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2020年03月26日23:19

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ビザンティン神学―歴史的傾向と教理的主題 ジョン・メイエンドルフ 新教出版社 2009年4月

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p.100
ラテン的教理は、神を単独で哲学的に単一な本質と理解し、位格的な存在あるいはヒュポスタシス的な存在は、三つの位格の相互関連という概念に還元されている。もし、同一本質という思想が、父と子が共に聖霊の一つの起源であることを要請するとしたら、神の本質は、三つのヒュポスタシスとしての位格的な存在に必然的に先立っていることになる。しかし、フォティオスにとっては、「父が(御子と聖霊の)起源であるのは、本性によってではなく、神のヒュポスタシス的性格によってである」(16)。父と子に聖霊の発出を帰すことによって父と子のヒュポスタシス的性格を混同することは、三世紀の様態論の異端サベリウス主義に陥ること、あるいはむしろ、半サベリウス主義に陥ることである。なぜなら、サベリウスは三つの位格を一つの位格へと混同していたのが、ラテン人たちは父と子だけにこだわっていて、そのことで、聖霊を神格から全く除外する危険に陥っているからであった(17)。…
…すなわち、父、子、聖霊の位格の啓示を三一論の出発点であると考えるギリシャの位格的な概念と、神を単独の本質と考え位格の三位一体を内的な関係の枠組みの中でだけ理解できるとするラテン的、アウグスティヌス的な取り組み方である。
p.110
 エウアグリオスによれば、「精神」の真の本性は、神の中に固定されるべきものである。精神を神から引き離すものは何であれ悪である。だが堕落以来、人間の精神は自己愛に捉えられており、それは「思慮」を生み出す。エウアグリオスでは「思慮」は明確に軽蔑的な用語であって、感覚的な事物への関心と、神からの離脱を意味している。魂の感受的部分に働きかけて、思慮は魂を「情念」へと導くことがありうる。このような情念は、非常に明確な位格を形成し、人間の感覚的な必要すべての中で最も不可避的なものである食物へのそれとない執着に始まって、悪霊にとりつかれること、すなわち、自己愛にまで至る。この位階を構成する八つの段階は、貪食、淫蕩、金銭欲、悲嘆、怒り、嫌気、虚栄心、傲慢である(1)。わずかな変更を加えれば、情念のこの分類とその前提となっている人間精神の真理構造とは、ヨアンネンス・カッシアヌスも、ヨアンネス・クリマクスも、証聖者マクシモスもそうであるが、東方の禁欲的な著作家のほとんどすべてが、保持することになる。修道的「実践」の最初の目標は情念を抑制し、「情念なし」(アパテイア)の状態に到達することである。それは感覚と「思慮」からの離脱であって、精神と神との間の真の本来的関係の回復を可能にする。初歩的な修道的徳、すなわち、断食と独身生活に始まって、修道士の生活は徐々に他の情念を抑制し、真の解脱に到達することができるようになる。
 その時、祈りによって合一が可能となる。ビザンティンの静寂主義の中で標準的な用語になる「精神の祈り」という言葉を造ったのはエウアグリオスである。祈りは「精神の正しい活動」(2)であり、「不可能な状態」(3)であり、「可能な最高度の思惟作用」(4)である。この祈りの「状態」の中で、精神はあらゆる「多様性」から完全に解放される。それは、すべての感覚的感知に対して「聞くことができず、話すことができない」状態である(5)。
p.111
今やわれわれも知っているように、エウアグリオスによれば、祈りは、精神が神性との「本質的な合一」の中にあることも意味している。そこで、六世紀のエウアグリオス派の修道士は、自分たちは「キリストに等しい」と誇ることができたのである。しかし、祈りについてのエウアグリオスの教えは、ビザンティンの修道士の諸世代によってはるかに正統的な仕方で理解されることになるが、エウアグリオス的霊性のこの再解釈の誉れにふさわしいのは、かなりな程度、エジプトのマカリオスのものとされている諸文書である。

 エウアグリオスが人間を「知性」と同一視し、キリスト的霊性を非物質化と考えるのに対して、マカリオスは人間を「神化」へと定められている心身の全体と理解する。エウアグリオスのオリゲネス的・プラトン的人間論に対して、彼は、「精神」や「魂」が肉体からの分離にその最終的な運命を持っていると考えることができないようにさせる聖書的な人間観を対立させる。この人間観からは、キリストとの合一の道としての、また、身体を含むすべての側面における全人間的存在の「神化」の道としての、洗礼とユーカリストの現実性に基礎をもつ霊性が生じる。…
 マカリオスではこのように、エウアグリオスの「精神の祈り」が、「心の祈り」になる。人間の心身的な生命の中心である心は、「神の恵みが御霊の律法を刻印するテーブル」である(7)。しかし、それは、「悪の君主とその使いが逃れ場を見いだす」「墓」(8)となることもできる。このように、人間の心は、神とサタン、生命と死の戦場である。
p.123
パラマスにとっては、神の直接的な認識はキリストにおいてすべての受洗者に可能となっており、したがって、真の神学の現実的基礎であり規範である。しかし、バルラアムは間接的で創造された手段――啓示された聖書、被造物からの類推、例外的な啓示体験――を除いては、神の不可知性を力説した。実際にこの争点は、新神学者シメオンが、神の直接的な幻を否定した自分の修道院の特定の修道士と論じていた争点と根本的には違わなかった。論争の第二段階ではバルラアムは、ビザンティンの静寂主義者たちが実践していた祈りの心身的な手法をメッサリア的身体主義であると攻撃した。
p.124
 一、神認識は、洗礼によって、またユーカリストにおけるキリストの体の生命に継続的にあずかることによって、すべてのキリスト者に与えられる体験である。それは、神と隣人への愛を通して、人間全体が祈りと奉仕に関わることを要求する。その時に、それは精神の「知的」体験としてだけでなく、純粋に「知的」でも純粋に身体的でもない近くを伝える「霊的感覚」としても、認識されるようになる。キリストにおいて神は魂と肉体という人間全体を担ったのであって、そのような者としての人間が神化されたのである。祈りにおいて――例えば、この「手法」において――サクラメントにおいて、共同体としての教会の生命全体において――例えば、この「手法」において――サクラメントにおいて、共同体としての教会の生命全体において、人間は神的な生命への「参与」へと召されている。この参与はまた、真の神認識でもある。
 二、神はその本質においては、この生涯の中でも将来の生命の中でも、完全に到達不可能である。なぜなら、三つの神的なヒュポスタシスだけが「本質による神」だからである。
p.125
「神化」において人間は「恵みによって」あるいは「活動によって」だけ、神となることができる。神の本質の到達不可能性は、エウノミオスに反対し、別な文脈であったがオリゲネスに反対して、カパドキア教父たちが明らかにした基本的な主張の一つであった。神の絶対的超越性を主張することは、神は「無から」の創造者であると語る別な手段に過ぎない。神の外側に存在するものは何であれ、神の「意志」あるいは「活動」によってだけ存在し、神の意志と「恵み」の結果としてだけ神の生命に参与することができる。
 三、神の到達不可能性をパラマスが全力で断定することと、人間存在の本来の目的・目標として神化と神の生命への参与を同じように強力に断定することは、神の「本質」と「活動」をパラマスが区別することにも完全な現実性を与える。パラマスはその区別を哲学的に正当化しようとはしない。彼の神は生ける神であり、超越的でもあり、また自ら進んで内在的でもあって、あらかじめ想定された哲学的カテゴリーには入って行かない。しかし、パラマスは自分の教えが、キリストは二つの本性あるいは「本質」を持ち、また二つの本性的意志あるいは「活動」を持っているという第七回公会議の決定の発展であると考える(27)。なぜなら、キリストの人間性そのものはロゴスの中に内ヒュポスタシス化され、そのことによって真に神の人間性となって、「本性による神」にはならなかったからである。それは――「属性の交流」によって――神的な活動に浸透され、そのことによって、われわれ自身の人間性は神の活動において神への道を発見するのである。したがって、活動は神的な発出であるとか、減少した神と見られることは決してない。それらは、被造物に神が与える神的な生命である。それらはまた、神である。なぜなら、神の子において、神はわれわれの救いのために真に神自身を与えたからである。
p.143
ビザンティンの教会法集成の権威ある一部となった著名な『アンフィロキオス宛書簡』の中で、カイサリアのバシレイオスは、異端者による洗礼を無効とするキュプリアヌスの原理を再確認した後で、次のように続ける。「しかし、もし、このことが(神の)一般的なオイコノミアの障害となるなら、ここでも習慣に戻り、(教会を)管理した教父たちに従わねばならない」。バシレイオスが言及している「習慣」とは、「大衆の管理」が異端者による洗礼を受け入れる慣行を認めていた「アジア」で行われていたものであった。
p.150
もし、「神の霊」が「キリストの霊」でもあるとしたら(ローマ八・九参照)、キリストは確かに神と「同一本質」である。そこで、聖霊は子の「固有の」霊である(5)と語ることが可能となり、聖霊は父と子の「両者から本質的に発出する」(6)と語ることさえ可能となる。こうした本文を注解し、こうした本文とラテン教父思想との調和を認めつつ、証聖者マクシモスは正当にも、父だけが御子と聖霊の起源である」のだから、「御子は聖霊の起源である」という意味ではなく、「聖霊は御子を通して発出し、そのことによって本性の一致を表現している」(7)と解釈した。言い換えれば、受肉以後のこの世での聖霊の活動から、三位一体の三つの位格の同一本質を類推することはできるが、聖霊と子の間の永遠の位格的関係のどのような因果関係も類推することはできないのである。
p.151
 時代が進むにつれて、「フィリオクエ」論争は言葉をめぐる論争ではなく――なぜなら、御霊は「御子から」発出すると語ることに両者が合意したであろう語義があったからである――アウグスティヌス以後の西方が認めたように、三位一体の位格のヒュポスタシス的存在はその内的な関係に還元することができるのか、それとも、本来的なキリスト教体験は、その位格的存在が共通の本質に還元できない位格の三位一体の体験であるのか、という争点をめぐるものであることがますます明らかになった。問いは、三位格性がキリスト教の宗教体験の最初で基本的な内容なのか、それとも同一本質性がそれなのか、であった。
p.173
初期ギリシャ教父たちにおけるように、「罪の赦し」という消極的な概念よりも、むしろ、「新たな誕生」という積極的な観念が、カバシラスの洗礼神学を支配している。洗礼によって入る新たな生命の中で、人間は「体験」を受け取るのである。…
 もし洗礼が新たな存在を与えるのなら、塗油――御霊の賜物――は「活動」と「運動」を、すなわち、洗礼の賜物の「自由な」人格的享受を、与えることになる。ユーカリストにおいて、キリストは「ご自身の何かではなく、ご自身そのものを」人間に与える(12)。…聖化はキリストだけからやって来るが(15)、聖性が成り立つのは、われわれの「意志」彼の神的な意志に合致させることによってである。カバシラスが教会における「聖人」という概念を論じるときには、この最後の点を明確にする。奇跡は、功績によらない神の賜物であって、聖性を成り立たせない。聖性は、人間の自由な成果なのである。
p.186
完全に水に沈められることによって行われた洗礼は、過越の秘義、古い生命から新しい生命への「過越」、サタンへの拒絶、キリストとの一致の、洗練された厳かな再現であり続けた。
p.209
 オリゲネスにとっては、本来的で知的な創造は静的である。その真の「論理的」存在は、神の本質の観想にあり、その最初の「運動」は、神への反抗の一形態である。被造物における変化と多様性とは、堕落の結果であり、したがって、根本的に悪である。
p.210
マクシモスとビザンティン神学の伝統全体にとっては、被造物の「運動」(キネシス)は、神による被造物の創造の必然的で本性的な結果である(20)。したがって、神は世界を創造することによって、神自身の外側に力動的な存在の体系を置いたのである。それは、変化し神に向かって運動することにおいて、神とは違っている(21)。したがって、おのおのの被造物のロゴイは、本質的に「活動的」であることにあり(22)、「活動」あるいは運動なしには、「本性」はないのである。
 想像された本性に関するこの力動的概念は、七世紀の「単働論者」に反対した「マクシモス」の主要な論拠を構成している。単働論者のキリスト論は、キリストの人間性は神性との統一によって、その真の「人間的活動」を失ってしまったと考えた。しかしマクシモスにとって、創造された本性は、その「固有の」活動、固有の目的、固有の力動的同一性を奪われたなら、その存在そのものを失うことになる。しかし、本性のこの固有の運動は、固有の目標(スコポス)に従う場合にだけ、完全にそれ自体であることができる。この固有の目標は、神を負い求め、神との交わりの中に入り、そのようにして、それによってまたそのために自分が創造された神的な目的、すなわち、ロゴスを成就することにある。したがって、創造の真の目的は、(近づきえない)神的な本性の観想ではなく、神的な活動への交わり、変容、世界における神的な行為を見通すこと、である。
p.226
そこでは、アダムについて語っているパウロが「一人の人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので(エプ・ホー・パンテス・ヘーマルトン)、死が全人類に入り込んだのである」と書いている。…この四つのギリシャ語の単語は、ラテン語でin quo omnes pecccaverunt(「彼において(すなわちアダムにおいて)すべての人が罪を犯した」)と訳され、アダムから遺伝され、その子孫に広がった罪過の教理を正当化するために、西方ではこの翻訳が使われた。しかし、このような意味は本来のギリシャ語からは引き出すことができないのである。…(エピの短縮形と関係代名詞ホーが結び付いた)エプ・ホーの形は、「……ので」と訳すことができるが、それは、あらゆる教派的背景に立つほとんどすべての現代の学者が受け入れている意味である(22)。この訳語によれば、パウロの思想は、アダムに対する「罪の報酬」(ローマ六・二三)であった死はアダムのように罪を犯す者たちへの罰である、という意味を持つことになる。それはアダムの罪の宇宙論的意義を前提にしているが、アダムの子孫はアダムが罪を犯したように罪を犯さなくても、彼のように「有罪」である、とは語っていないのである。
 フォティオスを含め、多数のビザンティン著作家たちは「エプ・ホー」を「ので」を意味すると理解し、パウロの本文に、アダムと他の罪人の道義的類似を超えた何物も見なかった。死は罪に対する適正な罰なのである。しかし、ローマ署五章一二節を一コリント書一五章二二節と密接に結び付けて解釈する東方教父の大部分には、復活した主と洗礼を受けた者には「生命の」連帯性があるように、アダムとその子孫には「死の」連帯性がある、という点に関して合意がある。
p.227
しかしそれは(文法的には)、直前の名詞「タナトス」(死)を指す男性形でもありうる。その場合、この文章は、アウグスティヌスに親しんでいる読者には考えられないかもしれないが、実際にほとんどのギリシャ教父が受け入れた意味を持つことができる。すなわち、「一人の人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、死が全人類に入り込んだ。そして、死のゆえに、すべての人が罪を犯した」。
p.234
 「エプ・ホー」の意味は論議の的である。最も説得力のないのはそれを厳密な関係句として扱っている。(一)「彼において」。
p.235
(ウルガータ)の翻訳in quoに基づいた解釈でアンブロシアステル以来、西方教会で一般的に使われた。この解釈は、テオフュラクトス以前はギリシャ教父には知られていなかった。しかし、もしパウロがこのことを意味していたとしたら、彼は「エン・ホー」を使うことができたはずである(一コリント一五・二二を見ること)……(四)「なぜなら、というわけで、ので」……この解釈はギリシャ教父たちが一般に使ったもので、二コリント書五・四、フィレモン書三・一二、四・一〇に基づいている。そこでは、「エプ・ホー」は通常、「ので」と訳されている。…それはこのように、すべての人間に死への個人的責任を帰している……すべての人が罪を犯した……この動詞は「集合的に罪を犯した」とか「アダムにおいて罪を犯した」と訳されてはならない。なぜなら、それは本文への付加だからである。この「ヘーマルトン」は、他の箇所のパウロの用法が示唆しているように……またギリシャ教父たちがそれを一般的にそう理解したように……人間の個人的な現実の罪を指している。この句は、人間の現実の罪が「死」への断罪の中で果たす二次的な役割……挿入語句的な役割……を表現している。しかし、なぜ「死」がすべての人間に広まったかの理由として、「原罪」の観念はこの説の前半にすでに含まれている。もし、そうでないとしたら、このパラグラフの残りの部分はほとんど意味を持たないことになる。アダムの罪の普遍的な因果関係は、五・一五a、一六a、一七a、一八a、一九aで前提されている。したがって、キリストの到来以前の人間の状態は自分自身の個人的な罪に完全にその原因があるかのように五・一五を理解するのは、このパラグラフ全体の勢いに忠実でないことになろう。
p.237
すなわち、エフェソ(四三一年)ではキリストの神性が強調され、カルケドン(四五一年)ではキリストの完全な人間性の再確認があり、次いで、コンスタンティノポリス(五五三年)ではキュリロスの神性受苦論的な思想の受容による神性の強調へと戻り、それは再度コンスタンティノポリス(六八〇年)でキリストの人間的「活動」あるいは「意志」への新たな認識へと続き、第二回目のニカイア(七八七年)の反聖画像破壊主義的な定義の中で行われたキリストの人間的特質の描出可能性の新たな認識に続く。西方の神学文献の中では依然として、ビザンティン・キリスト論は隠れ単性論であるという意見がしばしば表明され、その説明として、人間の世俗的創造性あるいは社会的創造性への関心が東方のキリスト者には欠如している点が挙げられる。
p.240
単性論者に反対して、キリストには人間の「意志」あるいは「活動」が存在することを論じる時には、それがなければ真正な人間性は考えることができないことを彼は強調する。もし、キリストの人間性が、罪を別にしてすべての点でわれわれの人間性と同一であるとしたら(またもし、人間のすべての「活動」「創造性」あるいは「力動性」を「罪」に数えることをしないなら)、その肉体、霊魂、精神において人間であるキリストは、真の人間性のこうしたすべての機能をもって実際に行為したことを認めねばならない。マクシモスが完全に理解したように、キリストの人間的活動あるいは意志は、キリストの神的な意志によって取り替えられたのではなく、神的な意志との調和を受け取ったのである。「(キリストの)二つの本性的意志は相互に矛盾することはなく……人間的な意志は(神的な意志に)従うのである」(5)。したがって、キリストにおける「人間的なもの」と「神的なもの」とのこの調和は、人間性の減少ではなく、その回復である。「キリストは本性をそれ自身との調和へと回復される。……人間となられることによってキリストは、その自由な意志を不受苦性と本性との平和の中で保たれる」(6)。(われわれが見たように)神への「参与」は、人間の本性そのものであて、その廃棄ではない。これが、神・人関係に対する東方キリスト教の理解への鍵である。
p.241
 キリストにおいては、二つの本性の統一はヒュポスタシスに即した統一である。カルケドンの教父たちによれば、二つの本性は「一つの位格(プロソーポン)と一つのヒュポスタシスの中へと一致している」。カルケドンの定式から生じた論争は、ヒュポスタシスという用語の意味の一層厳密な定義へと通じた。カルケドンは、キリストがその位格的同一性において実際に一人であると力説した一方で、この同一性を指して使われたヒュポスタシスが先在のロゴスのヒュポスタシスも指していることは明確にしなかった。東方の反カルケドンの反論がこの点をめぐって全論拠を構築したので、ユスティニアヌスの時代のビザンティン・キリスト論は、定義で言及されている「プロソーポン、あるいは、ヒュポスタシス」を、単純に古いアンティオキア学派の「統一のプロソーポン」、すなわち、二つの本性の統一から生じる新しい総合的存在、として考えようとするカルケドン解釈を排除することに非常に強くこだわったのである。それは逆に、アレクサンドリアのキュリロスに従って、キリストの独自なヒュポスタシスはロゴスの先在のヒュポスタシスであると断定した。すなわち、この用語は、カパドキア教父たちの三一論神学の中でそれが使われていたのと全く同じ意味で、キリスト論の中でも使われている、と断定したのである。三位一体の三つの永遠のヒュポスタシスの一つが、本質的に神性において同じままでありつつ、「肉をとった」のである。したがって、キリストのヒュポスタシスは、その神性においては「先在した」が、処女マリアによって人間性を「獲得した」のである。
 この根本的な立場には、二つの重要な含意がある。(a)キリストにおける神性と人間性との間には絶対的な対称関係はない。なぜなら、独自なヒュポスタシスは神的なものだけであり、人間性は神性に「従う」からである。エフェソ(四三一年)でネストリオス的であるとして拒否されたのは、まさに「対称的な」キリスト論なのである。正統派キリスト論のこの「非対称性」は、アレクサンドリアのアタナシオスとキュリロスが非常に強く強調した思想を反映している。すなわち、神だけが「救う」ことができるのであって、人間性は、神の救いの行為と意志に共働することができるだけである、という思想である。しかし、われわれが先に強調したように、教父たちの人間概念では、「神中心性」は人間性の「本性的」特徴である。


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貫地谷しほり、美しきビザンティン式建造物・東京復活大聖堂の魅力に迫る『新美の巨人たち』
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=124&from=diary&id=5576209

4月13日放送の『新美の巨人たち』(テレビ東京系、毎週土曜22:00〜)は、貫地谷しほりが“旅人=アートトラベラー”となり、東京・神田の台地に佇む「東京復活大聖堂」を訪ねる。

同番組は、旅人=アートトラベラーが、毎回作品が展示されている美術館や建築物、ゆかりがある場所などへ足を運び、作品の秘密や、アーティストの人生に迫り、より豊かな美術鑑賞の旅へと視聴者を誘うもの。

今回尋ねる「東京復活大聖堂」は、教会を建てたロシア人宣教師・聖ニコライの名から通称「ニコライ堂」と呼ばれている。日本最大のビザンティン式建造物であるこの美しい聖堂を設計したのは、“日本近代建築の父”イギリス人建築家ジョサイア・コンドル。日本との懸け橋になろうとした2人の異邦人によって、この聖堂は生み出された。美しき建築に隠された物語に貫地谷が迫る。


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