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2020年03月22日20:55

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ビザンティン神学―歴史的傾向と教理的主題 ジョン・メイエンドルフ 新教出版社 2009年4月

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p.58
もし「神化されて」いたとしたら、イエスはもはや真の人間ではありえなかった。もしイエスに知らないことがあり、苦難を受け、死ぬことになっていたとしたら、彼は端的にマリアの息子でなければならなかった。アンティオキア学派に対する現代の西方神学者たちの同情を引き付け、しかし、ネストリオス主義の出現とアレクサンドリアとの衝突を引き起こしたのも、まさに、この自律的なものとしての人間性という理解である。なぜなら、「神化」という概念こそ、アタナシオスがアレイオスに立ち向かった論拠そのものだったからである。「人間が神になることができるために、神が人間となられた」と彼は語った。…
…しかし、キュリロスにも適切な用語と柔軟性が欠けており、人間でもあろうとすることをやめた神をイエスの中に見る単性論の誘惑を恐れた人々を納得させることはできなかった。キュリロスの「受肉した一つの本性(あるいはヒュポスタシス)」という定式は、神的な本性それ自体と「受肉した神的な本性」との間の正統的な区別の余地を残し、したがって、「肉」の現実性を認識していたものの、依然として論争的で反ネストリオス的であって、キリストが誰であるかについてのバランスのとれた積極的な定式ではなかった。
p.59
 単性論派のほとんどは、エウテュケスを進んで断罪し(*1)、更にキリストの人間性はその神性と「混合されている」という思想を断罪したにもかかわらず、アレクサンドリアのキュリロスの神学と用語法には頑固に固着した。
p.60
四世紀の「古ニカイア派」が、カパドキア教父たちが導入した三つのヒュポスタシスという定式をアタナシオスが使っていなかったことを理由にして拒否したように、五、六世紀の単性論派の指導者たち――アレクサンドリアのディオスコロス、マッブークのフィロクセノス、そしてあの偉大なアンティオキアのセウェロス――は、カルケドン公会議と「二つの本性における一つのヒュポスタシス」というキリスト論定式を、キュリロスがそれを使っていなかったことを理由にして拒否した。彼らはそれをネストリオス主義への後戻りであるとも解釈したからである。単性論派の指導者たちは、カルケドンがキュリロスの用語法から離れるのを正当化するほどエウテュケス主義の危険は深刻なものではないと主張した。そして、二つの本性は統一された後でも「それぞれの固有の特徴を完全に保持している」という思想に、最も強固に反対した。…

 カルケドン派の中でも厳格な両性論派は、依然としてアンティオキア・キリスト論を頑固に主張し、「聖なる三位一体の一者が、その肉において苦難を受けた」というような神性受苦論的なキュリロスのいくつかの命題に反対した。彼等にとっては、苦難の主体は神的なロゴスではなく、マリアの息子のイエスである。しかし、それならば、キリストには主体の二重性があることになるのではないかと問われるかもしれない。カルケドンの陣営にこの党派が存在したことと、その代表者たち――四六六年頃のその死までのキュロスのテオドレトス、コンスタンティノポリスのゲンナディオス(四五八−四七一年)、その後継者マケドニオス(四九五−五一一年)など――の行使した影響力は、単性論派に、カルケドンはネストリウス派の会議でありキュリロスの否認であるとして拒否する主要な論拠を提供した。
p.61
 キュリロス的カルケドン派は、会議自体では明らかに多数派であり、キュリロスとカルケドンとの間に矛盾があることを決して認めようとはしなかった。また、用語はそれ自体が目的であるとは考えられたわけでもなく、ネストリオス主義とエウテュケス主義にそれぞれ対抗するための適切な手段に過ぎないと考えられた。厳格な両性論と区別されるキュリロス的カルケドン派の立場は、神性受苦論的なキュリロスの定式の受容によって象徴される。…
…彼らにとっては、イエスはロゴスではなく、原初の堕落に巻き込まれておらず、したがって、ロゴスとヒュポスタシス的かつ本質的に結び付いた「知性」であった。
p.62
しかし、コンスタンティノポリスのオリゲネス派キリスト論の主要な代表者であったビザンティオンのレオンティオスの文書は、親カルケドンの論争文献の武器庫の中に含まれており、「エンヒュポスタトン」という彼の観念は、証聖者マクシモスとダマスコのヨアンネスによって採用された。
p.64
 カルケドン以後、概して単性論派は「第二のキュリロス」よりも「最初のキュリロス」を好んだ。彼らの偉大な神学者セウェロスはキリストの存在における二重性を認めたが、彼にとって、この二重性は「想起の中での」二重性であった、「現実には」一つの本性あるいは存在しかなかった。この立場は直ちに単働論に通じる。「行為者は一人、行為は一つ」(1)とセウェロスは書いている。しかし、用語上の理由から、単性論派は一般的にはキリストにおける「一つの意志」という言い方に乗り気ではなかった。ネストリオスに近づいてしまう可能性があるためである。アンティオキア・キリスト論では、二つの本性は一つの共通の「意志」によって結び付いていると語ることが可能だったのである。
 皇帝ヘラクレイオス(六一〇−六四一年)のペルシャとの戦争は、ビザンティン政府を単性論派との統合政策、とりわけ、アルメニア人との統合政策に再度巻き込むことになった。ヘラクレイオスの友人であり神学顧問であった総主教セルギオス(六一〇−六三八年)は、統合のための神学定式を考案した。それによれば、カルケドンの「二つの本性」という定式は、一つの「活動」と一つの意志へと二つの本性が結び付いていることを明確化すれば単性論派が受け入れるはずであった。この政策は、アルメニアでもエジプトでも一定の成果を達成し、地域での統合が締結された。しかし、単働論と単意論とは、エルサレム総主教ソフロニオスと証聖者マクシモスに率いられた一部のカルケドン派からの強硬な反対に出会った。ヘラクレイオスとその後継者たちが与えた支持にもかかわらず、単意論は最終的に六八〇年の第六回公会議で断罪された。それは、キリストの中でそれぞれの本性はその特徴を全体として保持しており、したがって、キリストには二つの「活動」、あるいは、神的と人間的との二つの意志がある、というカルケドンの断定を再言明した。
p.65
 オリゲネスの体系では、不動性が真の存在の本質的な特徴の一つになっている。それは神に属しているが、被造物が神の意志に合致している限りでは、被造物にも属している。多様性と運動とは堕落に由来している。しかし、マクシモスにとっては、「運動」や「活動」は本性の根本的な特質である。それぞれの被造物はそれ自身の意味と目的とを持ち、それは、「彼によってすべてのものが造られた」永遠で神的なロゴスを反映している。それぞれの被造物の根拠(ロゴス)は、静的な要素としてだけでなく、それを達成すべく召されている永遠の目標、目的としても、被造物に与えられている。
 この点においてマクシモスの思想は、それぞれの本性がそれ自身の「活動」、あるいは存在の表示を持っているというアリストテレス的な概念を使っている。カパドキア教父たちも、神における三つのヒュポスタシスという教理に同じ原理を適用していた。
p.66
とりわけニュッサのグレゴリオスは、三神論であるという非難に対して自分を擁護しなければならなかった。すなわち三つのヒュポスタシスは三人の神ではない。なぜなら神の唯一の「活動」があることから明らかなとおり、三つのヒュポスタシスは一つの本性だからである。したがって、すでにカパドキア思想の中で、「活動」という概念は本性という概念と結び付いている。そこで「活動」は一つのヒュポスタシスあるいは位格あるいは行為者を反映しているのであってキリストは一つの「活動」だけを持つことができた、という単性論派の主張に反論して、マクシモスは伝統を引き合いに出すことができたのである。
 マクシモスの思想では、人間はそれ以外の被造物の中で全く例外的な立場を占めている。人間は自分の中に一つのロゴスを持っているだけではない。人間は神的なロゴスの「像」であり、人間の本性の目的は神との「類似」を達成することである。全体としての被造物の中での人間の役割は、万物を神において統一させ、分離、分割、崩壊、死という悪しき諸力に打ち勝つことである。したがって、人間の「本性的な」、神によって確立された「運動」「活動」あるいは意志は、被造物全体から疎外されてではなく、それをその本来の状態へと引き戻しつつ、神との交わり、あるいは「神化」に向けられている。

 しかし、もし人間の意志が本性の運動以外の何物でもないとしたら、人間の自由への余地はあるのだろうか。堕落と、神への人間の反抗は、どのようにして説明されるのだろうか。オリゲネスが大きな重要性を与えたこのような問いは、マクシモスの中で新たな回答を見いだす。すでにニュッサのグレゴリオスでも、真の人間的な自由は自立した人間の生にあるのではなく、神との人間の交わりに対して真に本性的である状況の中に成立する。人間が神から疎外される時には、人間は自分が自分の情念、自分自身、そして最終的にはサタンの奴隷になっているのを見いだす。
p.67
したがってマクシモスにとっては、人間が、神にある生命、神との共働と交わりを前提にしている本性的な意志に従う時に、真に自由なのである。しかし人間は、人間の本性によってではなく、各人の人格あるいはヒュポスタシスによって規定される別な可能性も持っている。すなわち、選択の自由、反抗の自由、本性に逆らう自由、したがって自己破壊の自由も持っている。この個人的な自由がアダムとエバによって用いられ、堕落の後になっては、神との分離の中で、真の知恵との分離の中で、「本性的な」存在によって確保されたあらゆる確かさからの分離の中で、用いられた。それは、ためらい、放浪、苦難を意味している。これがグノメー的な意志(グノメーとは意見・判断のことである)であって、それは、本性の機能ではなく、ヒュポスタシス的なあるいは人格的な機能である。
 キリストにおいては、人間的な本性はロゴスのヒュポスタシスと結び付き、完全にそれ自体でありつつ、その源泉がグノメー的な意志である罪から自由になっている。それはロゴス自身に「ヒュポスタシス化されて」いるので、キリストの人間性は完全な人間性である。…キリストはこのようにして、真に人間性の救い主であることができた。なぜなら、キリストには本性的な意志とグノメー的な意志との間に矛盾はありえなかったからである。ヒュポスタシスの統一によって、彼の人間的な意志は、それが神的な意志に常に合致しているというまさにその理由から、人間的な本性の「本性的運動」も行うのである。
p.68
もちろん、アルメニアの単性論派は、「本性による(フュセイ)」統一という概念を主張していた。
p.69
キリストによって担われた人間性は、彼の神性と区別されているだけでなく、「隷属」の立場に置かれていた。それは、「神を礼拝し」「清められる」立場であって、神にはふさわしくない用語である大祭司という人間的な称号は、それだけに属した。…
…その著者は、現代の研究が示しているように、他ならないアレクサンドリアのキュリロス」であるが、その祈りは(それぞれバシレイオスとヨアンネス・クリュソストモスに帰されている)二つの典礼文の一部でもある。「なぜなら、捧げたまい、捧げられるのはあなたであり、あなたがお受けになり、あなたご自身が受け取られるからです」。…「(犠牲を捧げるために)われわれが神のもとに行くのではない。そうではなく、神がわれわれのもとにまで身を低くされ、われわれの本性を担われたのである。
p.70
それは和解の条件としてではなく、肉においてわれわれに公然と出会われるためであった」(4)。
…彼らの論点は、ヨハネ福音書一四章一八節「父はわたしよりも偉大な方である」を、キリストの神性と人間性の区別に適用するのを拒否したことである。この聖書本文は、聖なる三位一体のヒュポスタシスの特徴に関わっていて、父は定義によって子より「偉大」であるが、五五三年の公会議によれば「われわれの精神において」だけ神性から区別されるキリストの人間性は、神化され、神性と完全に「一つ」であると彼らは語った。したがって、それはどのような意味でも神性よりも「小さい」ことはありえない。この見解を拒否して一一七〇年の会議は、キリストの神性に関するカルケドンと第二回コンスタンティノポリス公会議の決定を再度確認した。すなわち、キリストの神性は、「創造され、描き出すことができ、死すべき」現実的で活動的な人間性とヒュポスタシス的に結び付いているのである。このような人間性と較べれば、神性は確かに「偉大」なのである。
p.71
(*1)「単性論派のほとんどは(同じように単性論派であった)エウテュケスを進んで断罪し」たという指摘は奇異に思われるかもしれないが、アフリカのドナトゥス派にも数多くのグループがあって互いに激しく論争しあっていたように、ビザンティンの単性論派にもかなりの幅があり、互いに論争しあってもいたので、精緻さに欠けるエウテュケスの単性論は、単性論派の中でもあまり説得力を持たなかった。
p.73
そして、われわれが見ることになるように、単性論は密かにであれ公然とであれ、聖画像破壊主義者にその神学的論拠の本質を提供したのである。
…しかし、それに伴っていた心理戦の中では、イスラム教は自分が最後の宗教であり、したがって、アブラハムの神の最も高度で純粋な啓示であると一貫して主張し、キリスト教の三位一体の教理とイコンの使用とに対して、多神教と偶像崇拝であるという非難を繰り返し行った。
p.74
しかし、オリゲネス主義の周辺では、プラトン主義的霊魂論――それは物質に、神によって創造された永遠の存在があることを否定し、唯一の真の実在は「知性」であるとした――の影響を受けていたので、聖画像破壊主義的な傾向は生き延びた。皇帝コンスタンティヌスの妹コンスタンティアがエルサレムを訪問し、カイサリアのエウセビオスにキリストの画像を求めた時、彼女の受け取った回答は、イエス・キリストにおけるロゴスの「しもべの形」はもはや実在の領域にはなく、イエスの物質的な画像への彼女の関心は真の信仰にはふさわしいものではない、というものであった。
p.75
画家がキリストの聖画像を作る時には、キリストの人間性だけを描きそのことで神性から人間性を分離してしまうか、それとも人間性と神性の両方を描くかのどちらかである、とヒエリア教会会議は断定した。前者の場合には、彼はネストリオス主義者である。後者の場合には、彼は神性が人間性によって限界づけられると想定していることになり、馬鹿げている。あるいは、神性と人間性とが混同されているのであって、その場合には、彼は単性論者である(3)、ということになった。
p.76
ロゴスのヒュポスタシスに担われることによって、人間的な本性は神性と混合することはない。人間的な本性は、その完全な同一性を保持する。
p.77
 このように、キリストの画像は、「トルロス」教会会議の師父たちにとってはすでに、歴史的な受肉への信仰告白を意味していた。
p.78
神自身の意志によって、物質的な存在を担い、物質に新たな機能と尊厳とを与えることによって、神は見えるようになった。
…すなわち、御子と御霊だけが父の「本性的な像」であり、したがって、父と同一本質であるが、神のそれ以外の像は本質的にその原型とは違っており、したがって、「偶像」ではないのである。
p.82
 一人の人間としてのキリストの個人性を主張する強固な立場は、ヒュポスタシスの統一という争点を再度引き起こした。なぜなら、カルケドンのキリスト論では、キリストの独自なヒュポスタシスあるいは位格は、ロゴスのヒュポスタシスあるいは位格だからである。その場合には明らかに、ヒュポスタシスという観念は、神的な特徴とも人間的な特徴とも同一視されることはできない。また、それは人間の意識という思想とも同一ではない。ヒュポスタシスとは、個人すなわち人格的な存在の究極的な源泉であって、キリストにおいては、それは、神的であると同時に人間的でもある、ということである。
p.83
イエスが知らないことがあったという争点に関しても、ヒュポスタシスの統一という教理とそれに関連した聖書の章句とを調和させようと努めるが、その仕方は、別な理由からであるが、東方神学に通常見られるものではなかった。エウアグリオス的なオリゲネス主義では、(イエスの)無知は罪と同一ではなかったとしても、それと共存していると考えられた。堕落以前の本来の創造された知性の状態は、神を知る知識(グノーシス)の状態であった。イエスは厳密に言って、堕落していない知性であり、したがって、「神の知識」を傑出して必然的に保っており、またもちろん、それ以下の知識形態も保っていた。
p.84
ニケフォロスは、ヒュポスタシスの統一は属性の交流によって神的な知識が人間的な本性に伝えられるので、イエスにおける人間的な無知はすべて抑圧されることが「ありえた」のは認めたが、この点に関してはその伝統に対立している。神的な経綸は、実際に、キリストが人間存在のすべての側面を担うことを要請すると彼は主張する。「彼は自ら進んで、人間として行為し、知らないことがあり、苦難をお受けになった」(18)。ロゴスは受肉することによって、抽象的で理想的な人間性を担ったのではなく、堕落以後の歴史の中に、人間性を救うために存在した具体的な人間性を担ったのである。…
…「母に捧げられる大きすぎる誉れは、結局は彼女の不名誉となる。なぜなら、もし本性によってロゴスに属すものが、ロゴスを生んだ彼女にも恵みによって帰されねばならないとしたら、彼女には不滅性、不死性、不受苦生も帰されねばならないからである」(20)。
p.85
 キリストの人間性が真正であることをニケフォロスが強調したことは、時に、彼を古典的なキュリロス的キリスト論から引き離す。彼は、「ロゴスが苦難を承けたり、肉が奇跡を行う」のを認めるのを拒み、「それぞれの本性に、それに固有なものを帰さねばならない」(22)とし、彼によれば「言葉」の操作である属性の交流の価値を最小限にすることによって、神性受苦論を避ける(23)。明らかなことであるが、ソトゥディオスのテオドロスはニケフォロスよりもネストリオス主義的傾向から免れている。

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■トルコ・イスタンブールにある一度もモスクに改修されなかったバラット地区の東方正教会「血の教会」
(GOTRIP! - 02月18日 06:31)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=206&from=diary&id=5976931

ボスポラス海峡によって大陸をヨーロッパとアジアに二分されるトルコ最大の都市、イスタンブール。

ヨーロッパ側の旧市街地は、かつてローマ帝国、ビザンツ帝国、そしてオスマン帝国という大帝国の帝都として栄え、現在では「イスタンブール歴史地区」として世界遺産に登録されています。

イスタンブール歴史地区で注目されるのは、やはりアヤソフィア博物館やトプカプ宮殿、ブルーモスクといったガイドブックによく載っているようなスポットですが、世界遺産の街には興味深い歴史を持つ地区や建築物がまだまだ隠されています。

特に最近注目を集めているのがバラットという地区です。写真映えがすると若者の間で注目を集めているバラット地区ですが、実はイスタンブールにおけるギリシア人、ユダヤ人と深く関わっているスポットなのです。



ヨーロッパ側の大陸をさらに旧市街と新市街に分ける金角湾沿いにあるのがバラット地区です。急な斜面に二階窓が張り出しになったオスマン家屋や、カラフルにペイントされたおとぎ話にでてきそうな家、かと思えば、コンスタンティノープル総主教座が置かれている聖ゲオルギオス教会や、ブルガリア人が建てた聖ステファン教会、1454年に創立されたイスタンブールで最も古いギリシア人のための学校、オスマン帝国時代になってから建てられたモスクなどがあり、歴史や宗教、様々な人種が入り混じった不思議でどこかノスタルジックな地区なのです。





そんなバラットの急斜面を登りつめた丘の上に建つ、真っ赤なペイントと円形の不思議な形が印象的な建物が「血の教会」です。この地区に残る数ある歴史ある建築物の中でも、ひときわ目を引く外観が印象的な教会には、あまり知られていない興味深い歴史が隠されています。

この教会の起源はなんと7世紀にまで遡ります。



7世紀、ビザンツ皇帝の娘とその友達がコンスタンティノープルの第5の丘の上、つまりバラットのこの丘の上に女子修道院をつくったのがはじまりです。その後11世紀にはすべての聖人に捧げるための僧院がつくられましたが、ラテン帝国時代の第四回十字軍遠征のときに破壊されてしまいます。

その後1261年にビザンツ帝国がコンスタンティノープルを奪回すると、今度は聖母マリアに捧げるための一階建ての僧院がつくられ、1281年には時の皇帝の娘が再び女子修道院と教会をつくりました。

もとの姿を取り戻したかのようでしたが、1453年にメフメト2世率いるオスマン軍がついにコンスタンティノープルを陥落させました。この地に住まっていたギリシア人たちがこの教会・修道院の前でオスマン軍の侵入に必死に抵抗し、何人もが血を流したといいます。そのため、この建物はカンル・キリセ、トルコ語で「血の教会」と呼ばれるようになったのです。

しかしメフメト2世は自身のモスクの設計を手掛けてくれたギリシア人の建築家の母に、この教会を贈ることに決め、メフメト2世の次の代のスルタン・バヤジット2世もこれを認めました。

このため、オスマン時代の多くの支配者が行ってきた、教会をモスクに改修、転用する、ということを、この「血の教会」は免れることができたのです。そういうわけで、この教会はコンスタンティノープルで建設されたビザンツ時代の教会で唯一モスクに改修されなかったものとして、現在にまで残されているのです。

普段は一般に公開されておらず、礼拝の日にだけ東方正教会として公開され信者が入場できることになっています。

この街が辿った長く複雑な歴史を少しでも知って街を散策すると、きっと目に見えるものもより奥深く見えるはずです。バラット地区を歩くときは、ビザンツ時代にそこに住まった正教徒たちのことに思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

Post:GoTrip!http://gotrip.jp/ 旅に行きたくなるメディア

名前 カンル・キリセ(Kanlı Kilise)
所在地 Balat, Tevkii Cafer Mektebi Sk. No:1, 34087 Fatih/İstanbul


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