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2021年11月01日15:24

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言葉の現在

ソシュールの言語論は「言語には差異しかない」というフレーズで言い表されている。

Aには非Aとの差異しかないから、Aという言葉は非Aでないという否定による限定としてしか定義されず、では非Aとは何かと言えば、Aでないという否定による限定としてしか定義されない、というふうに、言葉の定義は循環論法でしかありえない、というのが、ソシュールの言語論だ。

辞項は他の辞項との差異によって初めて意味を持つとする、このような言語観の正しさを裏付けるものとして、赤子の言語の初期汎化というものがある。

汎化とは般化とも書き換えられるもので、一般化のことだ。

赤子は、オモチャの自動車をブーブーと呼ぶことを覚えると、まず汽車をも、ついで飛行機をも、しかるのち動くものをなんでも、ブーブーと呼ぶようになる。

このような、語の適用範囲を般化拡大していく過程に、ストップを掛けるのが、汽車をポッポーと呼んで自動車と区別して、飛行機をブンブンと呼んで自動車と区別して、否定による限定として、範囲内と範囲外を分ける線引きだ。

言語は、言語外現実を再現するものではなく、世界に分割線を引いて、世界全体に内部分節構造を持たせるもので、世界の分節の仕方に現実的根拠はないのである。

このことを、ソシュールは「言語の恣意性」と呼ぶ。

人間は世界を言葉で呼び分けて分節化して、言葉によって言い表されたものが言い表された通りに存在するかのように、錯覚するのだけど、エスキモーは雪を何通りにも区別する、というふうに、仏教用語で言えば「妄想分別」しているだけなのである。

たとえば、この人間でもなく、その人間でもなく、あの人間でもなく、どの具体的な人間でもない、人間一般という抽象概念をこしらえることによる、抽象的思考の本質は、個物の個性の無限の多様性を捨象して画一化して捉える暴力にこそある。

このような、暴力を、アドルノは「同一化思考」と言っている。

差異化に基づく同一化によって語り落されたものを拾い上げて語る、別様な同一化の仕方も可能であることについて、「認識という語がともかくも意味を持つ限り、世界は別様にも解釈され得る。それは己の背後に一つの意味を持っているのでなく、無数の意味を持っているのだ。」とニーチェは言っている。

つまり、例外のない規則はない、と言われるように、複雑で多様な現実を単純な一法則によって説明しようとする、科学の法則的世界観では、説明できないものがある、ということで、この法則によって説明できない例外はその法則によって説明されなければならず、その法則によって説明できない例外はあの法則によって説明されなければならず、以下同文である、というふうだ。

三次元の空間をトランポリンのように水平に張られた二次元のゴム膜面に喩えて、物質という重りがその上に乗ることによって膜面を下方向に膨らませて出来る斜面を周囲の物質が転がり落ちることとして、重力現象という落下現象を説明する、アインシュタインの相対性理論のアインシュタイン方程式は「物質の密度=空間の膨らみ具合」という等式なのだけど、この等式こそ、科学という一般論では説明できない例外の存在を、物語っているのである。

それは以下の通りである。

物質密度無限大の大きさが無い一点からのビッグバンによって始まった、我々の住む膨張宇宙は、今後も密度を薄めながら膨張拡大し続けて、重さのある物質が重さのない光を放出し切って密度ゼロになって、この世には光しかなくなった暁には、宇宙は一点に縮んで無に帰している、というふうに、宇宙の終わりが宇宙の始まりであるとするのが、ペンローズのサイクリック宇宙論なのだけど、素粒子という大きさが無い点粒子に重さが有ることによる、物質密度無限大は、宇宙という大きさのある空間の膨らみだから、我々の住む宇宙は超宇宙を合成する素粒子の一つであり、素粒子一個一個が宇宙一個一個である、とする無限後退説が、アインシュタイン方程式からは導かれることになるわけだ。

このような、素粒子一個一個に内包される宇宙の個性の無限の多様性は、素粒子についての一般法則によって語り落されるものを拾い上げて語る、別様な法則が、必要であることを、素粒子論の限界を、物語っている。

思考はエンドレスで、個物の個性の無限の多様性についての統一理論を有限時間内に完成させることはできない、ということは、そういうことである。

ライプニッツは「理論は説明対象のデータよりも単純でなければならず、さもなければ何も説明したことにならない。」と述べた。

複雑な現実を単純化して捉えることによって現実を語り落としたくなければ、現実とデータサイズが同サイズであるような、現実の忠実な複製にすぎないものを、作成するしかなくなって、何も説明したことにならない、ということだ。

素粒子論は、世界についての如何様にも語り得るうちの一つの語り方にすぎないのである。

かくて、多様で複雑な現実を単純な一法則で捉えることの限界は、素粒子という言葉で一括りにするという概念による概括が現実に対応しない妄想分別である限りにおける素粒子論の統一理論としての不可能性は、示された。

たとえば、幽体離脱のような心霊現象や、ポルターガイスト現象のような超常現象が、物理現象としては説明できない例外であることは、素粒子という物質の構成要素の最小単位からすべてを説明しようとする物理学帝国主義の限界を、示している。
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