どうやら私の場合は、自分でもとっくに気づいていたのだど、独り言が尋常ではない。
それは、『頑張るぞ!』とか「あ〜〜ダル―――」など、つい本音が口走ってしまう、という類のものではなかった。
『殺す、絶対』から始まって、『俺の信用を、ちゃんと守らなかったクズにケジメ(暴力と追い込み)とってやるわ』というものであった。
はっきり言って、不穏そのものである。
それは、帰宅途中でも呟いているらしく、家に到着する寸前では、ピークに達しているようであった。
人間、誰しも得手不得手があるし、良い所も悪い所もあるだろう。
私は、他人からイケメンと呼ばれるかもしれないし、『面白い〜〜!!』と言われることもあった。自分でいうのも何だが、モテる要素っていうのを、兼ね備えているのかもしれない。
自分でも、他者に嫌な事を押し付けるような真似は、決してしないだろう、と思っていた。
ただ、私の欠点というのは、さっきも言った通り、尋常ではないレベルの独り言であった。しかも、不穏そのもである。
ポリさんに通報されるレベルのものかもしれない。
なぜ、そのような事になったのだろうか。
原因は既に分かっている。
自分を守るために、怒るべき場面で怒っていないからだ。
それが、母が教師という、私の心の蓋が外れたときに、噴出したのであった。
さて、怒る対象ってのは何だろうか。
怒ると切れるの違いについて、考えた事があった。
キレるってのは、⓵限界まで我慢して、キレる、つまり怒りを潜伏させていた、という場面と、
⓶「キレる=癇癪を起す」という行動に出れば、他者を御することができる、とした場合だ。
前者は、その人が怒りをため込みやすいがために起こり得るが、後者の場合は、それを「方便」として利用していることは明白だろう。
この結果、起こりえることは、同様に二つのパターンが考えられる。
⓵怒りをため込むということは、「攻撃」してくる人間に対して、反撃しないということを意味する。これははっきり言って、心の病気だろう。こういう性質の人に対して、後者の如き人間は、奴隷の如く、手前の自尊心を満たすため、徹底的に奴隷として、その人のそれを搾取するのであった。ならば、この手合いに対して、普通の人間はどうするか。
もちろん「怒る」のである。筋の通らないことに対して、「お前、調子に乗るなよコラ…」とか「ふざんけんなよ、てめえ」と言って、怒るのである。もちろん、ガチンコの「怒り」を出すタイプにはビビッて近寄らないだろう。逆に言えば、仕掛けてきた人間というのは、そんなこんなで、周りと不和を起こして、イジメられるか、距離を置かれるかの二つである。「通常の場合」なら。
一方で⓶「キレる」ことを方便に使っている人間というのは、無論、それを発揮できる「状況」と「人間」というのを選んでいるのである。普通の人間が「激怒」して袋叩きどころかリンチにあうって状況になり「かけたら」、速攻で逃げるのである。当り前だ。調子こいて、洒落にならないことをしているヤツに、制裁がやってくることなど道理である。
もちろん、これについても「普通の場合」では、であった。
これらの意味で、通常は「キレる」なんて事は口にしないだろう。何故なら、怒りをため込む方も、方便として使う方も自分で「俺はキレたんじゃ!」とは言わないだろう。「あの人、キレてる」と他人が言っても、自分がいう事はほとんどない。なぜなら、キレるという言葉自体に、いずれにせよ、ネガティブなイメージが、往々にしてつきまとうからであった。
ならば、向こうが怒るなら、こっちも「怒る」が大前提である。
筋の通らない事で怒るなら、こちらも自分を守るために、その何倍も激怒しなくてはならないだろう。
そこで、一歩も引かずに戦うか、それともビビッて逃げだすか…要するに土壇場で「これだけは譲れねえ」ってものがあれば、後は根性の話になってくるのである。
いずれにせよ「怒り」を方便に使う者は、それは「キレたって事にすれば、相手を御せられる」と考えているボケと同類である。
ただ、怒りとは、自分と異物とを分断する、吹き飛ばす役割がある。
要するに、僕は「適切な状況」で怒りを封印したので、その時の反動、つまり「本心」が怒鳴り声となって噴出するのだろう。
繰り返し言っておこう、9割の長所を、1割の短所が台無しするということは、ままある。
それに即して言えば、どれだけ9割を取り繕っても、残りの1割が、その人の本質であり、どうしても変えられないものだからだ。
その1割というのは、つまり「怒り」であった、俺の場合は。
そこで、ある人たちに対して、俺は言っておかなくてはならないことがあった。
⓵中学の顧問
俺は、この人の作った船に乗り続ける必要はないだろう。結局、体罰や暴力を是としてきた人間が辿る末路というのは、かのようなものであった。明らかに、この人は一線を越えていた。そして、僕をボコボコにした部員の一人も、やってはいけないことを正当化していのたである。さんざん他者を傷つけて、それを「なかったこと、見なかったこと」にしているのであれば、その道を取るのであれば、もう「なるようにしかならない」である。
T先生の想い、命をかけても継がなくては…!ではない。
もう、そんなもん、俺はどうでもいい。
俺に優しかったのかもしれないし、確かに俺に至らない所はあっただろう。
だが、発端は、間違いなくこの人であり、あのゴリラは、その下位互換、畢竟「劣化コピー」であった。
俺が当時、やらなくてはいけなかった事、それは、「他校のハンドボール部員を調べる」ではない。
一刻も早く、それらと縁を切れ、である。緑ヶ丘のハンドボール部など、どうでもいい、俺に一切関係がない。調べなくてもいい。
ただ、俺の心の内を女性に話して、ついでに女の子と、もっと仲良くなるべきであった。
良い友達と、そして可愛い子がいれば、後はもう何でもいい。俺が楽しくなくてどうするんだって話である。
⓶高校時代
不思議なのだけど、高1のクラスも、そしてサッカー部もそうだが、どういう因果か、「自分がされて嫌な事」を、もっと弱い別の人間に置き換える、という手合いとずっと過ごさなくてはならなかった、現在、一人っ子で独り身の嘱託偏屈ジジイがいるのだが、作業終了の間際、このジジイと接することが多いが、気色悪い事この上ない。俺は他者を傷つける事がしちゃいけねえ、と思っていたが、こと「男の一人っ子」に対しては、それは通用しないどころか、悪手である。
世の中には、人に親切にされたら、良いことで返してあげよう、人に優しくされらた、もっと大切にしよう、という人間がいると思っていた、なぜなら、私は、それまでの人生の時間でしか、自分のモノサシというものを持っていなかったのである。
だが、反対に「人に親切にされたら、もっと嫌な事で返してくる」という人間が存在している、なんの躊躇もない、「クズ」そのものであった。
そして、その多くは「男の一人っ子」である。ただ僕にとって彼らは、クズではなく「ゴミ」であった。クズはクズだとしても、利用価値がある時点で、ゴミではない。もしゴミ呼ばわりしたら、完璧にそいつとの関係を絶ってしまうからであった。人格否定どころではない。存在の否定だ。人格否定なら、離れれば済むだけの話だが、「存在を否定する」ということは、それはもう、「存在を抹消する=存在を始末する=必ず殺す」といったことになる。敢えて伏字を使わないであるが、「男の一人っ子」に関して言えば、常日頃からそれを考えているぐらいで、やっと「あいこ」なのであった。少なくとも私にとっては。
さて、その偏屈ジジイ、−−−−−ハゲが俺に絡んでくる理由というのは、嫌と言うほどわかる。このハゲは、職場だけが、唯一の居場所なのであり、有能ぶれる空間なのであった。
そう考えれば、彼にとって、私に絡む時間というのは、至福のひと時ではないか、と考えている。何故なら、退勤の時間になれば、誰も相手にしないし、何なら文字通り報復されて当然の事ぐらいの事をしているのである。友達の数が多い方が正義というわけではないが、はっきり言って、こいつを庇ったり、味方になってくれるような人間がどれだけいるのだろうか。いや、嫌みでもなんでもなく、ガチで思いつかない。そのぐらい、この偏屈ジジイというのは、もはや「存在がゴミ」という他なかった。会社の中で利害関係があるうちは、周りも気持ちよくさせてやってるだろう。だが、悲しいかな、彼が「ゴミ」になる瞬間というのは、着々と迫っているのである。「俺はこの会社で、爪痕を残したるんじゃ!」と豪語してたのであるが、その爪痕といご高説の内容というのが、畢竟、他人の失敗の話か「俺という若輩」に絡むことというのが、その、何というか、哀れという他ないだろう。
一言でいうと「寂しい」のである。何故なら、他者と傷つけあって「信頼」を勝ち得た経験がないからであった。
とどのつまり、彼という人間がどういう生き方をしてきたのか、それが「今」である。何も弁解することなどない、彼こそまさに「なるようにしかならない」という人生の真理を体現していのである。
最近、ある事に気が付いた。この偏屈ジジイは、俺の顔をよく見るが、以前は睨みつけていたが、今、はっきり分かることがあった。それは「嫉妬」だけでなく「羨望」である。子どもが「あのアイスが欲しい、あのおもちゃがほしい、羨ましい…」という無い物ねだりをしている、キッズそのものであった。これが、嘱託の時まで生きてきた人間の姿であろうか。
「一人っ子」とは、それだけで病気とはよく言ったものであるが、そりゃ病気だろう。よくここまで、「他者から忌避される性質」というものを修正せずに来たな、このハゲは。言っちゃ悪いが、やはりこの人には「孤独死」しか待ち受けていないのだろう。「孤立した結果、孤独死」というのは、俺が一番通りたくないルートであったが、早い話、彼がどれだけ抗おうとも、泣き叫ぼうとも、結果は変わらないのである。
かつて、フランス革命で恐怖政治を断行したロベスピエールが、自身の最後が想像を絶するほど悲惨だったのと同様、孤独死というのが、もう現代で言う所の『罰』なのである。そしてそれは、僕には到底想像できないような恐怖であった。だって、俺はあなたじゃないし。あなたの寂しさを紛らわす道具にしないで下さい。お願いだから、きしょいから。
きしょい、気色悪い、ただひたすらに。くたばれ、なんて言わない。ただ、俺の側に近づくな。存在がゴミやねん。そして、今気づいたが、彼にとって、俺は「女」なのだろう。昔は特にそうだが、女性というのは往々にして男性よりも非力であり、そして男の欲望という者を処理するような存在であった。「怒り」を原動力にして戦う、ねじ伏せるというのは、それは「男」にしか出来ないことであった。サッカーは特にそうだが、さわやかなイメージを持つかもしれないが、やはり実際は、野球以上に「男くさい」競技である。なぜならサッカーが代理戦争であり、とどのつまり、相手を「撃破、粉砕する」といった行為に他ならないのであった。
閑話休題、どうしてもこの手合いは、「自分がされて嫌な事を、他者に転移させる」ということについては余念がなかった。というか、「一体何がお前を、そんな卑怯な真似に駆り立てるねん」と思っていたが、何の事はない。彼という存在が、一言で言えば「寂しい」ものであり、同時に「ハミる」こと、つま弾きにされることを何よりも恐れているのである。なので、他人の関心を買うために、人の秘密を売ることなど、平気どころか、何の罪悪感も無いのである。ガチのマジで。そして、そういう真似をしているので、他人が離れていくのは道理であり、クズの行為の代償というか、その末路が「ゴミ」であった。
私が思うに「自分が嫌い」というのが、一番やってはいけないだろう、と考えている。何故なら、後ろ暗い事を正当化している人間のことなど、好きになる人間などいない。少なくとも、女子はその辺りの事を、しっかりと見つめている、という場合が多いように感じていた。そして「自分が嫌い。こんなクソのようなヤツ…」というのは、転移できるに減が離れるところか、そいつがガチンコで「殺しに来る」恐れがあるって事態に直面するまで、見ないで済んでいた、というのは、彼の幸運であり不幸であろう。僕としては、こんなに「勝てるケンカ」というのは、快楽以外何物でもなかった。何故なら、揉めた発端というのが、ほぼ100%、ソイツにあるからである。「こちらの信用を破ったクズ」に対して、正当に「激怒」して、ケジメを取りに行きます。無論「ケジメ」とは殺戮の事を言います。意味わかんねえかな、俺も理解してくれると思ってないから、実演を踏まえて、実行しますわ!!
「そうはいうけど、ほならお前さん、人のこと、言えるのかいな」という意見があるだろう。確かに僕は他者に暴言も暴力も使った。だが、それに対して言い訳をするつもりは何もない。なぜなら、当時がそれだけ「頭にきていた」からである。それで向こうが「許せねえ」というのだったら、僕はそれを受けなくてはならないし、逃げも隠れもしない。あんたが気の済むまでやりゃあいい、もちろん限度があって、逆に俺が怒りだすかもしれないが。要するに、こっちがやって、向こうがやってはいけない、という道理はないだろう。むしろ「報復されて当たり前」である。換言すれば、そういう理由を作った人間が、ケジメを受け入れる事がなければ、恐れて逃げるだけであり、誠にゴミであった、クソの役にも立たない人種である。
それに即して言えば、「男の一人っ子」のソイツらというのは、誇張抜きにして「死んでつぐなう」べきであると考えていた。
そして−−−−初期の頃で言えば、高校という「乗り合わせた船内」あるいは「逃れれられない牢獄」の中で、まさに、私にとって「笑えない事態」を起こしたのが、このゴミ共であった。
職場の偏屈ジジイを含めて、彼らに共通している事というのは、「ある状況下」でしか、力を発揮することができない、という事であった。
往々にして「俺」という下を作ることで安心しているのだ、その状況が終われば、その瞬間に「滑稽な姿」というのが、大衆の目に晒されることになる。
そして、繰り返すが、普通に考えて「調子の乗っている人間」には、それ相応の制裁が待っているのである。
それにビビッて逃げて、そして次々とターゲットを変えるのであろう。
そのゴミの遊びの生贄にされるのは、これとは対照的に「怒りを封印」するタイプの人間であろう。そしてこういう人間は、そもそも自分に自信がない。
そして、「状況限定」でしか力を発揮できない、要するに「根拠なき自信や万能感」が突出している人間、というかゴミは、それを見逃さない。寄生して、とことん自尊心を奪い取る。何故なら、そうしなければ、彼らは「死ぬ」からであった。それも「孤独死」という、同情も共感も何もしない、ただのゴミの末路が待っているだけであった。
続く。
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