に、小説のやうに説明できる情報を讀者に與(あた)へられないといふ(ハンデイ)を克服する手段としてその鍵を握る役目を擔(にな)つてゐるのが、『季語』といふ道具(アイテム)なのである。


     二〇一三年十一月二十五日午後一時店にて記す




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詩作に就いて
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