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チベットを知るための夏コミュの2009年3月☆ダラムサラ通信

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「チベ夏」企画人の月と桃の99%こと南椌椌氏が、今年の3月
多くの亡命チベット人の住むインドのダラムサラへ訪れましたウマ

子供たちの魅力的な素顔満載の滞在レポートを
順番に紹介していきたいと思います芽


◆ 南椌椌(みなみ くうくう)さん

 当イベント「チベ夏」企画人。

 *プロフィール
  1950年、東京生まれ。
  立教大学卒業後、1976年、約1年間ヨーロッパ各地を夢想的に旅する。
  1977年、舞踏家の山田せつ子と結婚。
  同年、荻窪に「セロ弾きのゴーシュ」からとった「かふぇ・ゴーシュ」
  という喫茶店を弟とともにオープン。
  翌年、吉祥寺にカレーと珈琲の店「まめ蔵」をオープン。
  1980年頃から「まめ蔵」周辺の若い美術家に影響されて絵を描きはじめる。
  1990年、同じ吉祥寺に「諸国空想料理店Kuu Kuu」を開店。
  高田渡、友部正人、原マスミなどのライブコンサートをしばしば開いた。
  1992年、南椌椌という作家名を名乗り、絵やテラコッタの制作を始める。
  1994年、架空社から初めての本『桃の子供』を刊行。
  以後、飲食店の運営を基盤に絵本やイラストレーションの仕事を続ける。
  2003年12月、14年間のKuu Kuu営業に終止符を打ち、閉店。
  半分の祖国、韓国には毎年3〜4回は渡航。
  アメリカや韓国を含め、個展・グループ展多数。

 *南椌椌HP『月と桃の99%』
  http://www.kuu-kuu.com/index.html

コメント(31)

2009年03月31日 『ダラムサラから帰って来ました』

きのう3月29日
インド・ダラムサラから無事帰国しました

いろいろあった3週間ですが
チベット難民のこどもたちが住む
TCV(tibetan childrens village)を何度も訪れたことが
楽しくかつ多くを考えさせてくれました

すこし余裕ができたら
写真もたくさん並べて硬軟いろいろ書いてみたいですが
きょうはごく柔らかい1枚だけ

TCVのなかで会ったこども
必殺「合掌の技」で
相手をイチコロにさせる女の子
もちろんボクもイチコロでした
2009年04月01日『ダラムサラから その1』

さて、きょうから3週間のダラムサラでの日々を写真とメモで報告します
ちょこちょこ更新しますのでできたら続けて読んでみてくださいね

3月9日にダラムサラに着きました。
翌10日は1959年3月10日ダライラマ法王の亡命記念日です
例年この日を境に大きな抵抗運動が起きます。
昨年3月の大きな騒乱は北京オリンピック開催年ということもありましたが、
この3月10日を忘れないというチベット人の強い思いの現れでもあったのです

今年は法王亡命50周年という大きな節目の年ですが、
中国本土でのチベット人に対する弾圧は激しさを増しており
ここダラムサラでも昨年のような激しい抗議行動は見られませんでした
亡命政府から自制の要望があったのかも知れません

朝からチベット寺院(ツクラカン)では
法王の声明、各国の支援者のスピーチなどが続きましたが
この会場には一般の参加者はカメラを持ち込めません

その後法王は各国の記者団と会見しました
この様子はボクをダラムサラまで引っ張っていった張本人
チベット難民支援のNGO・ルンタプロジェクトを運営している
中原一博のブログをぜひお読みください
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-03.html?p=3#20090314
(お気に入りにいれて時々読んでみてほしいです。日本には伝わらないチベット情勢を知ることができます)

写真は午後にはじまったデモ行進の様子です
チベット寺院から4〜5?下ったロウアー・ダラムサラまでの行進です
もちろん、シュプレヒコールは途切れることはありませんが
終始整然とした行進はちょっと予想外でした
でも、充分にチベット人の熱い思いは伝わってきました

左:ダラムサラから見えるヒマラヤの峰
中:チベット国旗を翻してゆくバイクの先導隊
右:尼僧たちの行進

(つづく)
2009年04月02日『ダラムサラから その2』

引き続き、3月10日のデモの様子です。
ダラムサラに住むさまざまなチベタンが参加していました。

左 尼僧たちのデモ。
中 TCV (tibetan childrens village)の女生徒たち。
右 日本人のやってるNGO・ルンタレストランで働く陽気な
  チベット人・パサン(ヒゲの小粋なヤツ・・・逮捕拷問暦豊富)
2009年04月04日『ダラムサラから その3』

ダラムサラから車で30分くらい下ったとても美しい一角に
ニントプリンという障害をもった若い人たちのための施設があります。
チベットから亡命するには苛酷な旅をしなければなりませんから
この施設で暮らす人々はみな亡命した親の世代から生まれた2世3世だと
思います。

1999年に創設されたときには寄宿生は7名スタッフは4名の小さな世帯
だったそうですが、施設人員とも現在では大きく成長しています。

案内してくれたケルサン・チョキさんは若いときに亡命してきた方ですが終始
笑みを絶やさない温かい人柄が印象的な方でした。

写真は続けて9枚アップしますが、日に焼けたおっさんがチョキさんから嬉し
そうにお金をもらってるように見える?のは実は逆なんです。
昨年夏に仲間たちとがんばった「受難と祈りー、チベットを知るための夏」と
いうイベントで制作した『チベット証言集』のイベント以後の売り上げのなか
から約5万円/25000ルピーを堂々と寄付している月桃先生の図であります。

ニントプリンについては
ルンタプロジェクトのHP2004年の以下の記述を参考にしてください。

スウェーデン政府から補助金が出たという新しい校舎とドミトリー(宿舎)が
完成(今年8月に落成式をしたばかりとのこと)、子供たちが45人、スタッフ
20人に増え、新しい建物で作業をしていました。ミシンが数台入り、主工芸品
を作れるようになっていたほか、紙すき機械を導入して紙製品を作れるよう
準備しているとのことでした。現金収入としている製品は、以前と同じ、子供
たちが絵を描いたカード、ポスター大の絵、組み紐(ミサンガなど)、木工品
に加え、きんちゃく袋や財布などの布製品が並んでいました。

ニントプリンでは寄宿生とテラコッタの制作などを共にしながら遊びたかった
のですが、チベットの正月ロサルのあとの休み中で、親元に帰っている子たち
が多かったので今回はできませんでした。
また機会をみつけて行ってみたいと思います。
2009年04月04日『そのつづき』

左の写真の少年は
話すことも聞くことも見ることも殆どできません
でも笑うと本当にかわいいんです!
彼は泥とこまかく砕いた紙を杵のような棒で混ぜ合わせながら
紙粘土状ののものを作っています
お祭りのときなどに使う仮面をつくる材料になるそうです

中の写真の少年は
知的障害をもっていますが
絵がとても上手です
一生懸命画布にむかって描いていました

右の絵は
寄宿生の描いた自画像です
その表現の斬新さにびっくりしました


2009年04月04日『またそのつづき』

左の写真は
ニントプリンの庭でボランティアの白人女性が
寄宿生にマッサージの方法を教えているところ
日だまりでいかにも気持ちよさそうでした

中の写真は
ニントプリンの庭で実をつける木
しっかりと大地に根付いてるさまが嬉しそうでした

右の写真はチョキさんが
施設内の小さなチベット寺院に立っているところ
簡素なつくりですがとても落ち着いた雰囲気です
ここでは朝7時からと夕7時から
寄宿生、スタッフ全員で
それぞれ1時間づつ祈りのお経があげられるそうです
2009年04月06『ダラムサラから その4』

ダラムサラ・レポートの続きです

3月10日の集会、デモのあと夕刻からキャンドルを灯しての静かな行進が
はじまりました。多くのチベット人、多国籍のサポーターたちが街なかのバス
ステーションからチベット寺院までの道のりをゆっくりゆっくり歩きます。

途中、風でなんども炎が消えそうになりましたがボクのキャンドルは奇跡的?
に最後までもちました・・・「日頃のおこないの良さ」というアホな想念が
よぎりましたが、見事に振り払い、敬虔にチベットで犠牲になったりいまも
収容所で苛酷な拷問に耐えている人々のために祈りました。

実際、チベット寺院までのキャンドルの行進は遠いチベット本土に住む人々へ
の共感が届いてくれますようにという共通の意志で貫かれていたように思います。

3月12日には「チベット女性連盟」主催の集会がありました。
この日は「チベット女性蜂起の日」です。50年前の1959年3月12日、
ラサで女性達が立ち上がった日です。
集会に先立ち、TIPA (Tibetan Institute of Performing Arts=チベット舞台
芸術団)のメンバーによるチベットの国歌の演奏がありました。

右の美女?の写真はなぜか自然にレンズが向かってしまったショットです。
別に他意はありません。
2009年04月07日『インドの村を歩く』

ダラムサラはインドの北部ヒマーチャル・プラデーシュ州に属する町です。

デリーから夜行寝台でガタゴト10時間ほどパタンコッタという駅からさらに
車で2〜3時間山道を凸凹登っていったところにあります。
ヒマーチャル・プラーデシュ州にはヒマラヤをのぞむ里山の風景が美しい緑
豊かな農村地帯が拡がっています。日本のなつかしい田舎の風景にも似ています。

カングラという地方には日本とそっくりな茶畑の風景が拡がっていて、ちょう
ど4月〜5月の茶摘みの頃にはインドの早乙女たちが色鮮やかなサリーをま
とってお茶摘みをしているそうです。カングラのお茶は紅茶ではなく緑茶に
なります。一缶買って来ました。

なぜ、この地にチベットの亡命政権があるのでしょうか。
1960年当時のインド首相ネルー氏が中国の侵略から逃れ亡命したダライ
ラマ法王とチベット人たちのためにこの土地を用意したことから亡命政権の
歴史がはじまりました。
以来50年が経ちましたが、インド人の亡命チベット人への支援は深く広く
続いています。決して豊かではないインド人の懐の深さを感じざるを得ま
せん。

ダライラマ法王日本代表部事務所のHPにダラムサラについて記述されて
います。参考までにお読みください。
http://www.tibethouse.jp/travel/dharamsala/about.html

さて、そんなダラムサラの谷のインド人の村を歩きました。
居候させてもらってた中原君の家はヒマラヤの峰も見える絶景の谷に面して
いるのですが、その谷をくだって向こうの小高い丘の上まで6〜7時間かけ
てのんびり歩いて来たのです。
うららかな春の里山には梨の白い花が満開で静かで平和な風景が拡がってい
ました。
僕は旅に出るとだいたいその土地の子どもたちの写真ばかり撮ってしまうの
ですが、ここでもそうでした。

つづけて9枚の写真をアップしますね。

左:中原君の家の窓から見える風景。なんとも美しい!
中:インドの仲良したち、左はしの女の子は人なつっこくて可愛い!住所
教えてくれたので写真を送ってあげよう!
右:村の中にはところどころにヒンディの祠がある。みんな敬虔なヒンディ
教徒です。
2009年04月07日『インドの村を歩く その2』

この村はまとまった集落というより
一軒、二軒と山の斜面に家が寄り添うように建っています。

インド人の子供たちはなんとなく静かで深い感じがします。
他者におもねることなくどこか超然とした・・と言えば大げさですが
僕にはとても好感がもてるのでした・・・。

左:お姉ちゃんと弟、妹たち。まなざしが涼しいでしょ。
中:家の軒先で勉強していました、奥ではかわいい妹も。
右:岩の上に座ってどこか遠くを見ていた少年。昔、ボクもこんなだった
かなあ・・・?
2009年04月07日『インドの村を歩く その3』

左:本当になつかしいような里山の風景です。
写真ではわかりませんが、段々畑もひろがり、必ず牛が草を噛み犬が遊んで
います。
中:「このおじさんだれなの?」
  「こわくないくーくーさんだよ」
  「へんなおっさん!」
右:お母さんと小さな子ども、お母さんのまなざしに引きつけられました。

つぎにダラムサラに行ったら
またこんなインドの村を歩きたいなあ、と思います。
2009年04月09日『ヒマラヤに向かって その1』

ダラムサラは標高1700〜1800メートル、ヒマラヤ山脈の前峰5000
メートル級の山に抱かれるような高原にあります。
晴れた日に見える万年雪のヒマラヤの峰には何故か微かな動悸にも似た胸騒ぎ
を覚えます。

ダラムサラのマクロード・ガンジというところがチベット人が多く住む地区
で、中原君の家はそこから凸凹道を15分くらい下った谷に面した絶景の場所
です。そこから毎日ヒマラヤを望見してたらどうしてももっと近くまで行きた
くなりました。

左の写真でまだらな雪山の前方になだらかな鞍部になってるところがトリウン
ドと呼ばれる峠です。標高3000メートルくらいで、そこまでは大体4時間
くらい、登山路もしっかりしていて茶屋もいくつかあると聞き、ある朝ふと思
い立ってひとりで歩きはじめました。

歩き始めはかなり不安でした。
もともと山好きで若い頃にはけっこう山歩きをしたものでした。あまり高山歩
きはしませんでしたが、奥秩父や北八ヶ岳の山が好きで山小屋泊まりの縦走も
何回かしたことがありました。でも、最後の山歩きからもう15年以上経って
います。日頃の不摂生で体力は完全に衰えているはずです。岩だらけの急な
登山路を4時間・・・もつかなあと、でも大丈夫でした。
昔から山に入ると野性が目覚めるというか、俄然元気になって休みなくどどっ
と登れたのですが、今回もそれに似た感じになりました。
途中の風景の素晴らしさ、ほとんど人に会わない快適さもあいまって、予定
よりかなり早くトリウンドまで着くことができました。

中の写真:少し標高を上げて行くと、ヒマラヤシャクナゲという深紅の花樹が
多くなります。日本のシャクナゲとは趣が異なり、かなりの高木になります
し、谷にせり出して花をつけたりしています。この花でジャムを作るととても
綺麗なジャムができると聞いたので、がんばってたくさんの花を摘んで持って
帰りました。そして毎日のように通ったルンタレストランの直子さんにすぐに
ジャムししてもらいました。東京でジャム作りをしているもとKuuKuuの
スタッフへのおみやげにしようと思ったのです。

右の写真:茶屋やロッジに荷揚げする驢馬の隊列に会いました。カランコロン
と鈴を鳴らして岩だらけのゴロタ道を黙々と歩いておりました。驢馬くん、
キミたちは偉いよ、まったく。

あと6枚の写真はこのあとに。
2009年04月10日『ヒマラヤに向かって その2』

予定より30分以上早くトリウンドに着いた。
疲労感はほとんどないし、「ああ、歩けたんだ!」という安堵感がさらに
身体を軽くしてくれたようだった。
トリウンドの峠には茶屋が何軒かとロッジが建っていたが、その日の登山客
ではボクが一番乗りだったみたい。
一軒の小さな茶屋でひと休みしてたら、そこの主人なのか若いインド人が話
気がした・・・小屋の中を覗いてみると小さなベッドがふたつあったので、
「ここにずっと泊まってるの?」と聞くと、
「ああ、そうだよ1年のうち10ヶ月はここに泊まってるのさ」という答え。
ボクは彼に「アー ユー ハッピー?」と聞いてみた。
「そりゃ、最高に幸せだよ! キミも今日泊まりなよ 夜も朝も信じられ
ないくらい綺麗なんだから それに町の灯りだって最高だよ!」って言って
くれた。
本当にここに泊まったらどんなに気持ちいいだろう・・・

「ありがとう、でも次にするよ、また来るからね」
彼はインド人が頻繁に使う「ノンプロブレム ノンプロブレム」って言い
ながらおいしいチャイをごちそうしてくれた。
お礼にボクの絵のカードを2枚プレゼントした。

トリウンドにもヒンズーの小さな祠があった。

実はこのトリウンドには一週間後に2度目の登山をした。
1回目の帰路、同じ道を戻りながら途中ひとつ谷を間違えて2時間くらいの
タイムロスをしたけど、逆にこの山がもっと身近になり、下山途中に日本に
帰るまでにできればもう一度来ようと思ったのだ。そして帰りはこの道じゃ
なく、ずっと東の方に伸びている長い尾根道を下ろう・・・・。

2009年04月12『ヒマラヤに向かって その3』

2回目のトリウンド登山は一週間後
この一週間ダラムサラはけっこう天候不順で雨も多く
夕方からはかなり冷え込む日も多かった
そのせいか風邪気味で前回より身体が重かったが
歩き始めれば大丈夫、まずは快調に高度を上げて行った

2番目の茶屋を過ぎたあたりで
すごく雰囲気のあるインドの爺さんに出会った
髭をたっぷりたくわえた仙人みたいな爺さん
片言の英語同士でしばらく談笑
笑顔がやさしく包み込んでくれる・・・
爺さんの後ろにはチベットの祈りの旗・タルチョが見える

「ほらあそこに4つの四角い屋根があるだろう
 その下に長い屋根が見えるかい? あそこがワシの家じゃよ・・・」
「へえ、あの村に住んでるんですか?」
「そうじゃよ、トリウンドの帰りには泊まりにいらっしゃい
 とてもきれいでしかも安いぞよ・・・・
「・・・?・・・・・・」
この仙人はゲストハウスを経営しているらしい
もしかしたら、時々ここに坐って客の勧誘してるのかも?
さすが仙人は深いなあ

やはり前回よりずっと疲労感は増しているようだ
峠にたどり着いたときにはけっこうバテバテだったが
せっかくだから帰路はあの尾根道を下ろう・・・
僕は来た道ではなく東にながーく延びる尾根道を下ることに決めた
休むとからだが冷えるし筋肉も固くなるので
ほとんど休む間もなく稜線をくだりはじめた

結論から言うと、ごろごろとした岩だらけの
遠くから見るよりずっと急勾配の道からの眺望はまさに絶景の連続で
しかも今日はだれひとりここを通っていないらしい
なんでここに?というところにひとり草を噛んでいる牛くんはいましたが
まったくひとりきりでこの尾根道と絶景を占有した気分
ただ、この道は長い・・ひたすら長い・・・
歩いても歩いても・・・この道は終わらない・・・
しかもところどころに敷いてある
黒い玄昌岩のようなスレート状の石畳に照り返す日の光で
たぶん顔は真っ黒に焼けているに違いない

谷の底の川にかかる橋まで降りるころには
足はガタガタ、筋肉は突っ張って・・・
でも、朝8時に歩き始め午後6時ころまで
ダラムサラの下の町ロウアー・ダラムサラまで歩き通しました
よく歩いたよ、ボクはキミを誉めてあげたい

この2回のトリウンド登山は
今回の、チベット亡命政権の町を訪ねるという目的からは
ちょっとはずれたものかも知れませんが
ヒマラヤを望む町に住む亡命チベット人たちが
祈りとともに見ている雪の山の近くに行けたということが
僕自身にとっても嬉しいことでありました
あの先にはチベットがある・・・・

左:人生の深い味わいを見せてくれた仙人
中:羊や牛を放牧する民のための石造りの小屋
右:たったひとりで草を噛む牛

次回はダラムサラの日本食レストラン「ルンタ・レストラン」特集?です。

2009年04月15日『ダラムサラの空想料理店 その1』

ダラムサラのルンタ・レストランはマクロード・ガンジという一応繁華街風
の 通りから少し下ったところにあります。
レストランの入ってる建物はルンタ・ハウスと言ってこの日記にも何度か登場
しているボクの古くからの友人中原一博たちが立ち上げたチベットの亡命難民
のための自立支援NGO・ルンタプロジェクトと亡命難民自身のNGO・グ
チュスムが共同で使用運営しています。
ルンタ・プロジェクトのことはHPをぜひ参照してください。
グチュスムのことも詳しく載っています。
http://www.lung-ta.org/

ルンタ・レストランは日本食レストランです。
表から見たら通りに面した1階に見えますが谷のほうから見たら2階になり
ます。広いテラスを含めたら50坪以上あるのでは?
日本人の直子さんとチベット人のソナム夫妻がマネジメントを取り仕切って
いますが、働いてる人はみな亡命チベット人です。

店の雰囲気はとてもリラックスした感じで、お客さんは基本的にチベット
好き、ベジ好きの諸国ガイジンさんたちと、日本人の旅人および滞在者が
中心で、 いつもかなり繁昌しています。
数から言ったら諸国ガイジンさんの方が圧倒的に多く、その中に黒目黒髪の
日本人&チベット人が坐ったり立って働いたりしています。

ああ、この雰囲気って昔「諸国空想料理店KuuKuu」という料理店を開いた
とき 思い描いていたのと同じだなあ・・と感じました。
どこにもないけどどこにでもあるような交易都市の料理店・・・
ダラムサラと いう町がそんな風にも見えるわけです。
もちろん、ダラムサラは中国の圧政から逃れてきた亡命チベット人たちの
住む 町ですから、「空想」という浮遊したような言葉はふさわしくありま
せん。 ただ、ここには人種や民族という垣根を越えた空想的自由の気分が
あることも 事実です。

直子さんとソナムのあいだにはチュニとチカという可愛いふたりの姉妹が
います。チュニは中学一年生、チカは小学5年生でチベット難民の子ども
たちが学 ぶTCV(Tibetan childerens village)に通っています。
ふたりは学校が終わると必ずルンタ・レストランにやって来て宿題をやった
り、仲のよいチベット人の子どもたちと遊んだりしています。
チュニはとっても美人でちょっとはにかみ屋さん、なんか懐かしいような
日本 的乙女です。チカはちょっとおしゃまで明るくやんちゃです。夕方の
ルンタに は諸国ガイジンさんたちと混じってルンタハウスの子供たちが入り
混ざって 不思議な光景を見せてくれます。

ある日、子供たちと一緒に絵を描きました。
何人かで一枚の絵を仕上げようということになり、みんなで集中したりさ
ぼっ たりしながら楽しく描きました。レストランから見えるヒマラヤの山
にかかる虹。ごく自然な風景です。

別の日には色紙をちぎってちぎり絵を作りました。チュニは細かい手仕事が
とても上手で、他の子どもが飽きて顔に色紙をくつけて遊びはじめても淡々
と 丁寧な仕事を続けていました

写真左:チカちゃんとチベタンの親友。首に巻いてるのは誕生日のお祝いに
もらったカタという白いスカーフ。

中:みんなで絵を描いてるところ、左の子がチュニ。

右:突然、顔をキャンバスにしてちぎり絵を作った男の子。とぼけた
チベタンの子ども。

(つづく)
2009年04月17日『ダラムサラの空想料理店 その2』

ルンタ・レストランについて知っていることを書きます。

ボクの友人の中原一博は1980年代にダラムサラに移住しました。大学で
ひとりチベット宗教建築を学んでいた頃から在日チベット人との交流がはじ
まり、大学卒業後ダラムサラの亡命政権からの招請状を受け取り現地に赴き
ました。仕事はもちろん亡命政権の様々な施設の設計です。その後、設計分野
では多くの仕事を続け現在に至っていますが、建築家としての仕事の他にも
亡命チベット人のために献身的に尽くしています。そんな流れのなかから
ダラムサラに滞在する日本人たちが自然に難民自立支援のNGOを立ち上げ
ようということになったのだと思います。

1999年9月、ルンタ・プロジェクトの拠点になる4階建ての立派なルン
タ・ハウスが完成します。完成に至るまでに多くの寄付が寄せられましたが、
最後の決め手になったのがミュージシャンの浜田省吾さんからの寄付でした。
というのも浜田さんと中原君とは広島時代の悪友でいっしょにバンドを組んだ
仲でもあったそうです。ちなみに浜田省吾さんは難民の子弟が学ぶ”Tibetan
Children’s village”にも多額の寄付をされ、”Shogo Home”と名付けられ
たホームがあり、30数人の子どもたちが共同生活を送っています。

こうした背景のなかからルンタ・プロジェクトならびにルンタ・レストランが
生まれたのです。

さて、ルンタ・レストランではどんなチベタンが働いているのでしょう?
ルンタ・ハウスで働く人たちは原則としてヒマラヤを越えて亡命して来た人々
です。
それぞれ個人的背景は違っても、みなあまりに苛酷な体験をしている人々で
す。

例えばパッサン・ドルジェの場合。
パッサンはレストランの厨房で働く男、写真でわかるようにいつもテンガロン
ハットをかぶりおかしな髭を生やした伊達男風で厨房ではいつも陽気に歌いな
がら仕事をしています。
しかし、パッサンも凄まじい経歴を持っています。

彼はチベット本土のガンゼ地方で生まれ15歳のときに自ら欲して僧侶にな
り、やがてガンゼの街頭にチベット独立の貼り紙を貼った罪で捕まり、6年半
の刑を言い渡されました。
パッサンは後ろ手に縛られ親指に錠をはめられ、さまざまな拷問を受けました
が中国公安には妥協することなく良心を貫きました。その結果は極度の衰弱に
より見るに堪えない状態になりました。監獄では窓のない独房に手錠と足かせ
をかけられたまま1年も入れられました。その状況がどんなに悲惨なものだっ
たか想像してください。6年半の刑期中にはさらに苛酷な仕打ちを受け続け衰
弱の度合いは増すばかりでしたが、なんとか刑期を終えて外に出ることができ
ましたがふたたび僧衣をまとうことを禁じられました。
その後も何度も警察に捕まり拷問を受けるという苦難の日々は続きましたが、
2004年11月、生きているのが不思議という状態でヒマラヤを越えてネ
パールへ逃れ、そしてインド・ダラムサラへ到着できたのです。
レストランで陽気に働くパッサンを見ていると彼がこんな苛酷な体験をして
いるなんて想像することさえできまません。しかし、パッサンの体験はここ
ダラムサラでは決して珍しいことではないのです。

ルンタ・レストランはいつも色々な人種の人々で賑わいボクにとっては理想的
な空想料理店の雰囲気を持っていますが、実はこうした体験を持ったスタッフ
によって支えられているのです。

この日記は去年いっしょにチベット支援イベントの実行委員を担ってくれたマ
イミクmao☆さんのブログ「たまゆら雑記」から引用させていただきました。
彼女はイベント終了後すぐにダラムサラに行き多くの亡命者にインタビューし
てくれたのです。2008年9月と11月の記事に彼女がインタビューした
記録が「証言」として掲載されています。みなさん、ぜひお読み下さい!
http://newborder.exblog.jp/m2008-09-01/
http://newborder.exblog.jp/m2008-11-01/

写真左:一見陽気な伊達男、パッサン・ドルジェ、いい男です。
写真中:やはり厨房で歌いまくるツェリン・テンパ、彼も少年時代の僧侶と
なりましたが、独立を訴えるデモに参加し捕らえられ、その後インドに亡命
してきました。
写真右:厨房でおいしいパンやケーキを焼いているガワン・トプチェ。彼も
元僧侶でしたが、彼の僧院にダライ・ラマ法王の写真を掲げたという理由だけ
で捕まり11年の刑を言い渡されましたが、監獄での拷問による衰弱が激しく
追い出されるようにして病院に入れられ、その後亡命に成功しました。
(写真もmao☆さん撮影です)
2009年04月17日『ダラムサラの空想料理店 その3』

ある日のルンタ・レストラン

ルンタ・レストランの直子さんとソナムの娘さん、チュニがテラスで自転車に
乗っています。後ろの山には梨の花が美しく咲いています・・・。
ダラムサラは坂道だらけでしかも石がごろごろの凸凹道なので、ボクが滞在中
自転車を見たのはルンタのテラスだけでした。もしかしたらダラムサラで唯一
の自転車かも知れません。
チュニはきれいでしょ!それにチュニが着ているTシャツはナント月桃先生の
象さんTシャツです、なんという偶然、世の中こんなことがあるんですね??

中の写真はレストランでいちゃつく問題のカップルです。天然パーマのチベ
タンはツェリンといってダラムサラではちょっとした有名人です。眼鏡の日本
人はMr. N2、チベット問題を最も先鋭的に追いかけているフォトジャーナリス
トで、今回、ネパール・ヒマラヤの標高5700メートルのチベット人亡命
ルートまでの苛酷な取材の帰途ダラムサラに滞在していました。月桃とは一緒
にずいぶん回ってくれました。
見ての通り、ツェリンとMr. N2はただならぬ関係に陥り、これでチベット支援
など出来るのかと周囲は気を揉みましたが、本人たちはただじゃれ合ってるだ
けだから心配するなと言いたげでした。
ツェリンはデモの時、足場の危うい柵の上でチベット国旗を激しく振り続け、
ほとんどトランス状態になっているようでしたが、実際会ってみると本当にや
さしく穏やかでスキンシップの大好きな男です。スキンシップの相手は男性、
女性まったくお構いなしなんです。こんなチベット難民もいるんですね・・・
感動の人物でした。

右側の男の子もルンタ・ハウスで働く亡命者の子どもです。
チベット人は仏教哲学に慣れ親しんでいるせいか、ものごとを曖昧にすること
より真実を究めようとする態度が自然にあらわれます。この子も一緒にちぎり
絵を作って遊んでいたのですが、曖昧で主観的な創作作業よりも糊の入った
容器の構造にぐぐっと関心を注ぎはじめました。こうやって糊の容器の底から
見ると、世界というものがやはり「空」なるものだと悟ったのか、しばし後に
はすべてを放り出して遊びに行ってしまいました。

ルンタ・レストラン・レポートはこれにておしまい。
次回からいよいよ "Tibetan Children's Village" について報告します。
もう少しでダラムサラ日記も終わりますから辛抱して読んでみてください
ませ!
2009年04月17日『空想料理店 プラス!』

ダラムサラの中原くんから
ルンタ・レストランの近影が届きました。
諸国ガイジンさんがたくさん写ってる写真と
厨房の女性スタッフの写真がほしいとお願いしてたのです。

そう、日頃店内はこんな感じです。
諸国ガイジンさんはダラムサラで出会っていっしょにごはんを食べてまた
それぞれの旅に出るということが多いように思います。

ルンタには風の馬という意味があります。
チベットには家の屋上や寺の中央、山頂、峠、橋や水辺などに、経文を印刷
した魔除けと祈りの旗「ルンタ」を掲げる習慣があります。
旗の中央には「風」「速さ」を象徴する馬が描かれていて、これは、願い
ごとが早く成就することを意味します。
ルンタの旗(タルチョと言います)が山頂などにはためいているのを見ると
チベット人の祈る姿が思い浮かびます。

厨房の中、右から2番目がルンタ・レストランのママ、直子さんです。
いつもにこやかおっとりとして頼りがいがある素敵な日本女性です。
パッサンがきょうは帽子をかぶってないですね。
チベタン女性の・・・名前忘れてしまった・・・いつも明るく冗談っぽく
仕事しています。この厨房から歌がなくなってしまったら寂しいことです。

みなさん、いつかダラムサラの空想料理店、訪ねてみては?
きっと、なにかが見つかるかも!です。
2009年04月23日『チベットの子ども村 その1』

ダラムサラ・レポート再開です。

ダラムサラに "Tibetan Children's Village" チベットのこども村(略称
TCV)というチベット難民の子どもたちのための学校があります。
1960年、すでにインドに亡命していたダライ・ラマ法王14世がチベット
の未来を担う子どもたちのために創設した学校です。

いまでは、インド国内だけでも北のラダック地方、南のバンガロールなどを
含め多くのTCVがあり、15000人以上の子どもたちが学んでいます。

TCVではホームと呼ばれる寄宿舎に幼児から15歳くらいまでの子どもたち
が共同生活をしています。子どもたちは、朝5時半の起床からみんなが助け
あって食事、掃除、洗濯までこなして行きます。大きな子が小さな子を助け
ながら暮らしている様子は、子どもたちが難民なのだということを忘れてし
まうほど自然なやさしさに溢れています。

ホームではホームマザーと呼ばれる保母さんが子どもたちと起居をともにし
ながら子どもたちを守っています。マザーの多くもヒマラヤを越えて亡命し
て来たのです。

今回の「チベットの子ども村」はダラムサラのTCVにフォトジャーナリス
トの野田雅也さんといっしょに何度も通った記録です。写真は延べ15枚掲載
する予定です。みなさん、もう少しの辛抱です、最後まで追いかけてくださいね。

ちなみにTCVのレポートは6月発売の「月刊クーヨン」に3ページですが
文章・南椌椌、写真・野田雅也で掲載される予定です。原稿は写真もふくめて
今日すべて送ることができました。乞うご期待です。

(この日記の写真はすべて月桃先生の写真です。本人はかなりいいのでは!と
思っているようですが、野田氏の写真はやっぱプロです。月桃先生はそれは
カメラの違いなのだと言い張って、キャノンのD50というデジカメを買う
ぞ!と息巻いておりましたが、奥さんのS姫から「弘法筆を選ばずっていつ
も言ってたのは誰!と一喝され、あえなく消沈でありました。)

写真左:早朝5時頃のダラムサラのTCVホームの風景。なかではホーム
マザーの仕事が始まっています。

写真中:ホーム7の男の子の部屋、2段ベッドに小さな子はふたりでふとん
にくるまっていました。ひとり写ってるのはパルデン少年、この時は髪の毛
がありましたが、次ぎに行ったときには丸坊主でした。頭におできができて
いたらしく薬がたっぷり塗ってありました。

写真右:朝のごはんです。ほとんど金属製の容器に一品だけの料理ですが、
お祈りは決して欠かさず、ゆっくり残さずいただきます。

(以下はたぶん明日です。)
2009年04月24日『チベットの子ども村 その2』

Tibetan Children's Village (TCV)の仲良しツーショット3点です。

可愛い(可愛すぎる!)タシとクンガというふたりの女の子はこの3月に
ダラムサラのTCV・ホーム7にやって来たばかりです。北インドの仏教徒の
多いことで知られるキノール地方から来たそうですが、ふたりとも身寄りの
ない孤児だそうです。
タシとクンガはいつも一緒、赤い服が似合ってますね。なにが楽しいのか
いつもくっつきあって遊んでいます。

小学校の授業が終わり、廊下で古典的?な仕草で肩を組んでいるふたりの
少年の澄んだまなざし!ボクたちにもこんな時代があったのでしょうか?
(オマエニカギッテハナイ!)はい、そうかも知れません。

この子たちはたぶん姉弟ではありません。でも、ホームの子どもたちは
んな家族同様です。当たり前のように手をつないで暮らしています。


2009年04月25日『チベットの子ども村 その3』

TCVではホームに住んでる子どもたちが、洗濯、掃除、食事の支度を当番制で
こなしています。みんな楽しそうにチームワークを組んでせっせせっせとやっ
ていました。洗濯はかなり昔風のスタイルですが、洗剤とタワシのようなもの
で強くこするので汚れはバッチリ落ちているようでした。

日曜日でしたが、洗濯ものを干したところで、女の子は女の子らしく髪の毛を
とかしたりしてました。どこでも女の子は身だしなみが大事ですよね。

お風呂の日には外の水場でお姉さんたちが年下の子を洗ってあげていました。
まだ寒い日だったので男の子はふるえていましたっけ。

正直、うらやましくなる光景でした!
(いえ、お姉さんに洗ってもらうことが、ではなく・・・TCVでの子ども
たちの暮らしぶりが、です。)
2009年04月28日『チベットの子ども村 その4』

TCVで撮った子どもたちの写真でお気に入りの中から3枚お見せします。
たまたまこの3人ともテンジンという名前を持っています。

ホーム7のテンジン・ユウロは15歳、みんなのお姉さんのような存在です。
やさしい笑顔が印象的です。チベット・ラサ近郊の町ロカで3人姉妹の末っ子
として生まれましたが、2000年の春、姉妹のひとりでもチベットの文化と
宗教を学んでほしいという両親の考えでインドに亡命して来ました。ネパール
の国境の町・ダムまでは中国公安の検問を逃れ車のシートに隠れるようにして
来たそうです。そこから歩いてネパール領の安全な地域までたどり着きまし
た。まだ6歳だったユウロは両親と離れて遠い旅に出ることがとても不安だっ
たそうです。いまでも両親とふたりの姉さんはロカと北京に住んでいます。

家族には会いたいけど、いまはインドで学ぶことが大事なことだから・・・と
語る15歳の少女。勉強がはかどるとエキサイティングな気持ちになると微笑
みながら語ってくれました。理科系の科目が大好きで、将来はお医者さんに
なりたいそうです。

ホーム7に通った最後の日に子どもたちに月桃の絵のカードやTシャツをプ
レゼントしました。ユウロが手にしているのは彼女が選んでくれたカード
です。

テンジン・パルデンは2年生。ちょっと前の日記でホーム7の部屋でひとり
写ってた男の子です。その時は髪の毛がありましたが、この時は丸坊主にさ
れていました。頭のてっぺんに大きなおできが出来ていたのです。

パルデンはダラムサラ近くのカングラ地方で生まれ2年前小学校に入るとき
にTCVに預けられました。もの静かですが何故かとても気になる男の子
です。

ある時、夕ごはんが終わってカメラマンの野田さんと悪のりして子どもたちを
集めて「歌え!踊れ!遊べ!」みたいな感じになったとき、さっきまで丸坊主
でおとなしかったパルデンがいきなり毛糸の帽子を目深にかぶって登場して、
あれよという間にブレイクダンスを始めたのです。いやあ、あっけにとられた
の何のって、すごくリズム感があってメチャうまいんですよ。みんなやんやの
喝采で盛り上がりましたね。パルデンはひとしきり踊ったあと、何事もなかっ
たように部屋から出ていきました。いい顔した男の子でしょ。

テンジン・パルモはとても美しい少女です。
最初会ったときには、みんなから離れてひとりでいることが多く、どこか寂し
げな表情ときりっとした佇まいがふたりのおっさんの胸をハラハラと打ち、
思わずチベット難民の子どもたちの学校を取材するという崇高なミッションを
忘れて、自ら少年時代に還ってしまったかのような錯覚に陥った・・・なんて
ことは断じてありませんから・・・。

パルモに次に会ったときには、少女らしい明るさを取り戻していました。仲間
と楽しそうに遊んでいる時の表情がまたよくて、その写真は次回に・・・。
この日は当番だったのか、かなり重そうなUSAのバケツ缶に入ったゴミをゴミ
捨て場に運びに行ってる途中に撮ったのがこの写真です。我ながら傑作だと
思わずにはいられません。(こんなに重そうなバケツを運んでる少女を見て、
おまえは手伝おうともせず、シャッターを押していたのか?!という批判は
甘んじて受けます・・・事実です、スイマセン・・・)

「チベットの子ども村」日記では次回までで15枚の写真をお見せするつもり
でしたが、懐かしく素晴らしい表情の写真が多いのでもう少し続けさせてくだ
さいね。彼らの表情の向こう側にチベットの悲劇の現実があるということも、
重ねて見ていただけたら嬉しいです。

2009年04月30日『チベットの子ども村 その5』

きょうは、もうたまらない3枚の写真です。

真ん中の赤いセーターの天然パーマの女の子は2回目の登場ですね。
名前はタシかクンガのどちらかで、この3月にTCVに来たばかりの
孤児ちゃんです。くちびるをつまんで何を考えているのでしょう・・・。

ほかのふたりの男の子の名前はわかりません。
帽子をかぶった少年はネパールかインドの血が混ざっているかも知れま
せんね。
なんとも言えない優美な表情をしていました。

坊主あたまの少年は、定番のハナタレ小僧です。なんちゅうか、まったく
もって可愛すぎる少年です。
2009年04月30日『チベットの子ども村 その6』

きょうはTCVの遊び風景です。
とにかく子どもたちは遊び上手です。時間が少しでもあればとことん遊び
ます。 そんな姿を見ていると「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや
生まれけむ」という梁塵秘抄の古歌を思いだします。

みなさん、この遊びしたことがありますか?
3人で足を組み合って歌ってケンケンしながらぐるぐる回る遊びです。
どこかで見たことがあるような気もしますが、何人かの女の子に聞いてみた
けどやったことはないそうです。

この3人のひとりは月桃が99%ぐっと来ちゃったテンジン・パルモですね。
いつもとてもクールな感じだったのですが、仲間と遊んでる時はとても明るく
やんちゃな女の子になってくれました。

ふたりの子は姉弟です。
姉さんはリンチェン・キュイ・10歳、弟はタシ・ドゥンドゥップ・8歳
です。この姉弟は2年前にこのTCVにやって来ました。
2年前、ふたりはチベット本土から亡命して来たのです。しかも、5700
メートルのヒマラヤを徒歩で18日間歩いて来たのです。大人たちに混ざって
苛酷といってはまだ足りないような旅をして中国・ネパールの国境を越えて
亡命して来たのです。ふたりはとてもシャイで亡命のことについては多くは
語りませんでしたが、18日間一度も屋根の下では眠らなかったそうです。
そのことを聞いただけで涙が出てきました。弟のタシは当時6歳でしたが、
18日間自分の足だけで歩き通したと恥ずかしそうに語ってくれました。

こんな3人ですが、遊んでいる時のなんと嬉しそうなこと!

なわ跳びをしているのはテンジン・チョゲル8歳です。この子も2年半ほど
前チベット本土から亡命して来ました。チベットの首都ラサからお母さんと
いっしょに車でネパール国境の町まで来たそうです。インドに亡命後お母さん
はまたチベット・ラサまで帰っていきました。ときどきホーム7のお兄ちゃん
のお母さんと連絡をとりあっているようです。
チョゲルもまたとてもシャイな男の子ですがツボにはまるとはじけます。その
弾け方がか可愛いのです。
チョゲルはマイミクさんのぼんちっちさんが里親になっています。この日記に
ぼんちっちどんがあまりに過剰な「可愛い!!!!!」発言をしても大目に
見てくださいね。根はいいヤツなんすから。
チョゲルの脇を走っているのがリンチェン・キュイです。

3枚目の写真は朝ごはんのあとの登校前、さんざん遊んだのに女の子だけで
集まって「ねえねえ、次なにして遊ぶ?」と相談してるところ。
そのエネルギーたるや「恐るべき子どもたち」であります。
2009年05月02日『ゴパルプールの子ども村』

ダラムサラから車で1時間ほど走ったカングラ地方の丘陵地帯、ゴパルプール
にもTCV「チベットの子ども村」があります。10年ほど前に開校した新しい
TCVです。周囲はヒマラヤの峰と日本のお茶とよく似た茶畑がひろがる穏やかな
土地柄ですが、ここにも1500人ほどの生徒が学んでいます。

ゴパルプールのTCVにひとりの日本人医師が校医として滞在していました。
新潟県出身の医師・柿原敏夫先生です。
柿原先生はチベットの難民のためにと自ら望んで2004年にゴパルプールの
TCV校医として着任され、その年にはご家族とともに1年間校内の寮に住み
ながら子どもたちの検診に当たりました。
その後は毎年3月〜4月にかけて単身で滞在され1500人の子どもたちの
検診を行っています。TCVからはまったく報酬を受けておらず、すべてボラン
ティアでのお仕事です。

柿原先生は飄々とした自然体の方で、チベットの子どもたちを見る目はとても
やさしく、本人はやめてくれよと言うでしょうが、慈愛という言葉がぴったり
の先生でした。

前の年のカルテを見ながら子どもたちを診る先生はゴパルプールのTCVには
なくてはならない存在です。ほとんどの子どもは何の問題もない健康体です
が、中には町の病院に送って治療を受けなければならない子どももいます。
心臓に欠陥があって先生の診断で事なきを得た子どももいたそうです。

TCVの子どもたちは世界中からの基金・寄付で不自由のない学びの生活を送っ
ていますが、柿原先生のようにボランティアで永年診察を続けておられる方が
あってさらに平安な日々がもたらされるのだと思いました。

写真左:ゴパルプールのTCVはこのような風景に見守られています。平和で
のどかでチベット人だからといって威嚇するような人はいません・・・当たり
前ですが。

写真中:お休みの日の昼下がり、仲良しどうしで広い校内を散歩してました。

写真右:診療室で中学生の検診をしている柿原先生。1日に100人以上の
子どもを診るそうです。
2009年05月03日『チベットの子ども村 その7』

なんか、ダラムサラだからってダラダラ続けてんじゃないよ!って声が聞こえ
て来そうなので、あと2回で終わりにします。
最後までお読みになって、また最初から通して読んでくださると、月桃先生は
スコブル・ウレシイと申しております。

TCV「チベットの子ども村」はダラムサラやゴパルプールの寄宿舎制ばかり
ではなく、親といっしょに住める子どもたちが通うディスクールもあります。

左の写真は、ルンタレストランの直子・ソナム夫妻の次女のチカちゃん。ダラ
ムサラ・マクロードガンジのディスクールで朝の祈りの時間。チカちゃんはよ
く通る声で一生懸命唱和していました。
このディスクルールは敷地も小さく生徒数も少ないですが、みんなじゃりん子
なのでやたら賑やかな学校です。でも、先生はけっこう厳しいですよ。お祈り
の時間によそ見したり隣とつつき合ったりしてると先生のげんこつが飛んだり
します。日本だったら「体罰」で訴えられる先生続出かも知れません。

中の写真はおなじみのチョゲルです。これ以上里親のぼんちっちどんにサービ
スする必要はないのですが、チョゲルが嬉しそうに持っている2枚のカードは
何を隠そう、隠しだてはきらいであり、チョゲルが選んだ月桃先生のカードな
のです。チョゲルよ、そのセンスを持ってすればキミはTCV出身のアート
ディレクターとして活躍できるのではあるまいか・・・。

(マイミクのちびどんもこのTCVの男の子・クンガ・ジンパの里親なん
ですが、ホーム8の子だったのであまり追いかけることが出来ませんでした。
ちびどん、ごめんね。)

右の写真の少女も、その瞳の涼しさ、汚れない自然さにぐっと魅かれたので
す。チベットの子どもはどの子でも、不思議なほど深く穏やかなまなざしを
持ています。その理由は自分なりに考えましたが、ここでは申しません。

次回でダラムサラ報告はいよいよ最終回です。(たぶん、おそらく・・・)
里親制度についてもお知らせします。

ここまで書いて、一息ついてたら忌野清志郎さんが亡くなったことを知った。
58歳、まったく同世代の表現者が逝ってしまった。さびしいな、無念だった
ろうな・・・いまは
2009年05月04日『ダラムサラ報告 最終回』

これまで一ヶ月以上にわたって書いて来ました、ダラムサラ報告、泣いても
笑っても眠り込んでも最終回となりました。長い間のご愛顧まことにありが
たく感謝申し上げます。この日記が、読んでくださった方のなかに小さな波紋
ひとつでも残してくれたらこれにまさる幸せはないだろうと思うきょうこの頃
でございます。
(なんか本気っぽくないなあと感じてる キミ、もう少し正直になった方が
いと思うよ・・・)

さて、以下は少しマジに。

わずか3週間の旅でしたが
よく歩き、よく見、よく笑い、すこし考えた旅でした
チベット問題は複雑で難しく、深く考えることを強いる面もあります
大国が小国を武力で翻弄して支配下に置いているのですから
現代史の様々な要因が絡み合って利害関係を生み
弱いチベットはますます追い込まれさらに弱くなっているように思えます
しかし、精神的な面、あるいはただ人間的な面といってもよい
強いチベットは「にもかかわらず」ますます強くなっているようにも思え
ます

ボクの日記はチベット関連の文章の中では例外的に軽い筆致かも知れません
が、それは強いチベットに若干触れたが故の安心感と、もともとのお気楽精神
が書かせた文章だからです

ダラムサラのチベット人はとても魅力的な人々です
チャーミングでやさしく、笑顔がたまらなく可愛い人々です

彼らは自分たちの置かれた状況をよく知っています
希望よりは絶望に近いところで生きているのかも知れません

そんな彼らですが、とくに子どもたちの表情を見ていると
この人々は決して負けないだろうと思わずにはいられませんでした

このお気楽な日記を読んで少しでもチベットに関心を持っていただけたら嬉し
いのです
亡命してきた多くのチベット人は「わたしたちのことを忘れないで」「わたし
たちのことを誰かに伝えて」と訴えています

ボクは決して活動家になるような人間ではありませんが、折に触れチベットの
ことについては考え、チベットの友人として歩いていこうと思っているわけです。

左の写真は3月10日のダライラマ法王亡命記念日のデモ行進でのパッサン・
ドルジェ(帽子に髭の男)です。いつもルンタ・レストランで歌ってばかりの
コックさんですが、苛酷な獄中体験を持っています。
月桃日記の↓にダイジェストで書きましたので、よかったら読んで&読み直し
てくださいませ!!!!!
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1140209048&owner_id=3694476

中の写真は尼僧・ジャンジュップ・チェドゥン。中原君の部屋でのひとこま
ですが、彼女も凄まじい体験をして来ました。
詳しくは中原君のブログを読んでみてくださいませ!!!!
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-03.html

右の写真はホーム7のタシとクンガ。この写真だけは野田雅也どんの写真を
拝借いたしました。ダラムサラのTCVがいかに難民の子どもたちにとって
救いなのか、この写真だけでわかると思います。

TCV =Tibetan Children's Villageへの寄付、里親制度などについて関心の
ある方はぜひ↓のサイトをご覧くださいませ!!!!!!
チベット・サポートグループ KIKU
http://www.tsg-kiku.com/
チベットサポート基金
http://www.yasuragi.com/tibet/

年間4万円ほどでひとりの子どもの学費や生活費をまかなうことが出来ます。
現地に行って里子さんと会って遊んだりすることもできます。それに、TCVの
子どもたちと遊んで心身ともに元気になる自分を発見することだってできますよ。

こんなところで・・・・長らくお騒がせいたしました。
またどこかでお会いできる時まで・・・・元気でほがらかに生きていきましょう!ダラムサラのチベタンはみんなそうでしたよ!

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