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2020年08月01日19:10

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分断された現代世界を生きるということ

音楽評論家にして作曲家の顔も持つ哲学者のアドルノは,「アウシュヴィッツ以降,詩を書くことは野蛮である」と語った(「文化批判と社会」)。

その意図することは,簡単に言うと「人類とは,アウシュヴィッツでの凄惨な殺戮を犯すまでに極悪非道な存在なのである。私たち人類は,実際にそのような殺戮を犯してしまったのだ。しかしその事実に目を背け,アウシュヴィッツでの出来事をまるで他人ごとのように見て見ないふりをし,安全な場所に身を置いて,のうのうと詩をうたう。その無神経さ,鈍感さたるや,もはや暴力的までに野蛮なことなのだ」ということであろう。

そのアドルノは,激辛音楽評論家の顔にたがわず,ジャズやポピュラー音楽を,商業主義に歪められた堕落した音楽として,「(ジャズは)個人個人の意識を表の大衆的自己催眠状態に陥らせて、画一的規則性を強調する。個人の意思は隷属させられ、参加している個人個人はお互いに同等であるばかりでなく、実質的に区別不可能になる」(「音楽社会学序説」)と言った調子で,幾度となく非難している。

そのアドルノが高く評したのが,彼の作曲の師でもあったベルクのオペラ「ヴォツェック」であった。

ベルクは,その師シェーンベルクや,兄弟子のウェーベルンとともに,現代音楽の扉を開いたとされる十二音技法,無調音楽を開拓した「新ウィーン楽派」の作曲家である。
しかし,ベルクの作風は,シェーンベルクやウェーベルンとは一風異なり,無味乾燥な訳の分からん現代音楽というよりは,無調音楽に調性音楽のドラマチックな要素も巧みに織り込み,無調ならではの乾いた濃密なロマンティシズムと,ざらついた触感の濃厚接触,そんな妖しい魅力をはらんでいる。

実際,ベルクという人自体,若い女中とできてしまって子供をもうけたり,自殺未遂を起こしたり,作曲家として名をあげてからも女性とダブル不倫を起こしたり,その不倫相手への愛の告白を暗号化して自作の曲「抒情組曲」に織り込んだり,と,なかなかのトホホぶりであった。

そんなベルクによるオペラ「ヴォツェック」もまた,なかなかのトホホぶり。
およそオペラから連想されるような,「ドラマチックな歌と踊りの一大エンターテインメント」とはまるでかけ離れた,まあ見終わった,聞き終わった後で好印象は絶対に持たれないだろうってな作品である。

ごく簡単にまとめると,精神を病んだ下級兵士ヴォツェックが,その情婦と兵隊仲間の浮気で嫉妬に身もだえし,情婦を殺して遺体を湖に放り込む。湖のほとりで,何も知らない情婦との間にできた子が遊んでいる。その子のそばで,近所の悪童どもが「おまえの母ちゃん死んだぞ」とはやしたてる,ってなもの。

そんな後味悪いオペラの中にも,情婦が我が子に注ぐ愛や,不義密通を神に許しを乞う場面などで,ベルクならではの濃密で美しい音楽が,妖しく響く。

同じベルクのもう一作の未完のオペラ「ルル」もまた,魔性の女主人公ルルに振り回されるトホホな男たち(しかも親子2代にわたって振り回される)の,お先真っ暗なトホホな物語である。
未完に終わったのもまた,そのトホホさぶりを更に強調する(^^;)

個人的には,「薬で一発キメた薬物中毒のストーカーのミュージシャンが女性を殺し,自らも断頭台で死刑になる」ベルリオーズの「幻想交響曲」,「怪しい中国人が売春宿でコールガールにしがみついて,ポン引きの男どもが離そうとしても離れない。仕方がないので殺したところ,中国人は青白く発光して空を飛び回る」バルトークの「中国の不思議な役人」とならんで,巨匠3Bによる不朽のゲロゲロ・グログロクラシック3大名曲,と呼んでいる(^^;)

ナチスは,アーリア人種の優位性を誇示し,ワーグナーの音楽をその象徴とする一方,メンデルスゾーンらユダヤ人作曲家の音楽を「有害または退廃的な頽廃音楽」として排斥したが,ユダヤ人ではないベルクの音楽もまた,この頽廃音楽に名指しされたものであった。

ジャズやポピュラーを激しく糾弾したアドルノは,この「ヴォツェック」を,劇と音楽は古典的な音楽形式によって細部まで緻密に構成されており、ワーグナーの楽劇以上に両者は不可分であるとし,「衝動がはっきり名ざしで音楽によって記録されている。ロマンチックな要素ではなく、まさに新しい音楽の表現主義的な位相を決定しているのだ」(「楽興の時」)と,高く評価している。

「アウシュヴィッツ以降,詩を語ることは野蛮である」と言い放ち,ジャズやポピュラー音楽を堕落した音楽だと痛烈に批判した哲学者のアドルノが高く評価したのが,まさに堕落した人間を描いたベルクのオペラ「ヴォツェック」であり,一方,堕落した音楽とさげすまされたそのポピュラー音楽が,高らかに愛と自由と平和を歌う。
たとえ,ビートルズの”All you need is Love”「愛こそはすべて」が,当時激化の一途をたどっていたベトナム戦争への強烈なアンチテーゼから生まれたものであったとしても。

私はそこに,分断,脱構築された現代社会の分裂の様相まさにそのものを感じる。

西洋絵画史や西洋音楽史は,キリスト教や西洋史の流れと分断させて考えることはできない。
イコンとしての聖母子像,聖人君子像が西洋絵画の中心にあり,また中世の時代,音楽も教会においてキリスト教の布教の手段として用いられた。

宗教改革後も,賛美歌は活版印刷と並んでプロテスタンティズムの周知に大きな役割を果たしたし,ルネサンス期以降の絵画もまた,聖人たちを、中世における天上人としての触れてはいけない存在から、現世人として描くように変化していった。

音楽も絵画も,その背景である歴史の流れと不可分一体のものとして構築され,歴史の流れの中で,その音楽や絵画がたどってきた出自,歴史,背景といったコンテクストと離れがたく,分かちがたく存在していたのだ。

しかし,21世紀の現代に生きる私たちは,まったく違った視点で自由に音楽を聴き,絵画を目にすることができる。

西洋クラシック音楽を聴くのに西洋人である必要はないし,バッハを聴くのにクリスチャンである必要もない。
ベートーヴェンを聴くのに人生の苦悩と闘争,勝利も関係ないし,マーラーを聴くのに哲学を語る必要も,訳の分からない罪悪感にさいなまれる必要もない。

プレイヤーをかければ,ネットを繋げば,そこに常に音楽はある。
その音楽や絵画がたどってきた出自,歴史,背景といったコンテクストに関わらず,アドルノが非難したジャズやポピュラーも,西洋文化の大伽藍のようなクラシック音楽も,色眼鏡を持たず,新鮮で自由な視点から自在に音楽を聴くことができる。

先入観や色眼鏡を持たない,と言うことは,例えばクラシックやモダンジャズは難解で格調高い音楽,ロックやポピュラーは一段低い娯楽音楽といった,ステレオタイプのジャンル分け,優劣付けを行うことなく「情報として等価に扱う」ことを意味する。

ネットによる音源と情報の配信,そしてグローバリゼーションが進展した現代に於いては,私は個人的にクラシック音楽に代表されるハイカルチャーもカウンターカルチャーも,ポピュラー音楽に代表されるサブカルも,それらのジャンルから脱構築されたもの,そのカテゴリーを失ったミクスチャー状態にあるものとしてとらえている。

音楽を例に取ればバッハ,ベートーヴェン以降,機能和声と平均律を前提とする,現在のほぼ全ての音楽は,ジャズもロックもポピュラーも,演歌も基本的に等価に扱われるということを意味する。

ポピュラーを聞くようにクラシックを聴くことができ,クラシックを聴く感覚でジャズを聴く,そしてそのジャズも現代音楽も紙一重,ということ。

それは,その音楽がたどってきた歴史という,かつては一心同体のものとして,離れがたく分かちがたく一体となっていた歴史的背景からの分断も意味する。

「宗教やイデオロギーの終焉。いや、もう少し正確に言うと、哲学も、歴史も、イデオロギーも、さらにはロマン派的芸術精神も、単に終焉し消滅したのじゃなくて、むしろきれいに解体:ディスインテグレートされて「パーツ」となり、テクノロジーや経済活動が必要とする時に利用できる『コンテンツ』に変容した、と言った方がいいでしょう。」
〜岡田暁生ほか編「文学・芸術は何のためにあるのか」より。

自由に芸術作品を享受することができる一方で,その作品がたどってきた歴史的背景からの分断。

古代エジプト文明の至宝は,今は大英博物館やルーブルのガラスケースの中で生きながらえ,ゴッホの「ひまわり」は,それが描かれた,ゴッホが芸術家の理想郷を夢見た南仏の農村ではなく,遠く離れた異国の地,都内の某大企業出資の美術館で目にすることができる。

私たちは,良くも悪くも,そんな分断され,脱構築された現代世界に生きている。
だからこそ,自分なりの価値観や尺度で,一度バラバラに分断されたものの意味を自分なりに再構築して見る,考える能力が,今こそ試されているのだと思う。

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