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俳諧師:近江不忍コミュの二十六、五月雨とそれにまつはる發句に就いて 『發句雜記』より

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 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは叔曼(シユウマン・Schuman ・1810-1856) の曲で、

 『詩人の戀(DICHTERLOEBE)』 op.48-10

 といふ作品の中の第十曲目の、

 『戀人が歌つた歌を(Hor' Ich das Liedchen klingen)』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。

 映像は服部緑近邊の映像で、
 激しい雷と雨が降つてゐた時のものです。

 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。




          二十六、五月雨とそれにまつはる發句に就いて 『發句雜記』より


 發句の季語にある『五月雨(さみだれ)』は「さつきあめ」ともいはれ、「さ」は「名詞・動詞・形容詞」の上に附いて語調を整へる接頭語、または名詞の上に附いて五月の意味を表すと辭書(じしよ)にあり、「みだれ」は「水垂れ」であるが「亂(みだ)れ」にも通じ、和歌などの掛詞(かけことば)などでも使はれ、更に「さ」が田植ゑの古語でもあると言ひ、古來の田植ゑの時期を意味してゐて、現代の農法よりやや遲い六月頃の所謂(いはゆる)陰暦の五月の事であつた。


 その『五月雨』は舊暦(きうれき)五月に降る雨の事で、先程も述べた新暦では六月に當り梅雨の事を指してゐるが、舊暦の六月は『水無月』といつて新暦の七月に當るのだが、現實には一箇月の遲れがあるのに新暦の六月の呼稱とされてしまひ、梅雨眞盛(まつさか)りで、どうして『水無月』といふ水が無い月なのかと訝る向きもあるかも知れない。

 確かに『水無月』は梅雨が明けて水が涸れる月であると解釋(かいしやく)をされる事もあるが、『水張月(みづはりづき)』といつて田植が終つて田んぼに水を張る月だといふ説もあり、けれどもそれだと『水張月』であつて『水無月』とは言へないといふ半疊(はんでふ)を入れる御仁もあらうかと思はれる。
 そこで調べると、『水無月』の「無」は「の」という意味の連体助詞「な」であり、「水の月」であるとする説を差出して讀者の疑問に答へておかうと思ふ。
 さうして、こんな雨の續く時の晴間だからこそ『五月晴』といふ言葉の意味の重さが理解出來ようといふものである。


 さて、『五月雨』の句は樣々な作者が讀んでゐるが松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)の作品が壓倒(あつたう)的に多く、ざつと數へただけでも二十句に垂(なんな)んとする。
 中でも『奧の細道』で詠まれた、

   五月雨を集めてはやし最上川    松尾芭蕉

 といふ作品が有名であるが、筆者はこの句をそれほど買つてはゐない。


 句意は、最上川が梅雨時期の雨、五月雨を我が身に引受けるかのやうに集めて勢ひよく流れてゐる。
 それは普段の雨とは違つて降り續く雨に水嵩も増し、荒れ狂ふ樣を詠んだものであり、「集まる」ではなく「集めて」といふ表現に技工は感じるものの、「早し」といふ處が筆者には氣に入らない。
 旅人である芭蕉は四季に見せる最上川の表情を知らない筈である。
 それなのに比較する言葉である「早し」を使ふのは、讀者に具體性が傳はらないのではないかと考へてしまふからである。


 この句は、出羽の國での歌仙の興行の際の發句では、

   さみだれをあつめてすずしもがみ川 松尾芭蕉(ばせを)

 となつてゐて、「すずし」といふ挨拶の態を成してゐる。
 けれども、「五月雨」と「すずし」の「季重なり」となつてゐて、ここにも瑕疵(かし)がある。
 因みに、脇句は、

   岸にほたるを繋なぐ舟杭      一榮(いちゑい)

 と、式目に從つて體言止めで詠まれてゐる。


 芭蕉と雖(いへど)も良い句ばかりではない。
 たとへ人口に膾炙した有名な作品であらうとも、作品の出來不出來とは無關係である。
 この句よりも筆者は、

   五月雨の降りのこしてや光堂    松尾芭蕉

 といふ同じ『奧の細道』の中にある句の方を採る。


 また『五月雨』には、浪漫詩人との評もある與謝蕪村(1716-1784)の、

   五月雨や大河を前に家二軒     與謝蕪村

 といふ句もあつて、これも世間によく知られた作品であるが、明治期になつて正岡子規が芭蕉の「五月雨」の句よりも蕪村の句に軍配をあげた事から、認知度が一氣に高まつて、今では彼は芭蕉と双璧を成すと言はれるほどになつてゐて、子規の功罪の功に當る成果であらう。
 更に萩原朔太郎(1886-1942)も彼を絶賛してゐる。


 攝津の毛馬で生まれた蕪村は、十代の頃に父母を亡くして二十歳で江戸に出、數年後に夜半亭巴人(やはんていはじん)の弟子に入つた。
 巴人は松尾芭蕉の高弟、寶井其角(たからいきかく・1661-1707)と服部嵐雪(1654 -1707)から俳諧を學んだ人で、その意味では蕪村も芭蕉の流れを汲んでゐるといへるだらう。


 彼は俳諧とは別に池大雅と共に南畫の大家と並び稱され、それを本業として生計を立てながら四十五歳で結婚して、幸ひ惠まれた一人娘との三人の生活を支えてゐたが、その暮らしぶりは樂ではなかつたやうである。
 五十五歳で夜半亭を繼承して畫家(ぐわか)としても俳諧師としても名を成したが、その句風は現實を遊離した空想的な世界で、自身の心を吐露するやうなものではなかつたと一般的には言はれてゐるやうである。
 確かに傾向としてはさういふ事も言へるかも知れないものの、一人の作家がそればかりといふ事は考へられない。


 それは六十二歳の時に詠んだ、この『五月雨』の句の成立過程を調べれば理解出來るものと思はれる。
 評論家はこの句を、

 「家は一軒でも三軒でもなく、どうしても二軒でなければならぬ」

 などと數の問題として意味不明な事を述べて、その技巧を褒めそやしてゐるやうだが、それを云ひ出せば『振る振れる』の問題にまで立入らなければならなくなつてしまふだらう。
 何故、四軒では駄目なのかと。


 この句は、彼の友人に娘の離婚を知らせる手紙の中に添へられたものであり、勿論、その意味では二軒でなければならなかつたのではあるが、技巧として「一軒でも三軒でもなく」といふ數字の問題ではなく、蕪村と娘の運命の象徴として二軒の家が「五月雨」に降り込められて荒れ狂ふ「大河」を前にして戸惑つてゐるといふ極めて個人的な内容をそれと見せずに、恰(あたか)も寫實的な描寫(べうしや)の中に封じ込めてゐる處にこそ彼の技巧を見る可きではないかと筆者は見てゐるのである。


 ところで、この二軒の家は二軒が竝んで大河の前にあるのか、それとも大河を挾んで此岸(しがん)と彼岸(ひがん)にあつて對峙してゐる樣子であるのか、これらのいづれを想定したものであらうかと、そこら邊りの事情を氣になつてしまはないだらうか。
 筆者は氣になつてゐて、それがどちらだと納得し得るかといふと、斷じて大河の前に二軒の家が竝んで建つてゐる情景ではなく、もう一つの往來(ゆきき)出來ない大河を挾んだ二軒の家の方を支持して仕舞ひ、それを思ひ浮べて、この世を先に離れてしまふ親である作者のもどかしさを、この句から感得して我が身に投影してしまふのである。


 次に、蕪村と來れば小林一茶(1763-1828)を取上げない譯には行かないだらう。
 彼の作風は言はずと知れた「小さきものへの愛」を詠んだ句が多いと言へるが、親の愛情に惠まれなかつた事から來る精神的に抑壓(よくあつ)された、僻(ひが)みや自虐的な作品も見受けられる。
 正岡子規は彼の事を、

 「句の實質に於ける一茶の特色は、主として滑稽、諷刺、慈愛の三點にあり」

 と評してゐる。


 一萬八千句餘りもの俳諧が殘るほど多作だつた彼の作品の中の『五月雨』の句は、

   五月雨や烏あなどる草の家     小林一茶

 といふものだが、これは、

 「五月雨に雨漏りがするやうな住ひは烏(からす)でさへ侮るに違ひない我が家である事よ」

 といふ意味であるが、先程述べた僻み根性が垣間見えて薄寒ささへ感じられてしまひ、前の二人と比べるとやや見劣りがする。


 そこで、

   五月雨や天水桶のかきつばた    小林一茶

   五月雨や二階住居の草の花     小林一茶

 と他の作品を二つ追加しても、さしたる感動を覺えない。
 どちらかと言へば、生活句とでもいふ身邊(しんぺん)を詠む傾向の強い彼の作品は、川柳とでも呼んだ方が相應(ふさは)しいものさへ散見されるが、それでも『五月雨』には關係ないが、

   露の世は露の世ながらさりながら  小林一茶

 といふ句などは、晩婚の一茶が人竝みの家庭を築いたと思つたら、幼い一人娘が疫病で死んでしまつた時に詠んだものであるが、この世の住人は誰もが儚い存在だとは解つてゐるものの、さて身近に起きてしまふと、それも幼い我が子であれば、何と悲しい事であらうかといふこの無常觀は、彼の眞骨頂ではなからうか。


 冒頭にも「さ亂(みだ)」といふ掛詞があると述べた『五月雨』は、古來、和歌にも詠まれてゐてたのだが、俳諧の世界では、

   五月雨や天下一枚うち曇り     西山宗因

 といふ句があり、作者の西山宗因(1605-1682)は談林派の祖で連歌師として活躍をしたが、宗因は連歌名で俳號は一幽と稱したさうである。


 更に幾人かの作者の句を紹介すれば、

   五月雨はただ降るものと覚えけり  上島鬼貫(1661-1738)

   空も地もひとつになりぬ五月雨    杉山杉風(1647-1732)

   湖の水まさりけり五月雨        向井去來(1651-1704

   五月雨やけふも上野を見て暮らす  正岡子規(1867-1902)

   五月雨の晴間に煙る香華かな    高浜虚子(1874-1959)

 といふ作品を竝べたが、これらには筆者の解説と評は避けて讀者の見識に任せておかうと思ふ。


          二〇一四年六月二十八日 午前十一時半頃 店の二階にて記す



 追記

 調べて見ると、現在、氣象廰(きしやうちやう)では五月の晴れの事を「さつき晴れ」と呼び、梅雨時の晴れ間の事を「梅雨の合間の晴れ」と呼ぶやうに取決めてゐるとの事である。




     初めからどうぞ

一、發句と「俳句」 『發句雑記』より
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