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2019年02月06日00:53

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井伊谷城2

直満の子、亀之丞も処刑される可能性が高かったため家臣たちは信濃国の松源寺へと落ち延びさせた。そして永禄3年(1560年)、当主の直盛が義元に従って参戦した桶狭間の戦いで義元もろともに戦死すると亀之丞が呼び戻されて直親として家督を継承した。だが、この戦いを機に衰退し始める今川家と独立、飛躍していく松平家の間で遠江は揺れ動いていく事となる。そして直親が松平、ひいては徳川家康と内通しているとした政道の子、政次(道好)の讒言によって直親は今川氏真に呼び出され、釈明のため駿府を目指す途中で氏真の命を受けた掛川城主の朝比奈泰朝によって殺害された。

直親の子、虎松はまだ幼かったため故・直盛の娘で尼になっていた次郎法師が還俗して直虎を名乗り当主並びに後見人として井伊谷城主となる。直虎は直親の従姉弟の立場である。この辺りの経緯は大河ドラマでも演じられていたが直虎が男であったという説もあり、研究の余地は残されている。しかし次第に徳川寄りとなって行く直虎に対し、今川派であった政次は氏真の武力を背景にクーデターをお越し井伊谷城を占領。直虎と虎松は龍譚寺に逃げ延びる事となる。永禄11年(1568年)、直虎と関口氏経の名で井伊谷で徳政令が出されているが、同年に武田信玄が駿河進攻を開始し同調した家康も遠江侵攻を行って井伊谷三人衆と呼ばれた近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時ら周辺の豪族たちは揃って徳川方に寝返った。今川家は掛川城で滅亡し、井伊谷城は徳川軍によって奪還され政次は処刑される。

元亀3年(1572年)、信玄は西上作戦を発動し三方ヶ原の戦いで家康を壊滅させる。井伊谷三人衆は武田軍に降伏して井伊谷城を明け渡したがこの時の混乱によって城下町は炎上している。しかしほどなくして信玄が病没し、武田氏の勢いが衰えると井伊谷三人衆は家康に属して城を取り戻した。井伊谷城の廃城時期は不明であるが、龍譚寺で出家していた虎松は還俗して万千代を名乗り家康の小姓となる。そして後に彼は直政となり、徳川四天王の1人として出世街道を登って行く事となるのであった。

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