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2014年08月09日14:34

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感性と感情

限界を超えるストレスを受けて、本能が壊れてしまった人を、分裂病患者と言う。

分裂病のフィルター理論と言って、本能が壊れていることはフィルターが破れていると表現されるのだけど、フィルターが破れていない健常者は、外界からの刺激をカットできるから必要なものだけを見るという「選択的不注意」が可能であるのに対して、分裂病患者は必要以上のものを見てしまうために、分裂病患者の思考は健常者からは妄想とされてしまうのだ。

理性をかなぐり捨てて感情を噴出させることを発狂と表現するけど、ちょうど睡眠中に理性という重りによる足かせが外れて想像力の大胆な飛躍が可能になって夢を見ているような状態のままで、目が覚めている、狂人のことを、分裂病患者と言う。

健常者が目が覚めてから夢の中で見ていた世界を思い出そうとしてもそれが理性的な吟味のもとでは成り立たない不可思議な世界だったために思い出せないというのと同じ事情で、健常者が見ていない必要以上のものを見ている分裂病患者は見ているままを理性的な考えのレベルに翻訳するということが原理的にできないために、分裂病患者の言葉は支離滅裂に聞こえる。

というのは、本能というコスモスが壊れればそこから感情というカオスが溢れ出すのだけど、感情は理性を狂わせるもので、ヒステリーを起こしている人の話が滅茶苦茶になることから分かるように、感情は理性にとっては撹乱要因であるからだ。

本能が壊れれば、それは理性と感情に分裂するので、分裂病と呼ばれるわけだけど、人間以外の動物は本能が壊れていないので、理性を狂わせる感情はない。

たとえば、単細胞生物アメーバは、餌に出会えば触手を伸ばしてこれを捉え、毒に出会えば痛がって逃げる。

そこに、生存にとって有益なものに快感を、有害なものに不快感を、感じる感性がある、と同時に、餌か毒かを知り分ける知性がある、というふうに、感じるままが知ることになるという、感性と知性の不可分一体をなすところを指して、本能と言う。

だから、本能が壊れていないアメーバは、感じるままに行動していれば環境適応できる。

それに対して、分裂病患者は本能が壊れているので、感情の赴くままに動いていては生きていくことができない。

心は知情意の三領域に分けられるけど、分裂病患者においては、知性から分裂した感性が感情として独り歩きするから、知が情に打ち克とうとする意志として発動する、というふうに、理知的な考えによって、壊れた本能をそのつど修繕するという作業を繰り返さざるをえない。

「狂人だけが頭で考える」と言われるように、分裂病患者においては、考えるという知的な営みによって打ち克たれた感情が感性に戻って初めて、健常者においてはもともと天衣無縫だった、知性と感性が、縫い合わせられて、適応的行動が学習されたことになる。

ただし、知による情に対するもぐら叩きは、いたちごっこになるので、根本的治療は長期戦になる、ということを覚悟しなければならない。

そして、火の元に向けてでなく火の粉に向けて放水しても火事は消えないように、根本的治療は、なぜ分裂病を発病したかという原因論に基づかねばならない。

一般に、虐待されながら育ったために精神を病むことになった人は、他者が内面化されて自分をいじめる癖が付いてしまっているものだけど、分裂病患者も、一つの自己が「嫌悪する自己」(=理性)と「嫌悪される自己」(=感情)という二つへと分裂している、というふうに、自己嫌悪の構造を患っていて、健常者であれば一番可愛い筈の自分が、嫌悪の対象になってしまっている。

たとえば、分裂病の症状である「独り笑い」は、苦しんでいる自分を見ていい気味だとあざ笑う、ということだから、その笑い方は、自分を高みから見下ろしたような嘲笑という様相を呈する。

もう一人の自分に嘲笑されて萎縮してしまっている本来の自分の伸びやかさを取り戻すことが治療の目的になってくる。

したがって、いじめる自分といじめられる自分という「引き裂かれた自己」の修復は、「自体愛」の回復としてなされることになる。

「くれぐれもご自愛下さい」が分裂病患者に対する合言葉になる。

限度を超えるストレスに耐えられずに心が壊れたのだから、どんなに時間が掛かっても、できるだけストレスの少ない環境で過ごして自然治癒を待つ以外に根本的治療はない、というのが結論だ。
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