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2018年03月20日17:27

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原点への回帰

人の脳の重さを縦軸として年齢を横軸とする、脳の成長曲線を、見れば分かるように、昔から言い習わされてきた三つ子の魂百までという諺の通りで脳は0〜3才くらいまでにうなぎのぼりに急成長して、その後は、ほぼ横這いの線になってしまう。

刺激が多い環境で育てられたラットほど脳が重いという実験結果が示しているように、刺激は感情を発達させる。

感情が乗っているときのほうが思考の歩みが足取り力強く進んでいけるということからも、言えるように、感情の発達は思考を発達させる土台となる。

感情と思考の発達が物心付く3才くらいまでにほぼ終わってしまう、ということは、物心付く前の生育環境によって能力は決定付けられてしまい、物心付いた後から本人がいくら努力しても手遅れである、ということだ。

物心付いた後の記憶から、推して知るべしで、僕は、物心付く前までに、能力の発達を妨げる環境で育って、能力の発達の機会を逸した、と思われる。

つまりどういうことかと言えば、兄が独占欲が強い性格だったので、僕が物心付いたときからずっと、兄が母を独り占めしたがって僕を会話の輪から疎外しようとしてきたために、僕は仲間入りさせてくれない母と兄の会話の輪から関心を撤回してしまい、上の空になって空想に耽っている状態が常態になっていたのだけど、母は自分からは働き掛けることをしない受動的な性格だったので、兄からの働き掛けに対して応答しこそすれ、会話の輪に加入できない僕はそのまま放置し続けていた。

もしも目の前に人がいるのにもかかわらず上の空になって考え事に耽っている人がいたら普通の人間ならば外からちょっかいを掛けて内省に耽ることをやめさせようとするわけだけど、母が受け身の姿勢を貫いて僕に何らの刺激も与えようとしなかったことから、推して知るべしで、僕は、物心付く前から、言語をはじめとする刺激が少ない環境で育って、能力が発達しなかったと思われる。

母は兄だけを育てて僕に関しては子は放って置いても育つとでも安直に思っていたのだろう。

母が食事を作っていたりして兄と僕が二人きりになったときは、僕が何を言っても兄に言いくるめられて何も言えなくなってしまうので兄の言うことを聞く一方だったのだけど、僕は兄の言うことがさっぱり分からなかったのを覚えている。

脳の成長曲線は、3才以後は、ほぼ横這いになる、と最初に書いたけど、ほぼ横這いでも、18才くらいまでは、ものすごくほんのちょっとづつだけど、脳は成長する。

それで、時既に遅しだけど、二十世紀末にワープロ専用機が世の中に普及し出して、僕が19才になった大学二年生のときにワープロ専用機を買って、文の主語と述語を反転させるワープロの挿入機能のお陰で僕は頭が回転するようになって、思考が飛躍的に進歩し出した。

つまりこういうことだ。

たとえば「バラは美しい」という文を書き出してから挿入機能を使って述語を主語に繰り入れて「美しいバラは」とすれば展開された文が語レベルに圧縮されるからそれについて述べる述語の欄が空くために「美しいバラはトゲがある」というふうに空欄が自動的に埋まる、というふうに、主述を反転させる頭の回転が可能になったお陰で、念頭でも口頭でも紙面上でも出来なかった言葉の組み合わせの配列の組み替えがワープロの画面上で出来るようになって、言葉の概念を深化発展させていくことが可能になったのだ。

惜しむらくは、脳の成長が終わる18才までにワープロの時代が到来しなかった。

だけど、小さな問題についての大々的議論を展開して、それを圧縮して思考をコンパクト化して、ということを繰り返して、頭の中だけでは要約するということが出来ない僕がワープロの画面上で出来るようになったことによって、思考できるようになったことは、僕にとっては画期的なことだった。

たとえば「電気は流れる」という文を書き出してから主述を反転させて「流れる電気は」とすれば「流れる電気」のことを「電流」という言葉に圧縮して思考をコンパクト化することが出来ることによって「電流は磁気を発生させる」というふうに思考を要約することが出来るのだ。

国語辞書を調べ出せば、言葉の意味の説明に使われている言葉の意味も言葉を使って説明されている、というふうに、際限がなくなることから、分かるように、多くの言葉たちの組み合わせの配列を組み替えてそれを一つの言葉で置き換えるということの積み重ねによって言語体系という記号体系は重層的な階層として作られているので、記号による置き換えによって要約が出来ることこそ、要点をかいつまむ能力が欠けている僕にとっては、考えを積み重ねていくために、必要なことだった。

記号による置き換えにこそ思考の本質はあるのだけど、記号によって置き換えられたものを必要な時に念頭に呼び戻せるように頭の片隅に置いておこうとすれば忘却の彼方に追い払ってしまう、というふうに、僕の心が重層的に出来ていなくて単層的なのは、僕の心の古層に言葉が根差していなくてワープロを思考補助として表層でしか思考していないからだろう。

正常者たちが心の深層でやっている記号の組み合わせの配列の組み替えを僕はできないからワープロに代わりに思考してもらわなければならないのだろう。

ワープロ専用機がもはや世の中に存在しない二十一世紀になった現在もなお、僕にとっては、パソコンのワープロ機能は、考えをまとめ上げていくために、必須である。
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