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2019年02月03日16:38

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掛川城2

一豊の去った後の城主は落ちつかず、松平氏、安藤氏、松平氏(二代)、朝倉氏、青山氏、松平氏(二代)、本多氏、松平氏、北条氏、井伊氏(三代)、松平氏、小笠原氏(二代)と実に目まぐるしく変わっている。

このうち朝倉宣正は織田信長に滅ぼされた越前朝倉氏の一族とも遠縁の駿河朝倉氏の出とも言われており定かではない。彼は徳川家光の弟で駿府藩主・忠長の御付家老であり、正式な大名ではなかった。北条氏重は北条家重臣、北条綱成の孫、氏勝の養子であった人物で元は保科正直の4男。母・多却姫(たけひめ)は家康の異父妹にあたり、大岡忠相の外祖父にもなる異色の人物である。

井伊直好は徳川四天王・井伊直政の長男でありながら本家の彦根藩を継げず、上野国安中藩主となった直勝の子。さらに延享3年(1746年)に掛川藩主となった太田資俊は江戸城を築城した太田道灌の直系である。なんともイレギュラーな城主が多い城だ。この太田氏が6代続いて明治を迎える事となる。

安政元年(1854年)、安政東海地震の被害を受けて城内建物の大半が倒壊し文久元年(1861年)までに二ノ丸御殿が再建されたものの天守は再建されなかった。現在ある天守は平成6年(1994年)に市民や地元企業からの募金10億円を利用して戦後初となる木造復元がなされたものである。他にも大手門が復元されている他、元藩士・谷庄左衛門の住居として払い下げられていた番所も残り、地震で倒壊した後に再建された二ノ丸御殿や太鼓櫓が現存している。現存する二ノ丸御殿は全国でも京都・二条城、埼玉・川越城の三ヵ所のみであり、太鼓櫓も静岡県内で現存する唯一の櫓である。廃城跡、何度か移転していたものの、昭和30年(1955年)に三ノ丸からかつて荒和布(あらめ)櫓があった現在の場所に移築され、内部で使用されていた大太鼓は二ノ丸御殿内に展示されている。

写真は番所、太鼓櫓、三日月堀
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