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2019年12月31日12:19

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私が音楽を聴く理由,絵を見る理由  −東山魁夷「道」によせて−

音楽は,端的に言えば空気の振動という物理現象。
絵画は,紙などの素材に配置され描かれた色彩と形態。
文章も,紙に印刷された,あるいはテキストデータ化された文字列。
それだけでは何の内容も概念も持たない,いわば実体のない「仮象」の存在が,なぜ視覚や聴覚,触覚を経て芸術作品として認識され,人の心に届き響くのか?

ここ数年,「音楽とは一体何か?」ひいては「芸術とは一体何だ?」という,素朴にして根本的な疑問にとりつかれている。

その問いに答えを見いだそうと,単に音楽関連の書籍に限らず,人類史,世界史との関わり,政治経済あるいは宗教や他芸術,哲学,さらには認知心理学や脳科学,文化人類学,社会学と音楽との関係を見いだそうと,様々な観点から文献を読んできた。
私はマジで,世界史,文化学人類学あるいは宗教や哲学,社会学といった文系と,脳科学,認知心理学,考古学といった理系が出会う場所に「芸術とは何か?」の答えがあるように思う。
その上でたどり着いたひとつの結論は「音楽(芸術)は,言語とは違う」ということだ。

音楽は進化の過程で,言語から派生した副産物として生まれたと考えられていたが,ミズン(認知考古学者)「歌うネアンデルタール 言語と音楽にみるヒトの進化」によると,音楽と言語には共通の起原があるという。

例えば類人猿〜初期人類の段階では,敵対する相手への威嚇のうなり声や赤ん坊をあやす声,仲間に危険の察知を伝える声などのようなものが,音楽とも歌とも言葉ともつかない状態のものとして存在していた。
私達の現代の世界が言葉で満たされているように,当時は音楽の,音楽とも歌とも言葉ともつかない状態のもので満たされていた。
それが生存競争と初期人類の進化の過程で初期人類に不可欠のものとして刻み込まれ,やがて更なる進化の過程の中で,どこに食料がある,とか,外敵が近くにいるなどと,より的確に情報や事物を伝える情報伝達ツールとしての言語と,仲間意識と共同体意識,連帯感を育むための,より感情表出に特化したツールとしての音楽・歌とに,目的に応じて分化したという仮説を唱えている。

実際,私の今のこの考えや思いも,こうして「言語」という形に変換され,情報として伝達されている。
情報が正確に伝達するためには,言語のように,内容である意味とそれを示す記号との間に,曖昧さが少ない方が望ましい。
「赤信号=止まれ」というのと同じ事だ。
そこに多義性,例えば「赤信号=止まれ」,あるいは「注意しろ」,または「注意しながら進んでも良い」など,解釈の曖昧さや多義性があってはならない。
言語は,このように,基本的に指し示す内容と,それを表す言葉とに一対一対応の性格を持つ。
「リンゴ」という言葉は,誰にとっても,甘くて赤い果実を指すもの。
だからこそ,正確な情報の伝達が可能になる。

しかし,同じコミュニケーションツールである芸術の場合,一つの同じ絵を見ても,同じ音楽を聴いても,その解釈や受け止め方は人によって全く異なる。
言語と異なり多義性,曖昧さをもつもの,それが芸術である。
セザンヌの描くリンゴと,旧約聖書に禁断の木の実として表現されたリンゴとでは,全く違う意味合いを持つ。
また,同じセザンヌ描くリンゴの絵画も,それを見る人によっては「遠近法も明暗法もてんでバラバラで,絵の基礎がなってない下手な絵だ」と見る人もいるだろうし,「リンゴの持つ色彩,質感,見え方,形態の多義性を一度に表現したすばらしい絵画」と見る人もいるだろう。

言語と芸術は,ともに作者,発信者の意図を他者に伝えるコミュニケーションツールであっても,「リンゴ」という言葉が一つの果実を特定し指し示すのとは対象的に,芸術はそのような一義性を持たない点が,大きく異なる。

評論家は(評論家気取りの私も(^^;バッハが,ビートルズが音楽で何を表現しているか楽典楽理や歌詞の解釈で分析したがる。
でもバッハが天恵の響きを楽譜に写すその時,彼に何が起こっていたか正確に分かるのか?
「分かる」と言うなら,音楽には,彼が感じたそのまま,そのたった一つの解釈しかありえないことになってしまう。

それゆえ,芸術に接する私たちには,それをどのように解釈し,読み取り,理解し,そして自らの心の中で自分の印象を構築しようというエネルギーが湧きいずる。
その湧き出るエネルギーの量が多いか少ないかが,作品の質,重み,深みにつながるのではないかとも思う。

作曲家は自らの思い,願い,観念といったものを,空気の振動に託す。
私たち聴取者は,実態のない空気の振動から,「仮象」として込められた作曲家の思い,願い,観念といったものを聴き取る。

絵画の場合は,描かれた色彩と形体が媒体となって,実際の命ある景色を,命のない世界に「仮象」として鮮やかに生き生きと映し出すのと同様に,音楽も,そこに命のない空気の振動に,作曲家の思い,願い,観念を「仮象」として映し出す。

音楽家とは,単なる空気の振動といった現象・仮象の中に,生き生きとした生命の律動を吹き込むことのできる魔法使いのような存在。

空気の振動。色彩や形態の配置。文字の羅列。そこに様々な「想像力」を働かせ,作者の創造物である作品を,自分で理想の作品として「再創造」することで,自分なりの価値を持つ芸術として認識すること。
この過程において,単なる物理現象や「モノ」は,まず意味ある作品となり,そして次に,それぞれの鑑賞者にとって自分なりの意味と価値を持つ芸術として認識されるに至るのではないか。

音楽には何通りもの聴き方がある。そのうちの一つだけが重要なのではないのだ。
その多義性こそが,芸術と言語との相違であり,芸術が芸術であることのゆえんなのだ。

「芸術とは,われわれに真理を悟らせてくれる,嘘である。」〜ピカソ
「芸術上の現実性とは非現実のことであり、言葉では補えない多層な表出性をもつべきものだ。」〜武満徹

空気の振動。色彩や形態の配置。文字の羅列。
それら,はかない「仮象」が持つ,そっとささやくような「内心の声」に耳を傾け,そして鑑賞者自らが想像力を働かせ,自らの手で作品を再創造することで,無生物である現象や「モノ」に,生き生きとした息吹と「実体」を与えること。

特定の事物や心情を明確に言い表し,表現し得ない分,感性が感性を呼び,私たち鑑賞者が想像力を発揮し,私たちの手で心で,自分なりの理想の作品を完成せしめる。
「想像」が新たな「創造」を呼び起こし,「感性」もまた新たな「完成」を育む。

音楽学者の野村良雄は,著書「音楽美学」の中でこう語っている。
「音楽は完全に抽象的でありながら極めて主情的でもある。特定のものや外界のものを表す力は無いが,内面や感情を表現する独特の力がある。

音楽は一種の言語とも考えられる。それは語られる言葉よりもいっそう普遍的・抽象的あるいは直接的・芸術的なものであろう。こういう言葉の助けをかりて人は概念的言語が語り得ず、表出するのである。また他の人々によっては音楽の与える印象が強調される。ここでも音響は何かを意味するものであり、直接的に働きかけるものなのである。音楽は霊感も愛も情緒もなしに機械的に作られ得るが、そういう音楽でも聴く人に感情の世界を喚起する力をもっているのである。
いずれにしても音楽はたんに外的、形式的なものではなく、何か内在的なものを担っているものであろう。
音楽が感情を表出しあるいは強く感情的に作用することについても、いろいろな異論はあるにしても、事実として認められる。音楽の本質が結局何か「言いあらわし得ないもの」であるとされるのは当然である。」

私が音楽を聴く理由をこの引用に見いだすことができる。
では,私が絵画を見る理由とは何か?

昭和天皇の侍従長を務めた入江相政は,すぐれたエッセイストでもあった。
東山魁夷の壁画作品が皇居に設置されたことがきっかけで,東山魁夷と交流のあった彼は,代表作「道」について,このような素晴らしい文章で,絵画の作者と,そして作品を目にする私たちの関係を,見事に表現している。
この文章に触れたおかげで,私は,私が絵画を見る理由がどのようなものであるかを明確に把握することができた。

「『この作品の象徴する世界は,私にとって遍歴の果てでもあり,また新しく始まる道でもあります。それは絶望と希望の織り交ぜられたものでありました』作者はかつて,この絵について,こう解説したそうである。

あらゆるところをさまよい歩き,なやみになやみ,苦しみに苦しんで,絶望の果てに,ほのかな望みを見いだして,やっとのことでたどり着いたのが,この道なのだろう。
そのことは,この絵を見る者の心にも,じかに伝わってくる。作者の苦しみと,そしてまた,やっと安堵したような,その間の心のゆとりが,そっくりそのまま,響いてくるのである。

苦しみを重ねた挙げ句の果てに,作者の心の中に,美しく開いた,作者の心と対自然との絡み合い,それが見る人に,強い力で迫ってくるからである。作者は,激しい悩みを,自然の姿を借りて表現する,それが実在の自然以上の魅力を発揮するのであろう。

作者はただひとり苦しみ,ただひとり悩んだ末に,やっとこの道にたどり着いた。これから先も,なお悩み続け,一方では時にほっと救われたような気持ちになりながら,この一筋の道を進んでいく。作者はひとりぼっちで歩いてくのだけれど,そのあとからは,数え切れないほど多くの人々が,救いをもとめてついて行く。

これが作者にとっては仕事であるし,それが我々にとっては喜びである。虫のいいような話だが,作者はこれからも,もっともっと苦しんでもらいたい。それによってわれわれを,より多く救ってもらいたいのである」
~入江相政「濠端随筆」

ただのありふれた光景,景色が,画家の目を通すと,こんなにも美しい色彩と深い情感に満ちた世界になる。
その深い情感を,画家は言葉ではなく絵画に描き,そして入江は絵画から文章として表現した。

もちろん東山魁夷が目にし描いた風景そのもの,すなわち入江が言う「実在の自然」は,何も語ることがない。
迷いも苦悩も,決して語ることはない。
絵は決して言語に翻訳できない。
画家が描いた風景画は,この世には決して存在しない世界の風景なのだ。

「芸術にはこのような現実脱却を準備させる手段が存在する。
三次元の世界である現実の自然景は絵画で二次元のカンヴァスに画かれる。生きた人体は、単色の、固い石を通じて刻み出される。現実の事件はフィクションとして小説に書かれる。音楽に用いられる楽音は現実界の音とは異なっている。演劇は現実の場ではなく舞台で、登場人物その人ではなく役者によって演じられる。映画はスクリーンの上に光と影によって展開される。そのほかさまざまの手段によって、芸術が現実の地盤にないことが明らかにされる。

芸術家は鑑賞者をまず第一に、現実の地盤から引き離してしまわければならない。」
〜渡辺護「芸術学」

私は作品を前に、画家が目にしたありふれた景色の先にある,その先の画家が心に描いた世界,現実界とは全く別にパラレルワールドのように存在する世界への扉の入り口に、立ちすくんでいる。
扉の先の世界には,ありふれた光景は決して語ることのない,作者が作品に渾身の力を込めて描いた苦悩と安堵がある。

そして,その扉を少しでも開けることができ,中を覗き見できるくらいの人物でありたいと思った。

天照大神が固く閉ざした天岩戸の扉を開いたのは,歌舞音曲の力,すなわち芸術の持つ不思議な力だったのだ。

私が音楽を聴く理由,そして絵画を見る理由とは,
現実に存在する音,あるいは物質としての作品を媒介,結界のようにして
そこから先の,憂さと困難に満ちた現実界とは全く別にパラレルワールドのように存在する世界へ,一時でも足を踏み入れたい,願わくばそちらの世界に取り込まれたい,
そんな希望とも諦念ともつかぬ思いから出づるものなのだろう。

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