mixiユーザー(id:26156846)

2015年09月01日13:15

375 view

努力

『「努力すれば報われる社会を」論は、人々の日常意識における
「努力すれば報われる」という観念とは本質的に似て非なるものです。

まず指摘すべきは、
「努力すれば報われる社会を」論における「努力」が、
きわめて狭小で、一面かつ貧弱なことでしょう。
そこでは「努力」はもっぱら「市場的に見て評価しうるものかどうか」
という点からのみ捉えられています。

人間の努力の対象が市場的評価にかかわる行為に限られないことは
もちろんです。
自然保護や環境保全の運動などの非市場的努力、
性差別や人種・民族差別の撤廃をはじめとする社会運動などにいたる
諸種の社会的活動、家族、地域における無償の努力その他貴重な努力が
あります。

しかし、「努力すれば報われる社会を」論における「努力」は、
もっぱら、どれだけ「より多く利潤を上げることができるか」
の一点に収斂するものといってよいでしょう。
本質的にリストラや非正規雇用への転換、低賃金、労働強化などによる
人件費コストの縮減にもとづく利潤の大幅増といった
「努力」をいとわないどころか、
むしろそういう工夫や効率性に向けての「努力」をこそ
高く評価するものです。

努力にまつわる人間的な力の発揮や深さ、その多面性や豊かさ、
その倫理性や真摯さが捨象されて、一点に抽象された、
狭隘で卑小な人間観が前提されています。

一般化して言えば、
資本主義的な市場的評価にかなう大きな成果を生み出す
「努力」かどうかという点で「努力」が一元化され、
その「努力」の程度に応じた報酬の差異が正当化されるということです。
従って、生計を確保するための勤労者の通常の努力より、
競争し、出し抜き、しばしば法的・道徳的に問題のある行為をも
辞さない努力が大きな報酬で顕彰されます。

普通のまじめな努力は、それだけでは取るに足りないもの、
いや、いまや“その程度では、報われることがより少なくなることを
覚悟しなければならない”ようなものへと、地位低下させられています。』

努力も、達成すべき成果も、何もかも一元化されてしまいかねないのが、
この社会の決定的矛盾かも。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する