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2008年08月02日16:50

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文化的動物としてのヒト

一服しながら地面のアリの行列を眺めていたら、こんな情景に出くわした。

アリにもずるい奴がいるようで、他のアリが遠くから運んで来た重たい獲物を途中で横取りしたりする。

「よっ、ご苦労さん。ここからは俺が巣まで運んでやるよ。」

「えー、ダメだよ。これはボクが見つけたんだから。」

「いいから、それこっちによこせって。お、この野郎逆らう気か。」

「え、やめてよ。あれー。」

「さっさとよこせば痛い目にあわないんだよ。」

「えーん、えーん。(泣きながらもと来た道を引き返していく)」

無論、アリの間にこんなやりとりが行われるはずもなく、私が観察したアリの行動に勝手な意味を付しているだけである。

人間が文化を持つというのは、実は我々が日々の出来事や互いの行為にこうした主観的な意味を付しているということでもある。

人間も動物だから自然界のサイクルの中で生きている。生命を維持して、交わって、子孫を生んで、死んでいく。

人間もこうした客観的な自然の摂理に律せられていると考えれば、アリを観察する科学者みたいに第三者の立場で人間の行動パターンを分析することも可能になる。

科学者は観察される客体の気持ちなど理解する必要はない。

でも、我々が通常生活しているのはこうした「客観的」な世界ではない。

例えば、「食う」という行為は生命を維持するために必須の栄養補給なのであるが、単に腹の虫がおさまればよいという食事と家族とかパートナーと一緒にとる食事とは意味が全く異なる。

恋愛なんていうのもつきつめれば自分のDNAを後世に残すための競争の一部なんて割り切ってしまうことも可能だが、実際にアプローチをかけてくる相手をそのように扱ってしまうと身もふたもないことになってしまう。

やっぱりアプローチされる方は相手の意図をいろいろ詮索する。その意図によってアプローチの妥当性も判断される。単に肉体関係目的で迫ってくる場合は「恋愛」の意味とは異なる別のものになってしまう。

我々は現実というものをこうした主観的な意味を通じて理解しており、主観を通じて解釈された世界は「生活世界」と呼ばれる。

「生活世界」における意味というのはバラバラなものではなくて、相互に関連のある体系的な世界観を構成している。

そうした世界観を明示的にまとめれば哲学とか宗教とかイデオロギーになるのだが、それは往々にしてより包括的な暗黙の了解の一部に過ぎなかったりする。

こんな暗黙の了解が「文化」である。

すなわち、一つの世界観が多数の人たちに共有されるようになると、そこに「文化」が出来上がる。皆が同じ出来事や行為に同じ意味を付するようになるのだ。

この文化によって繋がった社会というのはアリやハチなどの「群れ」とは異なる。

社会というのは遺伝子なんかにプログラムされた本能に従っていれば自然に出来上がってくるものではない。

そこには「同じ歴史や祖先を共有している人たちの集まり」といったいろいろな意味が付されて、やっと成り立つものである。

仮に、我々がお互いをアリやハチのように扱うようになるとどうなるか想像してみてほしい。

ヒトが特定の刺激に機械的に反応するモノかケモノのようなものと理解すれば、他人が頭の中で考えていることなんか知る必要はない。

そうなれば、互いの胸の内を言語を通じて伝える必要もない。

動物をアメとムチを使って手なずけるように、人間もお互いを暴力とカネで操ろうとするだけだろう。

これで「社会」というものが成り立つかどうかは疑問である。

当たり前と言えば当たり前なのだが、実際には現代社会における制度とか政府の政策というのは生活世界における世界観を無視した上で成り立っているものが多い。

例えば、経済学の哲学的基礎となっている功利主義というのがそれで、ヒトは苦痛を最小化、快楽を最大化するものであり、それは国や時代を超えた普遍の真理であるとされている。

だから、経済学は国や文化を選ばない。自然科学と同じように米国で真であることは日本でも中国でも真である。

政治理論でも、社会秩序というのは国家が暴力や物質的な誘因を用いて利己的な個人を律している結果であるいう見方がある。共通の民族、文化、歴史なんていうのは、そうした現実を覆い隠すだけのイデオロギーにしか過ぎない。

この客観的な世界と主観的な世界の境界線というのは、人間と自然の間の曖昧な関係に根ざしている。

人間は自然の一部であるけれど、同時に自然の摂理に逆らう力も持っている。

アリやハチと違って人間の行動パターンというのは多様で複雑である。

栄養補給とか生殖活動のように生物として基本的な活動でさえ、文化によって異なる意味が与えられており、それに従って異なる制度や倫理観がある。

それで、どこまで人間の行動というのがアリやハチのそれのように行為主体の主観を無視して理解できるのかという議論が生じる。

これは人間がどこまで自然の摂理に逆らえるか(もしくは自然に逆らうことが許されるべきか)という問題とも言える。

人間が自然科学の対象であるモノやケモノに近ければ近いほど、人間を対象とする社会科学も同じ手法で人間の世界を律する法則を見つけることができる。

人間は客観的な法則ではなくて主観的な意味によって動かされるとすれば、人間の行動というのはそれぞれの行為主体の主観により異なる。

ということは、いつでもどこでも当てはまる行動パターンとして人間の行為を理解するのではなく、主観的な視点から語られる現在進行形の物語として捉えなければならない。

近代思想というのは、文化や生活世界の中に埋もれたピュアな人間を抜き出すことによって普遍的な法則を見つけようとした。

そうした普遍性の実現に人間の自由の完成を見たのであるが、結果として人間を単純な機械みたいに扱うことにもつながってしまった。

その反動から、逆に人間というのは文化にどっぷり浸かった生き物で、人間としての共通のパターンなどというのは社会生活のごく一部にしか過ぎないとする議論が力を得つつある。

個別の文化から完全に解放された単純だけど自由な人間。

濃密な文化にどっぷり浸かった複雑だけど偏狭な人間。

どちらの人間像も善し悪しがあって悩ましい。

幸いなことに、この選択肢は偽りのものである。

我々は固有な文化の中でしか自己を形成できないけれど、それを拡げていく能力も有している。

無批判に自然に身を委ねるアリみたいな存在になるのを避けるために、文化を客体化して「第二の自然」にする必要はないのだ。

こうした文化観において「国民文化」というのがどういう意味を持つのかは、また次の日記で。
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