mixiユーザー(id:766386)

2020年08月06日07:28

298 view

触知しうるイデー

僕は、髭を剃るときに血まみれになるほど深剃りしても剃り残しが目立つ、というふうに、強すぎも弱すぎもしない力加減で、そっと力を入れる、ということが、苦手なので、手動でない電動髭剃りを使っているのだけど、こういう不器用さは、コミュニケーションの場面における真実を露骨にしすぎる情け容赦のなさとしても現れているので、それを克服したいと思っている。

「柔よく剛を制す」とはよく言ったもので、硬直した剛の者に対して、剛で撥ね返していては、相手は心を閉ざしてしまうから、柔らかくなければコミュニケーションにならない。

だから、外側に見せ掛けられた表面の向こうの内奥に、優しく、そっと触れてあげる。

剛の者は、おのれの本性を恥じて見栄を張って意地を張って正体を隠しているけれど、見掛け上のものを飾り立てることによって真実を隠していながら、それでいて、真実を察してもらいたい、本当はこの思いを分かって貰いたくてたまらない、と心の声は叫んでいる。

そのような両義性こそ、真実なのだ。

万物の真相を明らかにしている、現代物理学の一分野である量子力学によれば、物の構成要素の最小単位である、素粒子と呼ばれるミクロな点粒子は、一点に存在していながら一点以外に向かって心を外にさらけ出している存在でもある、というふうに、万物は、マクロな全体によって観測されない間は心を外に開け広げさせていて、ここに存在する可能性が何%で、そこに存在する可能性が何%で、あそこに存在する可能性が何%で、というふうに、波のように全空間に亘って広がっているのだけど、マクロな全体によって観測された瞬間に開かれていた心を閉ざして広がっていた波を収縮させてどこか一点に存在する可能性が100%で一点以外のすべての点に存在する可能性が0%であるような粒子になってしまう。

このような波の粒子化は、伸び伸びと伸び広がっていた心を恐縮させて緊張している姿を見せて物という見掛けを呈することである。

つまり、心の本質が外に向かって開かれているところにあるのに対して、物の本質は外に対して心を閉ざして物という外見を見せ掛けることによって心を覆い隠しているところにある。

だから、表面を真に受けて我々が見ている通りの物が実在すると思い違いしてはならない。

たとえば、赤い炎も熱い炎も存在しない。

炎が赤いということは一定範囲の波長領域の目に見えない電磁波が当たって跳ね返ってきてそれが目に入って網膜を刺激してそれが電気信号として脳の視覚野に送られてそこで赤さと解釈されているということで、物それ自体に赤さという性質が属しているわけではないし、炎が熱いということは目に見えない原子たちの乱雑な振動が触覚器官を刺激してそれが脳に送信されてそこで熱さと解釈されているということで、物それ自体に熱さという性質が属しているわけではない。

目に見えるがままに物が実在するなどと考えてはならなくて、物それ自体は目に見えない心なのだ。

そういう意味で、哲学者カントは、心のことを物自体と呼んだ。

物自体を現象させないままで、外側から表面的に見れば物象という表象として現象する心を現象させないままで、内側から共感的に追体験してあげる。

そして、優しい理解をそっと示してあげる。

それは明示することでなく、暗示することだ。

言語化して明瞭化する思考スタイルを取るのではなく、言わなくても分かっているよ、と暗黙のうちの了解事項として、暗黙知のレベルで、分かってあげて、示してあげることだ。

語り得ないものについては沈黙しなければならない、と哲学者ウィトゲンシュタインは言った。

心は語り得ないけれど、示すことならできる、とウィトゲンシュタインは言う。

心は語ってしまえば嘘になるようなことだから、感じているレベルで知っていることを、認知のレベルにもたらして見せるのでなく、そっと示してあげる。

語らず、言葉というオブラートで包んであげる、それが示すということだ。
5 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する