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俳諧師:近江不忍コミュの二十二、連歌は文學に非ざるか

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 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の

 『(JAZZ風に)』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。







     二十二、連歌は文學に非ざるか


 もうお氣づきかも知れないが、正直に云ふと筆者は「連歌』をそれほど詳しく理解してゐない。
 だから説明不足や解説し切れてゐない部分も多々あつたと思はれ、それは例へば『序破急』といふものにも言及できなかつた事は、自身の能力のなさを憾(うら)むばかりである。
 それらを補はうと、この『連歌の作法』を連載するに當(あた)つて、文獻として二つの書物を參考にさせてもらつた。


 一つは、三十年ほど前に購入した山田孝雄(やまだよしを・1873-1958)氏の、

 岩波講座「連歌及び連歌史(岩波書店)」

 といふ作品で、これはもう一つの作品よりも先に入手したものであり、これを師匠と仰いで隨分と勉強した心算(つもり)なのだが、何せ相手は生身ではなく書物なので、手取り足取りといふ譯にはいかず、とてもではないが一子相傳などといふやうな奧義を極めるまでには至る事が出來なかつた。


 そこでこれを書いてゐる途中に偶々(たまたま)古本屋で手に入れる事が出來た、もう一つの書物が東明雅(1915-?)氏の、

 連句入門(芭蕉の俳諧に即して)中公新書

 といふ作品を第二資料としたのだつたが、それとても「連歌」の世界は廣がるばかりで、淺學の徒であるわが身を思ひ知らされる結果となつてしまつた。
 ただ、この書物の中で氣になつた箇所があつて、しかもそれは「文學とは何か」といふ問題に深く拘はつてくると考へられるので、それについて筆者の考へを開陳して見たいと思ふ。


 少し長いがそれを示せば、

 『俳諧は(中略)一定の句数でひとまとまりにするものであるが、そのひとまとまりには、一貫したテーマ、あるいは筋というものが存在しない。(中略)各句の中にはいろいろのものが登場してくるけれども、それらが全部、関係しあって、全体で一つの主題、あるいは何か筋めいたものを表現するのではなく、(中略)(獨立した)世界と世界、それらが並んでいるだけである。』


 『このような現象も、外国の詩には全くありえない。西洋の詩でも、あるいは中国の漢詩であっても、詩にあってはすべて、第一行は第二行に展開し、第二行は第三行へと発展し、さらに第一聯は第二聯へ、第二聯は第三聯へと、それぞれ内容的に緊密につながり、思想・構成の上にも統一を保ち、全体として作者の主題を有効に表現する。それが彼らの詩なのである。』


 『それに比べて、俳諧は作品全体として、一貫した主題がなく、三十六句なら三十六句、百句なら百句、それぞれが一つになり、全体としてはっきりした何かを表そうとして、互いに協力しあい、あるいは響きあうということは、あまりない。この点が、西洋の詩と俳諧の根本的な相違点の一つである。だから、これが俳諧の欠点とされ、いわゆる連俳非文学論の論拠とされたのであつた。』


 これに續いて、正岡子規(1867-1902)の作品を掲載してゐる。

 『明治二十八年、正岡子規の『芭蕉雑談』の中で、「発句は文学なり、連俳(俳諧)は文学に非ず、……連俳固(もと)より文学の分子を有せざるに非ずといへども文学以外の分子をも併有するなり。面して其の文學の分子のみを論ぜんには発句を以て足れりとなす(中略)。連俳に貴ぶ所は変化なり。変化は即ち文学以外の分子なり。蓋し此変化なる者は終始一貫せる秩序と統一との間に変化する者に非ずして全く前後相串聯(かんれん)せざる急遽倏忽(きふこしゆくこつ)の変化なればなり。例へば歌仙は三十六首の俳諧歌(?筆者註)を並べたると異ならずして唯両首の上半句若しくは下半句を有したるのみ」』

 以上の文章で、このいづれもが俳諧には主題(テエマ)がないので、それをして文學とは認められない論據としてゐるのである。
 勿論、著者の東明雅氏はこれに反對の立場を主張してをられる。


 筆者も同じ立場で、かういふ論理が本當に通用すると思つてゐるかと云ひたい。
もしさうだとすれば、極めて稚拙な文學論だと言はねばならないだらう。
 文學の主題とは、所詮人間が如何に生き、如何に死ぬかといふ事であるから、主題がないとは片腹痛くてお話にならない。
 人間の生活の一部を切取つた風景でも、自然の觀察であつたとしても、人間のみならず人間の目を通した自然を書くといふだけで、充分に文學足り得るのである。
さうでなければ、國木田獨歩(1871-1908)の『武蔵野』は文學とは云へない事になつてしまふではないか。


 一體(いつたい)、文學とは我が國では物語とか隨筆や日記文學などがあつて、
物語は『源氏物語』や『竹取物語』とか『今昔物語』あるいは『平家物語』などがあり、物を語るといふぐらゐであるから、事件を追ひかけるといふ筋立てがあるので洋の東西を問はず、主題がある文學といへるだらう。

 ところが隨筆は、『枕草子』や『方丈記』が代表として掲げられ、生活の身邊雑記を述べる形式のもので、主題とは遠い文學形式であるといへるのは御存じの通りである。

 また日記は『蜻蛉日記』や『土佐日記』などがすぐに思ひつくが、しかし、『土佐日記』などは『蜻蛉日記』や『紫式部日記』などに比べると、日記といふ題名ではあるものの、どちらかと言へば紀行文學と云つた方が良くて、『更級日記』とか『十六夜日記』も『奥の細道』のやうな紀行を中心とした種類(ヂヤンル)であると思はれる。


 さういふ意味では随筆や日記や紀行文學は、十八世紀以降に確立された小説のやうな主題を提示する文學形態とは異なつて、漫然と、と云つて都合が惡ければ、漠然(?)と人生の善し惡しを書き綴つてゐる譯だが、それでも日常の朝食の獻立(こんだて)だけだとか、天候や仕事の愚痴だけを書いたものではなく、そこはそれ、作家の業といふか、本當に個人だけが解ればいいといふ日記として書いたものではなく、人樣に見てもらはうといふ表現方法が驅使されてゐて、主題はなくとも普遍的な内容に仕立てられて發表されてゐる。


 主題といふものが、例へば「友情」とは何かと大上段に振りかぶつた命題を掲げた文学作品だけが、さうだといふのであれば、狭義に過ぎるのではないか。
 芥川龍之介(1892-1927)が谷崎潤一郎との文學論争で唱へた『筋のない小説』といふ程でないにしても、判り易い明確な主題が見つけられなくても、文學を樂しみ味はふ事は出來る筈である。
 何故ならすべての文學作品には、人生とはなんぞやといふ最大の主題(テエマ)が横たはつてゐるのだから……。


    二〇一〇年十月七日午前二時四十分


岩波講座「連歌及び連歌史」 山田孝雄 岩波書店

連句入門(芭蕉の俳諧に即して) 東 明雅著 中公新書






二十三、完成された連歌
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