mixiユーザー(id:766386)

2017年06月30日05:12

186 view

弁証法入門

物は一つと一つを足し算しても二つにしかならないけれど、心の領域については二つのうちのいずれでもない三つ目を補って考えて初めて理解できる、という意味で、全体は部分の総和以上であると言われる。

たとえば、赤いきつねと緑のたぬきの化かし合いを眺める天邪鬼みたいな三つの動物がバランス良く配合された存在として、人間存在は存在了解できるのだけど、きつねは正直な嫉妬の炎の権化であるという意味で赤く、たぬきは弱肉強食の動物界に住むという己の本性を隠すために植物の葉緑素の色を真似て平和そうに見せ掛ける裏腹さを意味する。

赤いきつねと緑のたぬきのように、表裏の反転している者同士は、お互いに相手に違和感を感じて対立し合うことから出発するのだけど、対話によって、相手の立場に立って考えさせられることを通じて自分の無意識に立ち返らされて、相手への違和感は表面上のものにすぎなくて裏も補って考えたならば意識と無意識が反転しているだけで本質的には自分も相手と同じだった、と気付かされて、相手のうちに自分を見出して、初めて、違和感が親近感に変わって、許し合える境地に至る。

かくて和解が成立した暁には、建前をかなぐり捨てて本音を剥き出しにする赤いきつねの立場にも、建前によって本音を隠し通す緑のたぬきの立場にも、立って考えた上で、いずれの立場にもくみさない、天邪鬼という一段高い立場に、自分も相手も、至る。

このように、お互いに自分のうちに相手を取り込んでゆくことを通じて自他共に高まってゆく運動を、哲学用語で弁証法と言う。

このように、一つと一つを足し合わせたら二つにプラスアルファとして三つ目が創発されるのだ。

確かに、自分も物で出来た世界の一部だけど、生物だから無生物とは違っていて、生命に関しては、1+1=2という数学の論理を超えた1+1=3という弁証法の論理が成り立つのだ。

すなわち、すべての物に心は存在していて、それは無生物においては物の裏面に隠れて消えている無意識的段階の心で、それは水と油という交わらない物が交わるまで対話した結果として生物に至ったときに初めて物という表面を突き破って現れてきて意識的段階の心へと高まったのだ。

生命とは、自己の限界を超えてゆく運動である。

自己が自己のうちに閉じていて他者たちに開かれないでいる限りは自己は自己の限界のうちにとどまるだろう。

社会とは、そのような自業自得で限界のうちにとどまるものではなく、人々が力を合わせて計算や打算を超えてゆく運動なのだ。

計算や打算で生きている合理主義精神からは地獄から抜け駆けしようとして釈迦が浄土から地獄へ垂らした蜘蛛の糸をよじのぼってくる地獄界の衆生たちを振り落とそうとしたカンダタの行動の結果しか出て来ないから誰も浮かばれないけれど、痛みを分かち合う精神をかなぐり捨てさえしなければ頼みの綱は切れない、ということを、芥川龍之介は、教えようとしているのである。
5 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する