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2009年03月04日01:41

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偽善と露悪

漱石の『三四郎』に出てくる広田先生曰く、

自分たちの時代は皆「偽善者」であったが、最近の若者は「露悪家」が多い。

昔の人たちは何をやるにしても親とか家族とか社会のためというお題目を立てざるを得なかった。

でも、他人のためのようなフリをして実は自分のためにやっているのだから、「偽善者」。

最近の人は、そんな偽善に反発するのだが、今度は自意識過剰に陥って何をやるにも自分を基準にする。

いろいろお題目はつけるけど世の中みーんな自分の事しか考えてないじゃないか、だから俺もそうして何が悪い、というのが「露悪家」。

広田先生は、正直な露悪家の方が嫌みがなくてよいというのだが、でも「露悪家」が増えすぎるとお互い不便を感じてきて、また利他主義が伸びてくるそうだ。

そうやって偽善家と露悪家が交互に現れる事により社会というのは進歩する、というのが広田先生の説。

以前、障害者に関する日記でも紹介したけど、マイミクさんの日記によると、ミクシィ内で理論武装した差別発言(!)を売り物にしている人は他にもたくさんいるらしい。

世の中の同情を買うような人たちを「役立たず」とか「無用」と断じて、それに反論する人たちを「偽善者」として叩くらしい。

社会的弱者を守る(フリをする)「偽善者」を告発する「露悪家」かと思うのだけど、そうでもない。

彼らの主張を聞いていると、実は自分のためではなくて社会の利益を代弁している節もある。

障害者とか失業者とかいう人たちは社会に何も貢献せずに負担を強いる存在だから許せない、という彼らは社会正義の理想を高く掲げる十字軍でもある。

しかも、彼らにとって「社会のため」と「自分のため」はいとも簡単に両立してしまう。

社会に「無駄な負担」をかける輩を排除すれば、それだけ一人一人の負担も減り、取り分も増える。「社会の利益」は「俺の利益」ということになる。

でも、本気で「ただ乗り」を排除して社会の「無駄」を減らしたいのであれば、もっと他にも矛先を向けるところがありそうだ。

例えば、あまり利用されない橋や道路や空港を作り続ける公共事業、いてもいなくても同じなような公務員、官僚の天下りのためにある財団法人、ろくな仕事もできないのに権力にしがみつく政治家、貴重な資源をつまらない用途に使ってしまう企業と消費者...。

彼らの「理論武装」というのは、政治によって資産分配を行う強力なリベラル国家に対抗する保守思想が元になっているようだ。

でも、強大な国家が個人の自由を侵害することを懸念する保守主義者と違って、彼らは「国家」や「社会」の利益を代弁する形で、自分より「弱い」立場の人たちにその批判の矛先を向ける。

もちろん、保守思想というのは福祉制度も批判の対象にするけど、広範な社会安全網の構築とかならともかく、「障害者」に国を食いつぶされるなんて本気で心配している保守主義者はあまりいないような気がする。

彼らの理屈自体は社会の価値観や倫理の矛盾を突いたものだとは思うけど、もし本当に「ただ乗り」を許さないという社会正義の観点から声を上げているんだったら、もっと大事な問題にも目を向けているはずだ。

前の日記でもマイミクさんがコメントで鋭く指摘していたけど、それを意識しているか否かに関わらず、彼らの本当の目的は「社会」、「国家」、「日本」なんてものを守ることじゃなくて、「社会」の名を騙って自分の脆い自尊心を満たすことにあるのでは。

そもそも、彼らの主張の魅力というのは、多分、この中途半端さにある。

「強者」の論理を用いながら、それを恣意的に自分たちより「弱い」人たちにのみ適用することによって、自分の価値に不安を感じている人たちの共感を呼ぶのだ。

それが、「偽善者」を叩く「露悪家」たちの議論の背後に私が感じる「偽善」。
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