「人は、他者に対して、自分のシャドーを映し出す」といった意見があるだろうが、私もそれに対しては同意する。
以前、藤巻亮太氏にイライラしていたのは、とどのつまり、それこそ彼に私の「シャドー」を投影していたからであった。
以前、前田啓介氏のインタビュー記事で、次のようなものがあった。
「ベースを弾こうと思えばいつでも弾けるだろうけど…それが本当に、(あなたの)やりたいことなんですか?って聞かれたら、俺はそうとは答えられない。」
「治(ドラマー)には、治としての何かが、そして、亮太くん(ギター&ボーカル)には、ソロとしての何かが絶対にあるはずだから」と。
ソロとしての何かが、絶対にあるはずだからって?
換言すれば、「絶対に備わっていなければならない」ものが、「ソロの藤巻亮太氏」からは、感じられないっていう風にも、私には聞こえたのである。
ソロとして、何かがあるのかもしれない。ただし、俺はそれに関してタッチしたいけどね、勝手にやってれば、って、まるで突き放したような物言いに受け取れた。
ただ、やはりかつては、藤巻氏とバチバチに衝突していただけあって、やはりドラムより、ズバズバはっきり物を言う。しかしそれ故に、レミオロメン時代の楽曲は、今のそれよりも、遥かにブラシアップされていたように感じたのである。
藤巻亮太氏、あの惨めすぎる楽曲を、「建前の笑顔の奥で冷めてる自分が嫌さ」って、収録曲の「裸のoh summer(裸の王様)」の歌詞のような行動を、地で行くような手合いである。
そして藤巻亮太氏に限らず、「思ってもいないこと」を修正せずに自己肯定し続けるとき、いつか「誰にも必要とされていない」と悟り、精神崩壊するのではないか、とさえ思えた。
自己愛人間が、ターゲットがいなくなれば、早晩「孤立」か「報復」の2択しか道が残されていない。その続く道の行き先は、地獄でしかないだろう。
彼は、今までのリスナーを、図らずとも己の「インチキ自己肯定」のターゲットにしているような気がしてならなかった。そりゃ、訴求力もないし、リスナーも離れるわ。ガムシャラで余裕がないから離れるのではなく、「共に自分(リスナー)と共に戦ってくれない」と悟られた時に…続きは言うまでもない。
マウントフジマキも開催予定だろうが、私には同窓会というか、学芸会、お遊戯会であり、ひたすら閉じコンであり、オワコンであるように感じた。
なぜなら、リスナーや社会と繋がらないからだ。そして、これだけ私が叩くのも、「私のシャドー」とサヨナラしたかったからだろう。
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