mixiユーザー(id:1833966)

2019年08月09日05:23

119 view

米本土を直接空襲する航続距離約2万キロの6発超大型戦略爆撃機「富嶽」の構想と挫折

 1100億円の国費を投じて2021年にも運用開始すべく開発中のスパコンの名称が「富岳」に決まった。「富岳」は、8月に運用を終える日本では現行最高速の「京(けい)」の後継機である。

◎太平洋と大西洋を飛び越えて米本土空爆
 「富岳」はもちろん富士山のこと。葛飾北斎の名浮世絵「富嶽三十六景」でも、名高い。ただ漢字だけは「嶽」を「岳」に簡略化した。
 僕は、「富嶽」というと、日本が太平洋戦争末期に開発を目指した6発(!)の超大型戦略爆撃機を思い出す(写真)。航続距離は、日本をさんざん空襲したアメリカのB29の3倍の1万9400キロ、太平洋を横断して、アメリカ本土を爆撃し、さらに大西洋を超えて、当時ドイツが占領していたフランスかドイツ本国の基地まで飛行する壮大な目的で設計された。
 帰りも、アメリカ本土空爆を企図した。フランスかドイツのドイツ軍基地で燃料と爆弾を補給し、今度は大西洋を渡ってアメリカ本土を爆撃し、太平洋を越えて帰還するプランで、燃料節約のため空気抵抗の低い成層圏の1万5000メートルの高空を飛ぶ計画だった。

◎構想お披露目は昭和18年5月
 計画爆弾搭載量は20トンで、B29の2.2倍だったから、ニューヨークやワシントンを空襲したら、アメリカ社会と政界、軍に恐慌を起こしただろう。
 サイズは全長45メートル(B29の1.5倍)、全幅65メートル(同1.5倍)のジャンボ級である。
 陸軍の一式戦闘機「隼」を製造した中島飛行機(現在の自動車メーカーのSUBARU)の創業者である中島知久平が構想し、昭和18年(1943年)5月に軍上層部に披露された。
 このあたり2年後の終戦という歴史を知っている後世の僕たちには、客観的に見て「時間切れ」の感はするが。

◎米本土に基地を築ける島がない
 なぜ構想されたか。すでにこの時、日本本土はアメリカ軍による空襲が行われていた。まだアメリカは空母で接近し、艦載機で空襲、という局面だったが、遠からず本土の全面空襲は不可避だった。対して日本は、アメリカ本土の近くに、占領して航空基地を造れる島がない。
 日本には、列島近くの太平洋上に南洋諸島があり、ここを飛び石伝いに占領したアメリカは、最終的に1944(昭和19)年7月、サイパン島を占領し、ここからB29で本土を縦横に爆撃できるようになった。
 当時、深刻なその懸念があった。
 だから日本も、アメリカ本土に直接、空爆する手段が構想されたのだ。

◎敗色濃厚の日本に開発余力なし
 しかし戦況の悪化は、むしろ「富嶽」を実現不可能な幻に追い込んだ。
 昭和19年(1944年)4月、陸海軍当事者・軍需省・関係製作会社が集められ、「富嶽」の研究を続行するか否かの検討会議がもたれた。
 そこの場で、「富嶽」の研究、製作に踏み切れば、他の戦闘機や爆撃機が大量に減産を招く試算が出され、あえなく研究中止になった。もう日本には、「富嶽」製作のための資材も生産設備も、また人的資源も残っていなかったのだ。

◎生産しても地上で破壊されたか撃墜か
 思えば、生産力と天然資源など物的基礎で圧倒的にアメリカに劣後し、そのために昭和20年には東京など全国でやられ放題に空襲され、昭和20年だけで太平洋戦争全体の7割という多くの犠牲者を出したのに、日本はアメリカに一矢も報いられなかった(わずかに風船爆弾の一部がアメリカ本土に届いたが)。
 「富嶽」は完成すれば、その「一矢」になるものだった。
 しかしそれも、優勢なアメリカ航空兵力に次々と撃墜されるか、その前に地上で空爆で破壊されたであろう。いずれにしろ開発陣の目指したようなアメリカ本土爆撃は、実現しなかった公算大、だ。
 しかしロケットと飛行機に憧れた少年時代を送った僕には、その「勇姿」を見たかった。

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201908090000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

昨年の今日の日記:「南樺太終戦後の惨劇、南樺太民間人に対するスターリン・ソ連の戦争犯罪を決して忘れない」

4 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年08月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031