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2024年05月06日23:34

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初期の初期

四月末日、愛知県の清須市にある、日吉神社なる所を訪問した。

なぜ、わざわざ東海地方へ?と思うかもしれないだろう。ただ、私の目的と言うのは、『はきだし皿』という、そこでしか行えない『行為』を、俺は購入しにきたのだろう。


これだけは、はっきりと言えることなのであるが、他ならぬ『俺自身のため』である。



俺自身のためって?それは、この赤い筆で『封』と書かれた、手の平サイズの盆を、境内の所定の場所で割ることで、怒りをともなう『モヤモヤ』が、晴れていくのだそう。







怒り、そしてモヤモヤ。








30の手前で、俺は自分の心にピントを合わせることを余儀なくされた。それは、母が主語ではなく、俺が主語になる、という事であった。無論、『母の期待』ではなく、『母の感情のゴミ箱』を一身に受けていた、俺は主語になってしまった。





『母が用意したレールに乗っていれば、ある程度は上手くいく』だって?では、『母が、俺が作り上げてきたレールをボロボロにし、俺が強迫観念に追われるが如く、間違った方向へ向かわせた』のに、ある程度上手くいくどころか、『本来なら、得られるはずであった栄光や進路』というものを、悉くぶっ壊しってくれたのである。



『ねえ、しんどそうやけど、何で悩んでるの?』だって。てめえは、鏡を見てねえのか?って、ここから先は、例の如く不毛ばな罵倒になるので、省略します。





閑話休題。俺がここへ来たのは、『ある事件以降で、弱っている俺につけこんだ、ぶっちぎりで殺したいクソ』を。自分の中から完全に排除するためにやってきた、のである。





さっきから「自分のために」というが、本来ならば、それを俺が実践していれば、愛知くんだりで、ここにくることもなかっただろう。この神社然り、愛知や岐阜のお姉ちゃんが、びっくりするぐらい、俺好みであるなら、それも理由になるだろう。




話は少し変わるのであるが、人間には本来、『エロス』と『タナトス』という、二つの概念が備わっているのだという。



女性が、その身体に生命を宿す事ができるという点で『エロス』を司っているのであれば、男性は基本的には『タナトス的』であると言えるだろう。何故なら、どこであっても『戦う』ことで、己の存在意義や価値を示していくからである。





素人目で恐縮だが、優しい男と、パワハラクズ野郎なら、後者の方がモテるという。やはり、後者には何かしら『タナトス的』な要素が、含まれているからではないか、と思われている。

もちろん、タナトスは『死や破壊』に向かう精神なので、男同士であったなら、衝突することは必至であろう。その際、どれだけ普段は道徳的な言動をしていても、自分を守るためなら、一線を越えたものには、一切容赦しない、という不退転の覚悟が、その目に宿っていなければならなかった。



個人的な感想ではあるが、『優しい男』というのは、とかく『ビビッている男』であるとも言い換えられる。何から?女性に嫌われることからか?それとも、ヤバい相手に攻撃されることからか?



『蔑みやパワハラは、劣等感の裏返し』というが、この手の劣等感に付きまとう感情というのが、『卑屈』であったり、『媚びる』であったりする所作である。




ビビっているから、先手必勝で攻撃するが、仕返しにこられると『卑屈』か「媚びる」か「すり寄る」か----それでも通用しなければ、その人間が行う事と言うのは、一つしかないだろう。『ビビッて逃げる』である。


確かに、その『最大限に殺したいクソ』というのが、もしかしたら俺に対して『ビビッて』いるのかもしれない。そいつを探ろうとも、決して表には姿を現さないのであった。




もしかして死んでるのか?孤独死か?いや、現在のそいつは、もはやどうでもいい。そして、本来なら、『タナトス』といういのは、自分を成長させてくれることもある。何故なら、冒険はタナトスそのものであり、エロスは逆に、成長を阻害してしまうだろう。





だが、不必要なことに対して、タナトスを発揮する必要はないだろう。他者と何かしらぶつかっているから多忙であり、エロスを満喫する時間こそがリフレッシュであり、『余暇』の過ごし方なのであろう。





と、はきだし皿を割った後、上記のような心境になっていた。そこで俺は、あることを思い出した。鳥取ループ氏や、F巻氏は、違法アップロードや、どの客層に向けているかもわからない『すかすかの歌』を、あんたはそれがやりたくて、それをしているのかい?と聞きたくなった。




その探訪やライブは、あなたを成長させてくれたのですか??それどころか、まずます、あんたたちの『株』を下げていませんか?




他者の住所を晒すこと、そして、『熱意かあるでも、必要だからでもなく、その逆だ、「熱量も必要性も、何もない。ただただ、自分の凍り付いた心を状況に一致させないと、自分の精神が保てないから」』に他ならないからである。






ここで、「状況を心に一致させる」ではなく、「心を状況に一致させる」と表現した。主語はどちらも、頭脳である「私」でありながらも、使役させているのが、「状況」なのか「心」なのかで、その人の精神状態は、まるで違ってくるのであった。少なくとも、彼ら二人に関して言えば、「何も必要とされていないどころか、顰蹙を買う、安売りしている」など、株を下げる事をやり続ける理由と言うのは、おそらく、両者ともに「凍り付いた心」が動き出そうとしている。「あの時、抑圧していた自分は何だったんだ」と。




心に目を向けるには、やはり「怒りをフルパワー」にすることだろう。即ち「ある状況下で抑圧せざるを得なかった心」は、その状況が終了しても、「それから受けた圧力によって、変形している」のである。ならば、この「抑圧せざるを得なかった状況」を求めることによって、自分自身の心を、その過去の状況と、ぴったり合わせようとしているのである。それはまるで、新海に潜って、再び浮上する時に、大量に酸素を取り込んで一酸化炭素中毒になるかの如く、体の方は「酸素が少ないのが普通」と思い込んでいるのである。もしも、彼らが立ち止まってしまえば、瞬く間に、「心が悲鳴」を上げるのである。





「状況と心」というのは、ゲシュタルトセラピー然り、「今ここ」を感じる事で、緩和されていくのだそう。






ならば、私がこの神社で、この皿を所定の場所で「割る」というこの状況も、結局は「過去の、抑圧せざるを得なかった状況」を破壊し、自分の心と、「何も恐れることはない状況」とを、一致させる必要がある、という証左であったのだ。







「継続は力なり」とは言うが、さりとて「間違った前提の努力」による結果は、かならず本心とは異なるものが生まれるのであろう。それは、かつてのクズのサークル然り、そしてオ〇ニー野郎然りであった。






特に後者に関して言えば、縁切れた一瞬の方を、俺はよく覚えていた。俺の心が弱っていたなら、必ず自分の方に来るだろう、と。

だが、俺の心及び表情が、とても弱っているどころか、剣呑な眼差しになったことを、これが理解した時に、結末は決まっていたようなものであっただろう。当り前だ、「利用しようとする」人間のとこに行くなんて、心の病気に決まっているだろう。では、その病気がもし完治したらどうなるかって?心置きなく、「利用したり、上下つけてきた」ヤツに対する『当然の報い』を与えるに決まっているだろう。弱っていたのは、俺の勝手だ。だが、そこに付け込んだのも、お前の勝手だ。だから、俺は心を元に戻して、お前の息の根を止め(以下略)。






そして、その晩に、ワン切りから、二度と連絡はなかった。もう道具として、利用できないと気が付いたのであろう。もはや、一切の痕跡を消したいに決まっている。








究極の所、人は、『俺か、俺以外か』の二つしかない。そして、そこに「俺以外のそれらの中で、俺にとって必要なものと、不必要なもの」を『選別する』ことが、必要不可欠であった。そして、それに即して言えば、この『選別する』という能力が、俺の問題、そして外部のそれも相まって、致命的に俺に欠けていたのである。付き合い止めたきゃ、勝手に止めろ。結局、崩壊する発端は、その一部しかいないのである。そして、無辜なものを食い物した報いを、受けさせるのは道理である。




そして、この皿を割った後にもう一つ気が付いた。中三の春から、約20年経過して、その間の俺と言うのは、いつもその視界には、『トラブルを起こして、責任取らずに逃げる奴ら』の顔が張り付いていたのであろう。覚悟や責任がない人間は、早晩、誰も口にしなくなる。そして、放っておいても、勝手に死ぬ。文字通り本当に死ぬではなくて、噂が知れわたって、誰とも「連帯」することが出来なくなった、惨めな当人らの顔を、高い所から嗤っているのだろう?誰が?それは分からない。相当恨み買ってるだろうな、こいつは。


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