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俳諧師:近江不忍コミュの2、『第二藝術』を讀んで思ふ事  近江不忍

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 使用法の間違ひは、なほも續く。

 『俳句に新しさを出そうとして、人生をもり込もうとする傾向があるが、人生そのものが近代化しつつある以上、いまの現実的人生は俳句には入りえない。俳諧修業は人格の完成であり、「俳句に人格の光あれ!」などといってみても、今日の世に風雅に遊んでいるものから光のさしようはないのである。(原文のまま)』

 桑原氏は實用主義(プラグマテイズム)を信奉してをられるやうだが、その氏から、
 『俳句に新しさを出そうとして、人生をもり込もうとする傾向があるが、人生そのものが近代化しつつある以上、いまの現実的人生は俳句には入りえない。俳諧修業は人格の完成であり、「俳句に人格の光あれ!」などといってみても、今日の世に風雅に遊んでいるものから光のさしようはないのである。』
 と述べられるのは、芭蕉の「不易流行」を知らないのか、と不思議な氣がするものの、その事は問はないとして答へるならば、もし藝術全てに近代の思想性が述べられなければならないのなら、小説が『近代』の『人生』を盛り込めさへすれば、それで良いと思つてゐる作家は、そんなに多いとは思はれない。
 詩に於いてでさへ、「現代の事を書いたからと言つて現代詩とはならない」と紫氏が言はれたやうに、感情の動物――人間は、大昔からそんなに根本的な所で變つてゐるとは思へず、噴射(ジエツト)機が飛び、新幹線の走る現代を書いたからと言つて、何が表現出來よう。
 所詮、人間の求めて來たものは、簡単にいへば「人間がどうすれば平安に暮せるか」といふ事であつて、それが多くの人々は自分さへさうなれれば良い、と勝手に行動するので、混亂が起きてゐるだけの話である。
 文學とは、それを大きな目で捉へる事に氣づくべきだ、といふ事を必死に表現してゐるものの事ではなからうか。
 桑原氏は、現代の俳句だけを見て、俳句といふ形式を不要と言ひ、その論據に、現代の俳人の幾人かだけの作品や、それらの人の持つ思想を採り上げてゐるのである。
 一體、藝術の評価はその藝術の反映した時代に決るものではなく、その時代が過ぎ去つてから後に決るもので、それは現代俳句と雖(いへど)も變(かは)りなく、特に子規以降の俳句の在り方は、桑原氏のやうに異を唱へる人も少なかつたので、無人の野を行くが如くであつたが、「寫生俳句」といふものは、早晩このやうな障碍に合ふのは當然と言へるだらう。
 その意味では、氏の一文は認めても構はないのだが、まだ評価の定まらない、詰り、現代俳句を本當に俳句と呼んでも構はないかといふ問題を含んだ儘で、俳句の形式を非難するといふ論調の亂れにこそ、より大きな問題があると筆者は思つてゐるのである。
 といふのも、芭蕉を引き合ひに出してゐるが、抑々、芭蕉は自身の作品を「俳句」とは言つてゐず、『發句』と稱してゐたので、俳諧の連歌をこそ主流としてゐた芭蕉にとつては、空しい議論であつた事であらうと思はれる。
 その亂れは、

 『たとえば俳壇の名家の世界認識とはどういふものであるか。萩原井泉水が『心不競(こころきそはず)』という文章で試みた自由の解釈を聞くとよい。(原文のまま)』

 といふ揶揄するやうな文章の後に、萩原井泉水氏の引用が続き、

 『自由とはオノズカラ由(ヨ)ルといふことを本義とする。桃の木にはおのづから桃の花を開く、その根元にある麦はおのづから麦の穂を出す、おのおのその由る通りに為る。相犯さず、制し合ふことをせずして、自然にのびのびと其生命を表現してゆく。これが真実、自由の姿なのだから、自由とは即ち心兢はずといふ心である。(中略)これを大にしては世界人類の理想である。さうして、これを小にしては、連句の世界の理念なのである。(原文のまま)』

 この引用を俎上に乘せて、

 『現代俳句に人生を盛ることが、いかに困難であるかはこれ以上くわしく述べる必要はないであろう。秋桜子が率直に「俳句の取材範囲は自然現象及び自然の変化に影響される生活である」(『現代俳句論』)といつたのは、極めて正しい。さきに私が氏を誠実といった理由は、ここにある。また氏は芭蕉を絶対視せず、現代俳句はむしろ「さび」「わびしさ」を捨てて、明るさを取るべしとする。私はこの意見の進歩的なるを認める。しかし、それで現代俳句が芸術として救われ得るであろうか。大切なのは作品である。それをどうして生産するか。ここで秋桜子が、絵画に学べ、と教えていることに私は注目したい。「俳句を詠むには、小品の絵を描くようなつもりで試みればよい。洋画にすれば四号位の大きさ、日本画にすれば色紙よりいささか大きい位のところを目標にして」(「黄蜂」二号)(原文のまま)』

 といふやうな事を言はれるのだが、
 『現代俳句に人生を盛ることが、いかに困難であるかはこれ以上くわしく述べる必要はない』
 と言はれても、『人生』とは字義通りに解釋すれば、人が生きるといふ意味にしかならず、假令(たとへ)一瞬と雖も『人生』に違ひないのであるから、事件を『盛ること』は無理としても、『人生』を『盛ることが』そんなに『困難である』とは思はれないし、又、
 『秋桜子が率直に「俳句の取材範囲は自然現象及び自然の変化に影響される生活である」(『現代俳句論』)といったのは、極めて正しい』
 といふ表現も、短詩形の特性を知らない發言で、俳句に季語があるのは、
 『自然現象及び自然の変化に影響される生活である』
 爲ではなく、象徴としての目的でしかないのである。
 それを、
 『現代俳句はむしろ「さび」「わびしさ」を捨てて、明るさを取るべしとする。私はこの意見の進歩的なるを認める』
といふのでは、滑稽も極まる。就中(なかんづく)、
 『ここで秋桜子が、絵画に学べ、と教えていることに私は注目したい。「俳句を詠むには、小品の絵を描くようなつもりで試みればよい。洋画にすれば四号位の大きさ、日本画にすれば色紙よりいささか大きい位のところを目標にして」(「黄蜂」二号)』
 といふ意見に到つては言語道斷で、俳句を、
 『小品の絵を描く』事に準(なぞら)えたり、
 『洋画にすれば四号』とか、
 『日本画にすれば色紙よりいささか大きい』といふ表現で、一體俳句のなにが解るといふのだらうか。
 冗談ではない。
 桑原氏は本當に文學の研究者なのだらうか、とここに來て筆者は疑問を持たざるを得ない。
 その證據に、少し長い文だが、この著書が「第二芸術」と呼ばれる所以ともなつた部分を示さう。

 『およそ芸術において、(原文のまま)一つのジャンルに心ひかれ、その方法を学ばんとすることは、あえてアランを引き合いに出すまでもなく、常にその芸術を衰退せしめるはずのものである。しかるにかかる修行法が、その指導者によって説かれるというところに、私は俳句の命脈を示すものを感じる。そして、その描かんとするものは何か。「自然現象及び自然の変化に影響される生活」、言葉をかえてはっきりといえば、植物的生である。さきに引用した井泉水の文章において、この俳人が現代の人間の最も重要な問題、自由を桃と麦という植物によって説明していたことを、読者は思い出すであろう。桃のことは桃にならい、麦のことは麦にならいつつ、植物的生を四号ないし色紙大に写し出すこと、こんにち俳句が誠実であろうとするとき、必然的にここに帰着せざるを得ないのである。かかるものは、他に職業を有する老人や病院が余技とし、消閑の具とするにふさわしい。しかし、かかる慰戯を現代人が心魂を打ち込むべき芸術と考えうるだろうか。小説や近代劇と同じように、これも「芸術」という言葉を用いるのは言葉の乱用ではなかろうか(さきに引用した文章で、秋桜子が「芸術」という言葉を用いず、いつも「芸」といっているのは興味深い)。もっともいかなる時世にも人は慰みをもつことを許される。老人が余暇に菊作りや盆栽に専念し、ときに品評会のごときを催し、また菊の雑誌を一、二種(三十種は多すぎる)出すのを、誰も咎めようとは思うまい。現代的意義というようなものを求めさえしなければ、菊作りにはそれとしての苦心も楽しさもある。それを誰も否定はしない。
  句を玉とあたためてをる炬燵哉 虚子
しかし菊作りを芸術ということは躊躇される。「芸」というがよい。しいて芸術の名を要求するならば、私は現代俳句を「第二芸術」と呼んで、他と区別するがよいと思う。第二芸術たる限り、もはや何のむつかしい理屈もいらぬわけである。俳句はかつての第一芸術であった芭蕉にかえれなどといわずに、むしろ率直にその慰戯性を自覚し、宗因にこそかえるべきである。それが現状にも即した正直な道であろう――「古風当風中昔、上手は上手下手は下手、いづれを是と弁(わきま)えず、好いたことにして遊ぶにはしかじ、夢幻の戯言なり」

 このやうに、
 「およそ芸術において、一つのジャンルが他のジャンルに心ひかれ、その方法を学ばんとすることは、あえてアランを引き合いに出すまでもなく、常にその芸術を衰退せしめるはずのものである」
 という指摘は一面的で、反對に進歩を促してゐる部分もあるから、一概に決めつける譯には行かないし、大體、形式が事態の變遷と共にその現實を盛り込めなくなつた時、人々から忘れられて行くのが形式といふものの運命であらうか、と表面的には思はれるのだが、多くの場合、それは形式に責任があるとは言へず、大抵は新たな形式が生れた爲に、それにとつて換られただけの事で、作家がそちらへ目移りしたといふものが殆どであらうから、その形式に現實を盛込む能力が缺如した爲ではなからう。
 元來、形式とは「マンネリズム」の極致とも言へるものであつて、内容が盛られて初めて「マンネリズム」を問ふべきものであるし、形式はそれ程無能なものではなく、それを活かさうと情熱を燃やす作家が現れるのを待つ事しか出來ないに過ぎないもので、それはブラアムスが交響曲第四番の終楽章で、「パツサカリア」といふバツハの頃でさへ忘れられたやうな形式を利用して作曲されてゐる事でも、形式といふものの頑丈さを知る事が出來るだらう。
 但し、自由律俳句は盛るべき器がないので、定型とは認められない。
 さうして、次の最も重要な伏線の、
 「もっともいかなる時世にも人は慰みをもつことを許される。老人が余暇に菊作りや盆栽に専念し、ときに品評会のごときを催し、また菊の雑誌を一、二種(三十種は多すぎる」)出すのを、誰も咎めようとは思うまい。現代的意義というようなものを求めさえしなければ、菊作りにはそれとしての苦心も楽しさもある。それを誰も否定はしない」
 といふ理論は、現代を書くとは、過去のものを引摺りながら現代を生きるといふ事に外ならないから、現代を直接書かなくても、さう讀み取れれば良いといふ事が言へ、さういふ意味では「菊作り」にだつて、過去からの道具の進歩や作り方も違へば、思想とか科學・化學の發達に應じて、環境問題にまで觸れる事が可能であると思はれるので、立派に現代を表現してゐると言へるだらう。
 このやうな論の亂れは、氏の藝術觀にも見られ、
 「秋桜子が「芸術」という言葉を用いず、いつも「芸」といっているのは興味深い」
 といふ箇所も、この批評の仕方は、粗品ですがと言つたのに對し、そんな粗末な品物はいらないと答へるに等しく、一種の詭辯術と言へまいか。
 かくして桑原氏の論調は、巨大なうねりを見せた儘、愈々核心に近づき、
 「しかし菊作りを芸術ということは躊躇される。「芸」というがよい。しいて芸術の名を要求するならば、私は現代俳句を「第二芸術」と呼んで、他と区別するがよいと思う。第二芸術たる限り、もはや何のむつかしい理屈もいらぬわけである。俳句はかつての第一芸術であった芭蕉にかえれなどといわずに、むしろ率直にその慰戯性を自覚し」
 といふ論調には、藝術への愛情も感じられず、しかも「芸」と「芸術」の違ひがどれ程のものかを説明しなければ、とても諒解出來ないものである。
 筆者の意見を言はしてもらへば、「芸」と「芸術」との違ひは、所詮表裏一體のもので、いづれが缺けても安定しないものだと言ふしかないのだが、しかし、「第一」とか「第二」といふ考へそのものが藝術的ではない。
 長篇小説と短篇小説の優劣を論じて見ても始まらぬやうに、それぞれの長所と短所をあげつらつた所で、それは雙方の作品に於ける善し惡しは諒解出來るものの、その事を以(もつ)て分野そのものの存在の優劣を決定した事にはならない。
 それは大伽藍の壁畫とエツチングとを比較し、どちらの表現手段が優秀であるかを論じるやうなもので、その論じ方が間違つてゐる。
 問題はその内容である。
 凡(およ)そ、これだけ情けない論文とは言へないやうな非難に對して、當時の俳人が何も言へなかつたのだらうか。
 筆者が知つてゐるのは、これもこの本の「まえがき」にあるものを引用すれば、

 「自分らが始めた頃は世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八階級も特進したんだから結構じゃないか」

 といふ虚子の言葉だけで、これが日本を代表する俳人かと思ふと、日本人の議論下手と言はれる論理能力の缺如には、呆れるしかないが、それでも、筆者がこの論の中で最も賛成出來たのは、

 「俳句の自然観察を何か自然科學への手引きのごとく考えている人もあるが、それは近代科學の性格を全く知らないからである。自然または人間社会にひそむ法則性のごときものを忘れ、これをただスナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神ほど背反するものはないのである」

 といふ文章の、
 「スナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神ほど背反するものはない」
といふ箇所だけで、この事に就いてはいづれ「發句雜記」で述べる心算(つもり)である。
 以上が、『第二芸術』といふ論文の内容であるが、最後に言はせてもらへば、殘念ながらこの文章は論とは言へず、寧ろ主情的な好みを述べただけで、この作品が世間を騒がせたのは、それこそこの著者が高名な學者であつたからで、これが名もない人の書いた文章であつたら、もう少し冷靜に、この論の矛盾に氣がついてゐたのではないかと思はれるし、多くの人の目に止まる事もなかつたであらう。
 丁度、筆者のこの一文のやうに……。

☆參考文獻
『第二芸術』  桑原武夫著  講談社学術文庫
『省略の文学』 外山滋比古著 中公文庫

註)興味のある方は讀んでみて下さい。


始めからどうぞ

1、『第二藝術』を讀んで思ふ事
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