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2008年04月13日13:25

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政治と道徳

靖国神社「映像」の削除求める
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=459289&media_id=2

ここ数日、この映画の件について自分の日記上や人様のページを借りて何人かの方と議論をしてきた(いつも厳しく鋭いコメントを下さる方々、ありがとうございます)。

私自身は、『YASUKUNI』に対する圧力に「表現の自由」の侵害の可能性を見いだし民主主義への悪影響を懸念しているのであるが、それに同意しない人たちも沢山いる。

実は、私は普段は「権利」とか「自由」とかをやたら振り回すリベラルな思想をナイーブ、傲慢、時々は露骨な自文化中心主義だと感じる方であるが、上映を擁護する過程で、こうしたリベラル的価値に頼らざるをえないというちょっと居心地の悪いことになった。

そんなことになったのは理由がある。映画に批判的な人たちの少なからぬ部分が「表現の自由」自体を否定するのではなく、この映画の上映によって危害を被る人たちの「自由」とか「権利」を守るために、まずは上映ありきという見方を批判しているのである。ある意味、核心の部分の価値観については合意があって、その解釈を巡っての対立であるとも言える。

普段は「自由」や「権利」という概念の濫用に眉をひそめる人々が、結局こうした概念を用いて議論を行うことになってしまうのは深い意味があると思う。この「自由」とか「権利」というのは、好き嫌いに関わらず我々の自己と他者との関係を律するために欠かせない要素となっているということだと思う。

別に「自由」や「権利」が「人権」といった時代や場所を越えた普遍的な価値を持つものであると言いたい訳ではない。でも、民主国家に生まれ育った我々は、それを意識するしないに関わらず、自分や他人に同じような自由や権利があるという前提で世界を理解し行動している。

最近、授業で米国人のリベラル法学者・思想家Ronald Dworkinの本を読まされた。彼の懸念は、今日の米国で対話が全く成立しない2つの世界観のようなものが衝突しているという見方が広まっていることだ。

この2つの世界観というのは保守ーリベラルなわけで、日本の保守ー革新とか右派ー左派と完全に一致するわけではないが、リベラルはより普遍的な理想に共感するコスモポリタン、保守は宗教とかネーションとかもうちょっと個別の文化を重視する人たち、という点では似ている。

Dworkinの議論は、米国人の大半は抽象的なレベルでは「平等」とか「自由」という価値・原則に同意しており、後はその価値・原則の個別の争点に対する適用の解釈を巡る問題であるというものだ。資本主義対共産主義のような対話不能の2つの異なる世界観の衝突ではないということだ。

平等原則というのは、人間の一人ひとりの生命/人生に固有の価値があり、自分自身の価値を否定することなしに他人の価値を踏みにじることはできない、というものだ。

自由原則というのは、それぞれの人生プランの設計においてはその人自身が責任をもつべきである、というものである。

こんな抽象的なレベルで、米国人でなくてもこの2つの原則に真っ向から異論を唱えるのは容易ではない。「俺の命はお前の命より大事だ」と真顔で言える人はあまりいない。「お前はバカで自分にいいことと悪いことの区別さえつかないから、俺がお前の人生を決めてやるよ」というのもまたしかりである。

しかも、Dworkinはこうした道徳原則をひとたび受け入れれば、個別の問題についても対話が可能であるだけではなく、「正しい」答えを見いだすことができると考える。

でも、Dworkinがこれらの原則を用いて導きだす答えは結局「リベラル」なものばかりで、我田引水の感が否めない。結局自分の都合のいいように原則を作り上げ、自分のイデオロギー上の立場を擁護するのに使っているだけではと疑ってしまう。

個別の文脈において対立している人たちは、より抽象的な道徳原則に遡ることにより相違を乗り越えられるというのは、文化とかイデオロギーの対立が激化しているようにみえる今の日本みたいな社会にとっても魅力的である。映画『YASUKUNI』の上映問題も、何らかの抽象的な原則に遡って解決が可能であると考えられなくもない。

でも、下手な道徳論に訴えると、かえって対話が難しくなるという恐れもある。道徳というのは曖昧さを認めない。あるのは道徳的か非道徳的か、正義か悪、正しいか間違っているかの二項対立である。あらかじめ与えられた原則から外れた意見を誤りとか悪として閉め出すだけでは、政治的な合意は得られないような気がする。

「自由」とか「平等」といった価値が我々の自己理解の一部であるとしても、それだけが我々の全てではない。「勇気」、「徳」、「連帯」、「愛国心」、「やさしさ」とかいろいろな価値を我々は同時に求めている。

これを、単に「自由」及び「平等」原則の踏み絵をさせることによって善悪に分類してしまうと、自由や平等を相対的に認める人たちをよりラディカルな立場に追いやってしまうことになるのかもしれない。

例えば、中国嫌いの人たちはよく「中国人はダメだ」という言い方で、特定のグループの人たちを十把一絡げに差別する発言をする。これに「平等」原則を単純に適用すると、こうした人たちに「私が間違っていました。すみません」か「そうだよ。日本人の命は中国人の命より大事なんだよ」という2つの両極端の選択肢に追い込むことになる。

でも、こうした中国に批判的なの人たち多くは、一般論として「中国人ひとりの命と日本人ひとりの命を比べたら、後者の方が重い」と言いたい訳ではないのだ。

下手な道徳論というのは、異なる世界観の間に共通の基盤を作り出すというより、そういった世界観の間の亀裂を作り出しより深いものにしてしまう。

正誤、善悪といった簡単な二項対立では切れない複雑な世界で、対立をなんとか乗り越えていくための領域として政治がある。政治が生み出す結果は必ずしも善でも正義でもない。だけど、答えがはっきりしない問題に、多様な価値観を持つ人たちが互いに納得できる落としどころを見つけるかというのが「政治」なのだと思う。

ニュースからは話題がそれてしまったけど、『YASUKUNI』に好意的な人も批判的な人も、下手にそれぞれが解釈する「自由」とか「権利」を振りかざして溝をいたずらに拡げるのではなく、多様な価値を認める人々からなる「日本」という政治共同体の一員として溝を埋める努力をしていこう。
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