最近、人の名前を思い出せない。
もしくは名前はよく知っているような気がするのだけど、どんな人だったのか思い出せない。
歳をとったせいもあるのだろうけど、もっと深い理由があるような気もする。
過去に学校や職場を転々としてきて、今は実家に閉じこもって論文を書く毎日。
今いる実家を除いては、自分が属する「場所」というものを失ってしまった。
同じ職場や学校に属していれば、たとえ直接顔を合わせなくても何かと名前を聞いたり見かけたりする度にその人のことを思い出す。
普段は意識していなくても、心の底のどこかでそのうち一緒に仕事をしたり、力を借りなければならないような時が来るかもしれないと思っている。
他人の評判も気になるし、自分が他人にどう評価されているかも気になるので、噂話にも耳を傾ける。
でも仕事や学校を離れてしまうと、こうした関係の多くは記憶の底に沈んでいく。
特にプライベートでも親しくした人たち以外は、その人たちとの繋がりは個人的なものというより「場所」を通じたものにしか過ぎないのだ。
「場所」を離れた後でも偶然顔を合わせるような機会があったりしたこともあったのだけど、何となく挨拶しそびれてしまい、そのまま文字通り「赤の他人」に戻ってしまった。
仕方が無いと言えば仕方が無いのだけど、記憶を失っていくというのは今まで生きた人生が薄っぺらくなっていくような気もしてちょっと寂しい。
考えてみると、社会関係の多くは「場所」の繋がりである。
好きな人たち同士が嫌いな人たちを避けて勝手に集まったからそうなったというより、最初に「場所」があって、そこに個々の人びとが入っていくのである。
「場所」との関係は、我々がこの世に生を受けた瞬間から始まる。
我々は通常家族に中に生まれる。
そこには既に親兄弟、言語、名前、身体的特徴(性別、肌や髪の色、顔立ちなど)に付する意味、物質的な生活水準などがあらかじめ用意されている。
そして、その家族は村や町や国など更に大きな共同体の中に暮らしている可能性が高い。
寺社のような聖なる場所、敬うべき神様、守るべき習わし、愛すべき郷土も決まっているし、ご近所様も入る学校も自分の好みとは別にあらかじめ与えられているし、国籍も与えられたものである。
友達でさえ、「場所」によって与えられた選択肢の中から選ぶしかない。
ひょっとすると、自分が死んだ時に埋められる墓の場所まで決まっているかもしれない。
そう考えると、最初に「私」という主体がいてそれが「場所」に入っていくというより、最初に「場所」があってそこで「私」が形成されると言った方がよいような気がしてくる。
でも、こうした「場所」というのは、形成された「私」の自我が肥大化するにつれて束縛に感じられてくる。
「家族」、「ご近所」、「学校」、「職場」、「田舎」、「郷土」、「国」なんてものが、自己実現のための障害のように感じられるようになるのだ。
近代社会の特徴のひとつは、この「場所」の束縛が緩くなったことであるといえる。
ある「場所」に属していても、それが一時的なものであると考えている限り、そこには常に「退出」の可能性がある。
それであれば、ただ同じ「場所」に属するという理由だけで、無理してイヤな人たちと付き合う必要もないし、他人の評判を過剰に気にすることもない。
いざとなったら、イタチっぺでもかましてトンズラすればよいのである(ちなみに、私の人生でもっとも幸せだったのは、職場で辞職願いを出してから実際に退職するまでの間)
でも、「場所」を自由に選べるようになったからと言って、「私」というものが「場所」の中で形成されつづける事実は変らない。
「私」自身は「場所」の産物であるし、これからもどこかの「場所」から活力をもらって生き続けないとならない。
特定の「場所」に居続けることを嫌って、あちこちを渡り鳥のように転々としていた私は、流浪の民のような存在ある。
かつては「場所」を通じてつながれていた人たちのことを忘れ、またその人たちからも忘却されてゆく存在なのである。
皆が自由に「場所」から「退出」できるようになるのは一面では解放なのであるが、他方では個々の人びとが育てられ自己実現の機会を与えられる「場所」が少なくなっていくことでもある。
「田舎」は若者の流失が加速し過疎化し、「職場」は利己的な人たちが私益をを追求する場と化し、「夫婦」はその場の寂しさを紛らわす一時的な関係に過ぎなくなり、「家族」は生産・消費・再生産を効率よくおこなう経済単位と成り下がる。
近代の「都市」という空間は、伝統的な「場所」を逃れた人たちが一時退避するために雑居しているスペースとして発展してきたようなところがあるが、今では、そうしたスペースの方が中心・主流になってしまった。
でも、そこでの孤独に耐えながらやっていけるうちは楽しいけど、都市で他人に見放されて落ちぶれたら、田舎にすごすご帰るしかない。
多くの人はそんな帰る「場所」もないので、下手するとその片隅にホームレスとして寓居し、歳をとれば無用の長物として周辺の施設なんかに追いやられ、そのうち誰の目にもつかない墓地に無縁仏として葬られるくらいしかないかもしれない。
個人の「場所」からの解放というのは見せかけの解放であり、真の自由(もしそんなものがあるとすれば)の実現にとっては有害な面が明らかになってきているような気がする。
第一に、この偽の解放により「場所」が持ちつづけている圧倒的な拘束力が見えにくくなっている。
それで、自由がないところに自由を見てしまい、その無意味さに失望する人が増えてくる。
でも、「イエ」とか「ムラ」といった伝統的共同体の崩壊や個人主義の隆盛というのは、実は「近代国家」という「場所」が他の「場所」を圧倒していった結果でもある。
近代社会というのは強制力を持つ「場所」を無くしたのではなく、それを見えにくいもの変えてしまっただけなのだ。
第二に、既存の「場所」がなくなるということは、我々の自己が「場所」抜きで形成されるようになることを意味しない。
「近代国家」を批判して、そんなもの無くしてしまえと叫ぶのは簡単なのだけど、それだけでは解決にならないのだ。
善くも悪くも我々の自己というのは「場所」において形成される。
そして、「場所」というのは我々が互いに他者同士としてつながるところ。
「場所」においてしか我々の自己が形成されないということは、我々の自己は他者の存在を前提としてしか成り立たないということなのである。
もし真の解放というのが個々の人間の自己実現なのであれば、それは「より自由な場所」を作り上げる努力なしには達成できない。
そして「場所」を作り上げるためには、好きでもない人たちとの関係を避けては通れない。
自由とは一人では達成できないものなのだ。
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