少し前に読んだ内田樹著『生きづらさについて考える』だったと思う。
そこに
「地獄の釜の蓋がひらくときを二度体験した」
という文章があり、妙に印象に残っていた。たしか1960年代に戦争の危機を感じたときの話だと思う。
本を出して、ぱらりらとめくってみたら、冒頭の方にあった。やっぱりそうだ。
ただ俺がその文章を思い出したのは、戦争を感じたからではない。
自分の仕事の中でだ。
若手のシャインさんが、病気で離脱した。
はじめのうち、気づかいながら支え合っていたシャインさんたちだが、負担が重くなってくるにつれて、
これ以上、仕事は増やせません
今、たいへんなんです
自分のプライベートの方だって、大きなイベントを控えているんです
どんな対応してくれるんですか
それ、私がかぶるんですか
さまざまな思いが抑えきれず、こぼれてくる。
先日の台風で、俺が住んでいる地域には大きな影響はなかったものの、年に一度の大きなイベントが流れた。
通常、予備日を翌日に設けているものの、二日とも流れたというのはうちのカイシャ過去50年の歴史で一度しかなかったという。
イベント当日、曇り空のもと、人が集まった直後の土砂降り。
どうすんですか?
シャイン、オキャクサンすべての視線が突き刺さってくる気がしたものだ。錯覚だとはわかっているけど(苦笑)。
ふだん気分良く動いているものが、ちょっとしたひずみやイレギュラーな事態によって、きしんでくる。気づかなかった小さな負担や軋轢がもたげてくる。
地獄の釜の蓋が開いた。
まさにそんな風に感じる今日この頃だねぇ(苦笑)。
「そんな風に言っちゃうと、人の心に地獄があるなんて言ってるみたいだけどね(苦笑)」
なんてカイシャの門の前に立ちながら、警備のコードネーム=コッペサンに笑っていうと、彼は苦笑しつつ、
「いやぁ、あながち間違ってはいないと思いますよ」
と言っていた。
とはいえ、問題は少しずつ解いていかなければいけない。間違いたくはないが、そもそも答えを書かなければ、答案用紙は出せないのだ。
これも同じ本に出ていた話だけど、受験エリートは誤答を出すことを嫌う。だから、問題解決に必要な情報や環境、資源がないときはフリーズしてしまう。
国を動かすようなエリートの世界なら答えを書かなくとも、まわりが停まってくれるのかもしれない。でも、現実の日常世界では、間違おうが、不備があろうが、常に答えを書き続けなければならないのだ。
昨日一日で、三つか四つくらい、解答欄を埋めたと思う。〇がつくか、△か、はたまた×なのかはわからない。〇になるよう、修正しつつ、事態を見て行こう。
よかった、俺、受験エリートじゃなくて(苦笑)。
こんなこと書いて見返しながら、ふと思った。本当に被災した人は、物理的に困難な状況に置かれているのだ。まだ日常が続いていることに感謝し、できることを考えたいね。
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